第5話 辞表は受理しません
翌朝。
鮫島がいつもより十分早く出勤すると、カイルのデスクの上に封筒が置かれていた。
白い封筒。表に「辞職願」と、カイルの几帳面な文字で書かれている。
鮫島はそれを手に取り、三秒ほど眺め、引き出しを開けて放り込んだ。
その上にカツ丼屋のチラシと領収書の束を重ね、引き出しを閉めた。
「おはようございます」
カイルが入ってきた。目の下に隈がある。一睡もしていないのだろう。
「おう。おはよう」
カイルの視線が自分のデスクに向かい、封筒がないことに気づいた。そして鮫島の引き出しに目を移した。
「警部。あの封筒は」
「何の封筒?」
「辞職願です。昨晩提出しました」
「知らないなあ。見てないよ」
「今、引き出しに入れましたよね」
「気のせいじゃない? 寝不足だろ、お前」
カイルの眉間に皺が寄った。
「警部。真面目に話を聞いてください」
「真面目に聞いてるよ」
「私は、あの男を見て復讐したいと思いました。聖剣があれば殺せると思いました。それは警察官として――」
「カイル」
鮫島が遮った。声の温度は変わらない。
「飯行くぞ」
「は?」
「飯。朝飯。行くぞ。命令だ」
カイルが口を開きかけたが、鮫島はもう立ち上がってトレンチコートを引っ掴んでいた。
連れて行かれたのは、秋葉原の高架下にある小さなカツ丼屋だった。
看板の文字は半分剥げている。暖簾は色褪せて、元の色がわからない。カウンター八席だけの店。だが、開店前から行列ができることもある知る人ぞ知る名店だった。
朝の九時。客は二人だけ。油で黒光りするカウンターに、年季の入った醤油差しとガラスのコップ。壁に貼られたメニューは「カツ丼」「味噌汁」「漬物」しかない。潔い店だった。
カウンターに並んで座り、鮫島が「いつもの二つ」と注文する。
大将が無言で頷き、豚ロースに衣をつけ始めた。
「ここ、来たことあるよな」
「はい。警部に初めて連れてきていただいた店です」
「いつだっけ」
「三年前です。僕が巡査に任命された日に」
油の弾ける音が、狭い店内に響く。
「カイル。お前、日本に来た日のこと覚えてるか」
「忘れるわけがありません」
カイルは目を伏せた。
「次元の穴を通り抜けて、気がついたら新宿の路上にいました。言葉もわからない。金もない。着ていたのは血まみれの鎧だけでした」
カツを揚げる油の音だけが流れる。
「通行人は全員、僕を避けて歩いていました。当然です。異世界の鎧を着た血だらけの男なんて、不審者以外の何者でもない。交番の警察官に保護されて、最初に連れてこられたのが、ある警察署の相談室でした」
「言葉も通じないのに、よく大人しくついていったな」
「剣を抜かなかったのは、周りの人々の顔を見たからです。異世界では、街で武装した人間を見れば、誰もが恐怖か殺意の目を向ける。でもこの国の人たちは、怯えてはいましたが、僕を殺そうとはしなかった。それが不思議で」
「で、そこでカツ丼が出た」
「はい」
カイルの声が、わずかに震えた。
「温かくて。甘くて。衣がサクサクで、卵がとろとろで。出汁を吸った米が口の中に広がって。僕は異世界で何年も戦い続けてきましたが、あんなに美味しいものを食べたことがなかった。涙が出ました」
大将がカツ丼を二つ、カウンターに置いた。蓋を開けると、湯気と共に出汁と卵の甘い香りが立ち上る。
「でも、それだけじゃなかったんです」
カイルはカツ丼を見つめた。
「カツ丼を出してくれた警察官が言ったんです。『大丈夫だよ、ここは安全だから』と。僕は気づいた。この国には、見知らぬ異世界人にカツ丼を出して、大丈夫だと言ってくれる人がいる。剣で人を斬らなくても、法律と制度で人を守れる国がある」
カイルは箸を手に取った。
「だから僕は聖剣を置いて、警察官になりました。日本語を三ヶ月で覚え、高卒認定試験を受け、公務員試験の勉強をして、面接で三回落ちて、四回目でようやく採用されました。誰も殺さずに悪を裁ける国で、その仕組みの一部になりたかった」
鮫島はカツ丼をかき込みながら聞いていた。
「で、昨日あいつを見て、剣が欲しくなった」
「はい」
「殺したくなった」
「はい」
「だから辞める、と」
「復讐心を持ったまま警察官を続けるのは、法の番人として不適格です」
鮫島はカツ丼の最後の一口を放り込み、味噌汁を啜った。
「カイル、お前さ」
「はい」
「俺にも昔、法律を捨てて殴りたい奴がいたよ」
カイルが顔を上げた。
鮫島はカウンターに肘をつき、火のついていないタバコを指で転がした。
「刑事になって三年目の時だ。詳しくは言わない。ただ、そいつは法律の隙間を縫って、俺の目の前で人を壊して、笑ってた。あの魔王の野郎と同じだよ」
「警部は、どうしたんですか」
「殴らなかった。その代わり、三年かけて証拠を集めて、合法的にあいつの人生を終わらせた。懲役十二年。出てきた後も前科がついて二度と同じことはできない。剣で斬るより確実に、あいつの牙を折った」
鮫島はタバコをポケットにしまった。
「復讐心があるから辞める? 逆だろ。復讐心があるからこそ、法律で仕留めるんだ。感情を動機にして、手段を法律に限定する。それが刑事だ。それが俺達だ」
カイルは箸を持ったまま動かなかった。カツ丼の湯気が、止まった時間のように漂っている。
「殺したい相手がいることは罪じゃない。実際に殺したら罪だ。お前はあの場で殺さなかった。手を伸ばしかけて止めた。止められる人間だった。それで十分だろ、警察官として」
カツ丼の湯気が、二人の間をゆらゆらと立ち上っている。
カイルが箸を動かした。カツを一切れ口に運び、咀嚼し、飲み込んだ。
「美味い、ですね」
「だろ」
「警部」
「何だ」
「辞表は、もう少し預かっておいてください」
「何の辞表? 知らないなあ」
カイルの口元に、ようやく笑みが浮かんだ。
店を出ると、秋葉原の朝の空気は冷たく澄んでいた。高架の上を電車が轟音を立てて通り過ぎていく。
鮫島のスマホが鳴った。桐生からだった。
「鮫島さん。結社から、いせあん宛に封書が届いています」
「封書?」
「脅迫状です。異世界文字と日本語の併記で『捜査を中止しなければ、お前たちの居場所に転移獣を送り込む』と。差出人は記載なし。消印は港区です」
鮫島は電話を切り、カイルを見た。
港区。六本木。真王の縄張りだ。
カイルの表情は、もう昨夜のそれではなかった。迷いが消え、静かな決意だけが碧い瞳に灯っている。
「行きましょう、警部」
「ああ」
「僕の聖剣は、この警察手帳です」
カイルが胸ポケットの手帳を叩いた。金色の桜の代紋が、朝の光を反射した。
鮫島は笑った。くたびれたトレンチコートの襟を立て、秋葉原の雑踏へ歩き出す。
「十分、警官らしいよ、お前」
第5話をお読みいただきありがとうございます。
カイルが日本に来た日の話。カツ丼を食べて「誰も殺さずに悪を裁ける国がある」と知った瞬間。このシーンを書きたくて、この物語を始めました。
ここで折り返しです。ここから物語は反撃に転じます。
次の第6話は本日12:10に投稿。捜査凍結の圧力と、鮫島の「別ルート」です。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
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