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歴史の陰 無口が世界で愛されるのには理由がある  作者: かづ


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79/90

内観



自分の穢れた部分を浄化すると言っても、あまりにも多すぎて何をしたらいいか分からないよ。


浄化しようと決めたそばから、他でもない自分自身がそれを否定してきたな。「だからやめよう」と訴えてきている。


俺ってやつは、本当に汚いんだな。


実際マジで、よく考えると俺は本当に生きていて良いのかどうか疑わしくなるレベルで汚れまくりだし、とんでもないことを今までしでかしてきたのも事実だ。その自覚は確かにある。


人は誰もが生きるために他の命を奪っている。

動物であれ、植物であれ、それらが産まれてから死ぬまでの期間である生きていた状態から、自分たちの都合で、口へと入れるために、摘み取り、消化し、糧にしている。

これを汚れと取るかどうかは分からないが、少なくとも、それをしてまで生きながらえている自分が、世界に対して何か有益なモノを(もたら)すことができたのかと考えると、世界が如何に変わろうと、胸を張って自分は糧となってきたモノよりも有益な存在だと言い切れる様にはならない。


また出た。こういう一般論をまず思い浮かべて、「悪いのは自分だけではない」から「自分は悪くない」へと主張をすり替え、逃げようとする。これは、俺が穢れている証だな。

こういうことを止めよう。もう駄目なんだ。そんな今までの延長では何も解決しなかったのだから。


自分の記憶にある行為の中で、最も心に引っかかりを持っているモノは、・・・・前世の死に際の出来事だろう。



逃げ出さない様にしなければ、別のことを差し込んでしまう。ここから逃げては駄目なんだ。


客観的な事実としては、あの日、・・・海で二人の男女が溺れ亡くなったということであるはずだ。

でも・・・主観的事実としては、自分が悪戯心を抑えずに、いや、何なら普段のイライラを解消するために起こした行為が発端(ほったん)で自分は死んだ。自業自得だ。・・・・それから確認は出来ていないが、・・・・相手もおそらく死んだだろう。・・・これは、俺が・・・殺したことになる。


これは今まで浮かんできては、自分で打ち消していた主観的な事実だ。俺にとっての真実と言ってもいい。

このことにどうしても向き合うことはしなかった。このことから目を背け、逃げ続けていたということの方が正しい。


だってこんなこと抱えながら、人生過ごし続けるなんて、出来ないよ。

こんなことを抱きしめながら、どうやって笑えばいいのか分かんないし、楽しむことだってできない。それじゃあ、生きる意味がないじゃないか。


そう考えて、自分を正当化させていた。逃げることが悪い事ではないはずと狂信していた。自分を自分で洗脳していた。


でも、いつまでも見ないふりをしても、消えてなくなりはしなかった。ましてや許されることなんて起きっこなかった。


だから、あの時ステフの言葉には心底傷ついた。今でも痛みがある。

「ここが地獄かもしれない」

そう思うとそうかもしれないと自分で同意していた。


だけど、ここを地獄だと思いたくはなかった。


だって他の人はそれなりに楽しそうにしているし、前の世界とそんなに違いがあるとは思えない世界だったから。

俺だけが地獄で、他の奴らは普通の世界で生きているなんて、ズルい!不公平だ!

だから狂信してでも洗脳してでも、忘れ、無かったことにしたかったんだ。


じゃあ、前の世界も他の皆も地獄だったらよかったか?それなら地獄を受け入れるのか?


イヤだ。

でも地獄と言われるところが、小説や伝承と違う世界であれば、そうなのかもしれない。

ここも前の世界も地獄だと考えると、そうかもしれないと思える部分はある。

今まさに苦しんでいるけど、あっちでも毎日毎日勉強をし続けて、点数が悪ければ怒られ、追い詰められて、兎に角馬車馬(ばしゃうま)のようにこき使われ、疲労し、ストレスを溜めて、苦しんで生きていた。羽目を外して一般的に楽しいという行為をして見たことはあるが、特に何かが満たされるということは無かった。だから羽目を外しすぎたこともあった。どれだけ遊んでも渇きは取れず、常に次が欲しくなっていた。あれが地獄の一つだと言われれば、納得できる気もする。


周りの奴は、楽しいとか、面白かったとか言って満足そうにしている時、正直自分だけ特に満たされた感じを持てなかったのは、もしかしたら自分だけが地獄に居たからかもしれない。


俺はずっと地獄を繰り返しているのかもしれない。


そう思うと、なるほど、と納得できる。


じゃあ、死ぬか?でもそれは次の地獄に行くだけかもしれないぞ。


じゃあ、どうする。どうやったら満足する。何をしたら満たされる?


今を必死に生きるしかない。目の前のことをただ真っ直ぐに見つめて、真剣にやっていくしかない。

今までのことを全て受け入れて、抱きしめて、付き合って、それでも前を向く以外ないじゃないか。


それは本当に迷わない生き方か?


そこでようやく、自分の思考が一つまとまった。


まずは死に方を見据えよう。


ヨーロッパでも「メメントモリ」と言って、この『死を忘れるな』という意味の言葉が教会に石碑として備え置かれていると聞いたことがある。

自分がどう死ぬかを決めたら、そうなる様に生きればいいということだろう。


つまり、自分のことを認めてやれるような死に方がしたい。これだ。


じゃあ、どうすれば、認められるだろう。


全力を出して、出し切って死にたい。


でも、これは簡単なようで簡単ではない。

自分の限界ギリギリがハッキリわからない。


俺の心は弱い。最弱と言って良い。すぐに限界の線を引きたがる。そこにしておこうと終わりを付けたがる。


自分の限界ギリギリとはどこか。


それを知るためには日々自分の限界を把握するように心がける必要があるだろう。

そこで一番問題になってくることが、自分の深層心理、つまりは思考の根源、心の在り方、意志の形だ。


奥の手を隠し持ったり、相手を油断させるように振舞ったり、手を抜くことが賢いと認識したり、どこかセーブして余裕を見せることがカッコいいと勘違いしていた。


そういう人が良いと盲目的に信じ込まされていた。


なぜか。

強い者に憧れがあるからだ。底知れない力が格好良く見えたのだ。だから真似したつもりだった。


それが間違っていた。

見せかけだけ、上辺だけになってしまい、真似してみても一向に格好よくは無かった。

あらぬ方向へと努力してしまっていた。


努力を馬鹿にし、汗水たらした労働を泥臭くて嫌厭(けんえん)したくなり、情熱をかけている奴を「でも」とか「だって」と言って否定し、他人を蹴落とすことばかりに懸命になっていた。


どんな状態であれ、やり切った達成感が無い生き方は空しく、己の限界を発揮できるかどうかだけが、重要なのに、そこには触れることは無かった。自分の状態を直視したくなかった。


否定や不満を口にし、他人を馬鹿にし、蔑んで、見下している自分を自分だと思いたくなかった。


そして自分の限界を知らず、のほほんと生き続けることが正当化され、唯一の目的に変わっていた。


いつの間にか体が衰退し、動かなくなっていることにさえ気づかずに怪我をする。

それは受験明けで遊びまくっていた俺でさえ経験したことだ。

体の柔軟性が無くなり、体力が落ちていて、海に入って溺れそうになったことがあった。


だから自分のできる範囲を分かっておくことは必要だ。避けては通れない。


昔は俺だってなんでも一人で出来ると思って挑戦していた。


早く一人前になりたくて、早く親から認めてもらいたくて。

でもいつしか、親の言う通り動くことが正解だと考えるようになり、挑戦するとは何かさえ良く分からなくなっていた。

言われたことをやるという習慣が出来てしまっていたんだ。


だから深層心理が挑戦を拒否する。リスクを恐れ、着実なリターンが無いと分からないと駄目だと決めつけていた。

挑戦すること、いや、失敗することを恐ろしいと感じ、失敗で全てが壊れると信じ込み、良く分からないところへ一歩踏み出すことを躊躇する。


誰かに大丈夫だと背中を押されないと踏み出していいのかどうか、自分で答えを出せないようになっていた。


だから人に相談したんだろう。

弟に相談して、何か自分なりの手ごたえを感じたかったのだ。

やっていい、こうすればいいという正解を欲しがったのだ。


でもこれってよく考えると使用人の思考じゃないか?使用人というか使われる者、奴隷の思考に通ずる気がする。


言われたらそう動けるが、自分では判断を付けたくない、怒られたくない、決断しない。責任を取りたくない。

こんなことでは騎士になるなど、出来ようはずがなかった。


それも前世の学校教育の影響か、正解はあると信じていた。

いや、これを学校のせいだと責任転嫁するのはまた自分の汚い所だな。

俺が思い込んでいたモノだ。


どんなことでも方程式のように手順通り進めばいいと言って、それを欲しがったのは俺だ。


だが、往々にして結果を見て原因を探ることの方が多い。

それで方程式が出来上がると信じていたが、そうではない。

成功者が語る方程式は、敗者には成立しない方程式ということだ。


そこから学ぶのは自分なりの方程式を生み出せる者だけが、成功するということだ。他人の猿真似は所詮中身が伴わないと相場が決まっている。


人生に答えが無いと言われるのは、そういう事だ。

完璧に同じ条件を備えた人間などいないのだから。


不幸なことに敗者は自分がおかしい、自分がどこか間違えたからだと責める。そして本当に悲しい現実を作り出してしまう。


世の中を見ると、世界が変わっても意識が変わらなければ何も変わらないのだと漸く気づいた。


アントニオの声が自然と俺の中で響いた。

「今回の人生で騎士になることを決心して、この騎士試験に全てを懸けるのであれば、全てを懸けるとはどういう事か考えてみろよ」


自分が未だ騎士になるのだと決めていなかったことに気がついた。

俺は騎士という称号を片手間で取る、自動車の運転免許のようなものだと思っていた。

騎士とは騎士としてしか生きないと決めることだ。


人生を何かに決めることは自分の道を塞ぐことになると信じて、それは愚かで悪いことだと思い込んでいた。


実際は決断できず、何も決めない、宙ぶらりんの放蕩息子(ほうとうむすこ)になっただけだ。


それを今ようやくわかった。二回目にしてようやくわかった。


人生とは何かを決めることだ。決断だけが人生を輝かせてくれる。

塞ぐことで初めて全力が出せるようになる。断念することで迷いがなくなるからだ。

大切にしたいモノを決断して、それ以外を断念するから力を十全に発揮することができるようになる。


今まで本当に何もかもそのままで、生きていたな。つまりは優柔不断の根無し草だった訳だ。


以前のように好き勝手出来る環境では無かったから、ここまで生きて来れただけかもしれない。

それは(ひとえ)にこの世界の貴族社会とバーンベルクの血がそうさせてくれていたに違いない。


自分が全ての力を出し切って死ぬと決め、それが騎士として死ぬことだと決め、今までこの世界で居場所をくれたバーンベルクの為だとしたら、それで俺は満足して死ねるだろうか。


イヤ、それだけでは足りない。


バーンベルクの為、騎士として死ぬと決めても、それは大きすぎる。大雑把すぎる。中身が無い。猿真似になってしまう。

それでは本当に何か核のようなモノを決め切れていない気がする。


大雑把な概念に向かうのはやめよう。


それでは顔が見えない。最後の最後で力を出すことができない気がする。力を出すには、出し切るには、大切な人、父上、母上、アントニオにステフ。そしてマリーナ。彼らの為に、彼女の為に俺は命を捧げよう。その人達の為に自分の在り方を生き方を決めよう。その人達が誇らしいと思ってもらえるように、己を律しよう。


それが俺の騎士道だ。

たとえどれだけの罪を犯していようと、この命は彼らの為に使い切る。

その為に生まれて来てた。絶対にそうだ。





そこで目を開けて、2週間後に迫った騎士試験に向けて修業を始めることにした。



最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。

精鋭の読者のお陰で続けられています。

本当にありがとうございます。


喜怒哀楽の何か感じたら、評価、ブックマークをお願いします。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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