人生に自由がない⑨
彼は自分の中に溜まっていた息を大きく掃き出し、体の力を抜いた。
それから私の眼を軽く睨むような目つきで射抜いた後、少し姿勢を正し、テーブルに肘を立て、顔の前で両手を組みんで真面目にそしてなんだか仮面をつけられたような感情の抜けた表情に変わった。
私はそれを見て失敗を予感しつつも、気取られないように彼を見つめ返した。
「キャロルは今まで付き合ってくれた仲間だから、あまり厳しいことを突き付けるつもりはないが、一つ教えると君は公爵家を勘違いしている」
「え⁉」
言われた内容が意味が分からなかった。
公爵家を勘違いしているとはどういうことだ。ログレス家の何を分かっていなかったのかがつかめずに、思考が止まった。
「本能は人間に備わった捨て去ることができないモノだ。確かに生きる上では大切であり、それを否定するのは難しい。だから私がキャロルを頼るのは運命や本能が導いたことだとするのならば、私の性欲から発生した選択ともいえるかもしれない」
この言葉の意味は分かりやすかった。だって自分の内容を繰り返しただけだから。
「だからこそ、だ。公爵という人間はそれを乗り越えた人間にならねばならん」
ロレンスが言い切った言葉は信じられなかった。
これは人間の肉体に備わったそれを否定することだ。否定する存在が公爵という事になる。そんな人間が未だ見たことが無い。いるはずがない。詭弁だと心では思ったが、目の前のその人の眼は真剣そのものだった。
「他の人間と同じことしかできない人間に、公爵を名乗ることなど許されない。当たり前だろ。特別な人間だから特権があるのだ。そして特別で在ろうとし続ける人間でなければ、それは成しえない。キャロルはそういうところを理解しようとしなかったから公爵家から暇を出されたのだな」
思ったよりも自分の根底としていた部分が全くの逆を向いていることに気づいた。
欲望に抗う人間などいるはずがないと高をくくっていた。
欲望のままに動くことが人間である証明だと思っていたが、公爵とはそれを否定する存在だと理解はできなかった。
だって食事をしたり、睡眠を取ったり、普通の人間と変わらない事しかしていないではないか。
だから今言っていることが口先だけのことだと思った。そうであるはずだと信じたかった。
そう考えていると再度言葉を掛けられた。
「特別で在ろうとするのは本当に苦しいことだ。人間は皆ほとんど変わらない性能を持っている。それぞれ得意不得意はありながら、些細な違いを持ち、でも根本的な部分で共通している。その人間が特別であると振舞う必要がある。それはとても苦しいことだ。だからこそ、だ。その苦しさを受け入れ、その苦しさの中生き続けることが公爵といえる。楽して権利だけ貪ろうとする人間になってはならん。それは他の国では知らないが、この国では許されん。そう教え込まれるのさ。小さい時からな。そしてその意味その理由を常に忘れない人間だからこそ、貴族という特権を振るう人間になれるんだ。平民と同じではだめだ。別に平民を軽蔑している訳ではないが、特別であることの裏には責任と克己心と自省無くしては務まらないのだ」
確かに私は貴族とは生まれ以外の所で理解しようとはしていなかった。
その役目や仕事を見ても、そんなことするんだ大変だなと思う程度で、特別自分のこととして見ることが無かった。
だから分からなかった。行動の裏にはそういう覚悟をしていたことを。
「正直君にこれを依頼したのは、好意というよりも貴族女性の気持ちと、私に対して仕える気持ちが無いと思ったから頼んだ。そう理性的に判断した。確かに本能的に閃いてそれを裏付ける理屈を付けたような気もするが、そんなのはどうでもいい。大切なのは私には君に対して誠実に対応したというだけだ。それが真実だ。その奥底に何があるかなんて探す必要はない。本能があるかもしれないが、誠実に嘘偽りなく自分の判断をただただ行動しているだけなんだ」
少し優しくそんな気はないんだと言っているが、私にはこのチャンスを逃すことがどういう事かそればかりが頭から離れない。
だから必死に食らいつく。
「そんな、そんな聖人君子いる訳がない。そんな清らかな人間いませんよ。必ずいつしか人間は堕していきます。今ではないのかもしれないけど、きっとそうなるわ。私が見て来た人間は全員そうだった。ここのお客もそうよ。お金があっても皆醜い本性を隠し持っているのよ。全員が皆本能のままに楽しんで私を汚していくわ。全員が動物のように本能のままに生きているわ。いい人ぶるのはまだそれを認めたくないからよ!」
「キャロルは父上やヴァネッサもそうだと思っているのか?」
「え⁉」
「君は知らないのかもしれないが、私はあれから父上に聞いたのだ。ヴァネッサの最後について。最後なんで自分の命を自分の手で断つことができたのか。どうしても気になったからだ」
「・・・・」
ヴァネッサについては忘れたことなどなかった。
ヴァネッサはいつも私に穏やかに接していた。ちょっとしたいじめをしても、笑顔ですり抜けるようなおっとりした人だった。
そんなヴァネッサに醜い本性があるとは思えなかったが、きっとあるのだと決めつけていた。いや、都合が悪いから別格として特例として原則から外していたのかもしれない。
「彼女は自分の運命にとても真っ直ぐに進んでいる人間だったそうだ。次女として生まれ、政略結婚の話が歳周り的に上手く回ってこなかったが、それについて親を恨むこともないどころか自分のせいだと思うような人だったらしい」
私はヴァネッサのそんな家庭事情など聴いたことは無かった。
「そんな中、我が家に仕えてくれるその心根が美しいことに魅了されたと聞く。とても清い関係だったそうだ。私が産まれてからジュリアが生まれるまで7年あった。それを考えると決して本能だけで妾にした訳ではないことは分かるだろう。それにヴァネッサは婚期を考えると父上が娶ることが最も彼女の誠意に我が家が応える手段になっていたともいえる。だから人は皆本能のまま動く者ばかりではないという事だ。特に貴族と言われる人間は普通の人間のそれに比べて理性が強いといえる。君が暇を出されることに至った経緯は知らないが、今の考え方を見る限り、貴族のそれではないと判断されたのかもしれないと思ったよ。我が家に仕える者は主人のそういう本能や欲を諫める人間であるべきだからね」
それを言われて、自分が如何にそれを考えていなかったのかが、良く分かった。
解雇通告は妥当だと思えた。私は公爵に誘いをかけることはしたが、抑制など寸暇も考えたことが無かったのだから。
「それでもヴァネッサの最後は君の言う本能に負けそうになったから選んだことだと聞いた」
辛い表情で下を俯きながら、少しずつ思い出しながら話してくれた。
「ヴァネッサは、自分を愛してくれた父上や、信じてくれた母上に対して最後まで忠誠を貫くつもりでいたらしい。しかしその信念がくじけてしまいそうになったから、自決を選んだと聞く。自分の子供ができると、何よりも大切に思ってしまい、それに苦しんだのだろう。今のまま死にたいといったそうだ。考えればもっといい方法がある様に思うが、そんな小手先の上手くいく方法で誤魔化すようなことは彼女にはできなかったのだろう。不器用な人だったともいえるし、誠実で素直で美しい人だったともいえる。『汚い人間は上手く生き延びるが、純粋な人間は早く死ぬのだ』と父上は言っていたな。だから残された我々は少しでもその純粋さに近づこうとしなければならないと、心にそれを持てるように日々自省をしなければならないと言っていた」
何を言っているのか分からない。
あのヴァネッサがそんな事で苦しんでいたなんて思えなかった。
どんな時もヴァネッサは焦りも見せなければ、怒りも、苛立ちもさえも見せなかった。
そんなヴァネッサが純粋な心を持っていることはともかく、子供への愛と忠誠心との間で苦しむなんて考えられなかった。
自分の中で言い訳すればいい。子供の方が大事になって忠誠は尽くせませんと言い訳すればいい。
多くは仕事を辞めて忠誠は無かったことにしているし、そういった場面でだけ忠誠を尽くすふりをすればいい。
それができないってそんなに純粋に忠誠を尽くすことが人間に本当にできるのか疑わしいと思った。
そう考えて目の前の青年を見ると、また自分の汚さが如実に浮き彫りになって見えるような気がした。
彼からは雪山から湧き出た清水のような煌めきを感じ、自分は肥溜めの中にとどまった臭い立つ汚水のように感じた。
吐き気がした。
これが一流の貴族との違い。
一般に貴族と平民の違いは何かと問われると、金や権力と答えられるが、本当は多くの人が分かっている。
自分たちと精神的な部分で全く違うのだと。
その気高い精神と行動力は物質では測れないことを良いことに、分からないふりをしているのだ。
それを認めることができないからこそ、物質的な違いだけを言って、見ないふりをする。その汚さを見せつけて生きている。
綺麗事とその美しい精神を否定し、特権という優位性だけを欲しがり、本当の意味で上級貴族になれない人間が如何に多いか。
下の方の貴族は上を羨むことばかりしているが、本当の所、上に行けない理由がはっきりわかっている。
だから不満を抱き、暴動を起こすような事態は、この国では起きないのだ。
それがどれだけ難しいかを自分との違いでハッキリと分かる。
子爵と伯爵の違いが、いや、自分とヴァネッサの違いが如何に大きいか良く分かった。
自分にはこの気高い精神を作ろうという気概もなければ、逆に人の弱みを付けこむ様な足を引っ張るしか能がないことに益々目の前が暗転してくように感じた。
「私は君にベットの相手までお願いすることは無い。君は娼婦としてその道を真っ直ぐ進めばいい」
この言葉が聞いた直後から記憶がない。
いつの間にかロレンスは帰り、その際見送ることをした覚えはないが、いつの間にかその日が終わっていくところで気がついた。
それでも、だからと言って、諦められない。
プランBに賭けるしかない。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。
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あと少しでこのドロドロとお別れです。長かった。
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