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第4話 魔王は合同会社の代表です


六本木ヒルズの隣に建つ、四十二階建てのガラス張りのオフィスタワー。


最上階のフロアに、株式会社マオウ・ホールディングスの本社がある。法人登記は三年前。資本金十億円。事業内容は「国際貿易コンサルティング及び投資業務」。帝国データバンクの信用調査では、評点は上位五パーセントに入る優良企業だった。


「見た目は完璧だな」


エレベーターの中で、鮫島は登記簿のコピーに目を落としていた。


「役員名簿、監査法人、顧問弁護士、全部揃ってる。株主総会の議事録まできちんと保管されてる。法令遵守の模範企業だよ、書類上は」


「書類上は、ですね」カイルが静かに言った。


最上階に着くと、受付の女性が完璧な笑顔で迎えた。内装は白と黒を基調にしたモダンなデザインで、壁には抽象画が飾られている。どこにも「異世界」の匂いはない。


応接室に通されると、先に二人の人間が座っていた。


一人は三つ揃いのスーツを着た弁護士。名刺には都内大手法律事務所の名前。


もう一人が、立ち上がって手を差し伸べた。


「ようこそ、鮫島警部。お噂はかねがね」


長身。銀色の髪をオールバックに撫でつけ、仕立ての良いダークネイビーのスーツを着こなしている。年齢不詳。端正な顔立ちだが、微笑みの奥の瞳だけが、どこか人間離れした深い闇を湛えていた。


名刺を差し出される。


「マオウ・ホールディングス代表取締役、真王冴理です。本日はどのようなご用件でしょうか」


マオウ・サエリ。名前を聞いた瞬間、カイルの呼吸が微かに乱れた。鮫島は気づいたが、何も言わなかった。


鮫島は名刺を受け取り、一瞥した。


「いい名刺だね。エンボス加工まで。経費で落としてる?」


「もちろん。適正な経費処理は企業の基本ですから」


真王は微笑んだまま着席を促した。


鮫島が切り出す。


「単刀直入に聞くよ。歌舞伎町の地下で運営されていた無届けの市場について、御社との関連を確認したい。市場の帳簿に、御社への定期送金の記録がある」


真王は眉一つ動かさなかった。


「帳簿ですか。拝見しておりませんので内容については何とも。ただ、弊社は数多くの取引先から正規の送金を受けております。その中に、仰る市場の関係者がいた可能性は否定しません」


「取引の内容は?」


「コンサルティング料です。海外の事業者が日本で合法的に商売を始めるための、法務・税務のアドバイザリー業務。契約書も請求書も全て保管しております」


弁護士が書類のファイルを開き、契約書のコピーを鮫島の前に並べた。


完璧だった。


印紙も貼ってある。収入印紙の額面も正確。契約書の文面は法的に隙がなく、業務内容の記載も具体的で、税務署が見ても問題を指摘できないレベルだった。


「コンサルティングの具体的な業務実態は?」


「守秘義務がございますので、個別の内容はクライアントの同意なくお話しできません。もし令状をお持ちでしたら、顧問弁護士を通じて対応させていただきます」


「帳簿の送金元の市場では、薬機法違反の薬品が大量に販売されていた。それらの輸入ルートに御社が関与している可能性は?」


「可能性という仰り方は、少し乱暴ではないでしょうか」


真王が穏やかに微笑む。


「弊社は医薬品の取り扱いはございません。定款にも記載がない。事実と異なる前提でのご質問には、お答えしかねます」


弁護士が補足する。


「任意の聴取において、仮定に基づく質問に回答する義務はございません」


鮫島の質問を、真王と弁護士は一つ残らず合法的に、丁寧に、完璧にかわしていく。


怒りも焦りもない。終始穏やかな微笑みを浮かべたまま、まるで来客にお茶を出すように鮫島の追及を受け流していた。


鮫島は刑事として二十年のキャリアがある。嘘をつく人間は数え切れないほど見てきた。だが真王は嘘をついていない。嘘をつく必要がないのだ。全てが合法の枠内に収められている。


三十分が経った頃、鮫島は悟った。


今日はここまでだ、と。


この男は、日本の法律を知り尽くしている。いや、熟知しているどころか、法律を鎧として完璧に着こなしている。下手に踏み込めば、逆にこちらが違法捜査で訴えられかねない。


「本日はありがとうございました。また改めて」


鮫島が立ち上がると、真王も立ち上がった。


「いつでもどうぞ。弊社は警察への協力を惜しみません」


そして、ふとカイルに目を向けた。


「あなたも、あちらのご出身ですか」


カイルの背筋が、目に見えて強張った。


「この国は住みやすいでしょう。食事も美味しい。法律さえ守れば、誰でも自由に暮らせる。素晴らしい国です」


真王の微笑みに、一切の感情がなかった。氷を削って作った笑顔だった。


「では、また」


エレベーターのドアが閉まった瞬間、カイルの右手が震えていた。


腰のあたりに手を伸ばしかけて、止めて、拳を握り締めている。


「カイル」


「……あの男は」


カイルの声が掠れていた。


「あの男は、異世界で『闇の魔王ゼーレ』と呼ばれていた存在です。僕の所属していた聖騎士団の仲間を、三十七人殺した」


エレベーターが無機質な電子音を立てて階数を減らしていく。四十一、四十、三十九。


「僕の目の前で。一人ずつ。笑いながら」


カイルの声は平坦だった。感情を殺しているのではない。あまりにも何度も反芻した記憶は、こういう声になるのだと鮫島は知っていた。


鮫島は何も言わなかった。


火のついていないタバコをポケットから出し、唇に咥え、無意識にコートの内ポケットを探った。ライターを探す仕草だった。


持っていないライターを。


二年前に禁煙してから、一度も探したことのないライターを。


エレベーターが地上階に着いた。ドアが開く。六本木の雑踏と排気ガスの匂いが流れ込んでくる。


「カイル」


「はい」


「お前の過去は聞いた。三十七人の仲間のことも、忘れるなとは言わない」


鮫島はエレベーターを降り、振り返らずに言った。


「だが、お前は今、日本の警察官だ。あの男を裁くのは剣じゃない。法律だ。それだけ覚えとけ」


カイルは鮫島の背中を見つめた。


くたびれたトレンチコート。猫背気味の歩き方。世界の命運を握る戦いに挑んでいるとは到底思えない後ろ姿。


けれどカイルは知っていた。


鮫島の頭の中では既に、次の一手が組み立てられている。帳簿の数字、契約書の文面、真王の一言一句を反芻しながら、法律という名の武器で、どこを突けば鎧に罅が入るかを探している。


聖騎士団の団長よりも、あの背中は頼もしいとカイルは思った。


だが同時に、あの応接室で真王と向き合った時に全身を貫いた衝動が消えない。聖剣があれば。あの場で一太刀浴びせれば。三十七人の仲間の仇を。


その考えが浮かぶこと自体が、警察官として失格だとわかっていた。


署に戻ったカイルは、自分のデスクに座り、引き出しから便箋を取り出した。


「辞職願」


三文字を書いたところで、ペンが止まった。

第4話をお読みいただきありがとうございます。

真王冴理との対峙、いかがでしたか。

そしてカイルの過去が明らかに。三十七人の仲間を殺した「魔王」が、目の前にいる。

次の第5話は本日10:10に投稿します。

カイルの辞表と、一杯のカツ丼の話。本作の心臓部です。

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