職人という生き物
私は片田舎の生まれで、元来そんなに頭がいい方ではなかった。
ただ、あの時分は、親も勉強をさせることを良いことだとは思っていなかったのだ。
余計な知恵をつけてズル賢い人間になれば、親のいう事を聞かなくなる上、家業を疎かにするに決まっていると考えられていた。
だから色々な思惑が合致し、私は中学卒業後すぐに職人の道へと入った。
「手に職をつければ、くいっぱぐれがない」とよく言われていたし、近くに丁度いい鍛冶師の師匠がいたからだ。
私のように中卒で就職などザラであった。
しかし時代と共に機械化されて行き、職人といえる人は少なくなる。
すると途端にくいっぱぐれの危機が迫ってきた。
諦め、別の職に就くか、もがき続けるかの選択をすぐに迫られたが、私は元来意地と根性だけで生きてきた人間だったので、曲げることはしなかった。
と言いたいところだが、本当は何も決められないうちにずるずると時が経ち、そのまま続けていた。という方が正確である。
ただまあ、頑固な一面はあることはあるのだ。
それも良い部分もあれば、そうでない部分もある。
それまで、包丁に絞った鍛冶ばかりしていたが、それを調理器具にも広げた。
調理器具、食器業界縛りで、なりふり構わず作った。
金属加工という面だけで争うことをした訳だが、結果はギリギリ食い繋ぐことができたというだけだった。
それでもやり抜いたんだ。まあ。よくやったと自分を褒めたい。
やり通していれば色々なものも見えてくる。
小手先だけの機械製技術と、本物を比べれば、細部の美しさやこだわりが分かる。
なぜここの継ぎ目を見せているのか、見えているのにこの処置はお粗末だとか、切れ味を追求するあまり耐久性を犠牲にしたとか、維持することを無視しているとか本当に細かなところだが大事なことだ。
疎かなものを見ると気色悪いものに映った。
しかし、それらが売れる。
ただそれだけで、こっちは飯が食えなくなる。
物量に押されて使い捨ての時代が来た時、このまま職人もいつか使い捨てにされるのだろうと思った。
死ぬ前では人間自体が使い捨て?材料?部品?の時代になっていたが。
人材なんて言葉はそう言う意味だろ。
私はそれでも良い物を作っているという誇りだけは失いたくないって意地を張った。
ある意味エゴなのかもしれない。
それだけを守り繋ぐことが、前世の私の唯一の意味だとさえ思っていた。
また元々体を動かすことが、得意で、本当に小さい頃から剣道と居合をやっていた。
初めは親父が剣道の師範だった影響だったと思う。
戦争帰りの父は片田舎の小さな道場で剣道を教えていた。
戦後で腑抜けてしまったと親父は言っていたが、武道をしようと思う人間は少なくて、道場自体すぐに消滅してしまった。それでも私は意地と根性でどんな時も続けたが。
腕前は、この世界でも問題ないほどであったから、もしかしたらある意味このためにやっていたのか、と今では思っている。
とはいえ、腕前よりも己の心を鍛える事の方が一番大切だと思っている。
だってずっと一緒なのだからそうなるだろ。
心とは、記憶ではない。もっと深く、もっと根源的に繋がっているものだ。
心は、感情と理性という相反したものが様々な割合に変わると揺れてしまう。
割合は理性が大きければ精神を擦り減らし、感情が大きければ肉体が擦り切れてしまう。
整え、バランスよくすることが求められる。
鍛えるという事はこの感情と理性のバランスを保とうとすることだ。
やり方は色々あるが、何にしても時間をかけて鍛錬するしかない。
そしてこの日は初めて鍛冶工房に顔を出すことにした。
自分の武器を持っておきたかった。
今まで染みついた剣裁きがどうにも抜けない。
騎士の剣ではどうしても動きが合わないのだ。これでは殺し合いの前に心が揺れて負けるだろう。
鍛冶屋に行く道すがら昔を思い出していた。
街の一角の鍛冶屋が集まるところは鎚を振るう音が響き、とても活気を感じる。
あの時までは、成長したら鍛冶師になって、家を捨てようと思っていた。
だが、やはりそれでは駄目だと気づいた。
それはただの我儘で、今世を無視することになると気づいたのだ。
この体は様々な先祖が繋いでくれた結晶である。
確かに意識とか、魂と呼べるものは、日本で育った経験を持ったものが入っているが、少なくとも肉体は別だ。
先祖がこの地を守りながら繋いでくれたいたから、この体が産まれたのだ。
その繋がり、絆を無視した生き方は礼を欠いている。
その上、これまで育ててもらった恩も無視した生き方になる。
それでは、なぜ生まれて来たのか、なぜこの地だったのかという事の筋道が通らない。
筋が通らないことは基本我儘といえる。
「少なくとも自分にそれを無視したとしても叶えたい信念が無い限りやってはならんことだ」
これは以前の鍛冶の師匠の言葉だ。
バーンベルクの家の子供としては鍛冶師になるという選択は選べない、自ら刀を振るって領地を守ることをした方が常識に沿った生き方といえる。
そこに今世の使命がある。
そう考えたからこそ、鍛冶工房に顔を出し、知り合いを作ることにした。
それと共に、自分に都合のいい日本刀の作成に、少し融通を聞かせてもらえる関係を構築しようと考えていた。
街の中には鍛冶工房がいくつもある。
それぞれ得意するものに違いはあるのだろう。
その中で武器をメインに作ってくれるところを覗かせてもらう。
付き添いというか執事見習いとしてついてくれているジャンと一緒に工房に入る。
ジャンは以前私がニューランドの管理者として行ったときにもついてきてくれた信頼できる人間だ。
我が家と馴染みのある鍛冶屋を訪れると鉄と炉の独特の臭いが強くなる。
これだ。
前世での現役職人だった頃、工房は大体こんな感じだった。
敬遠されがちの臭いであるかもしれないが、込み上げる懐かしさの方が上回った。
なんだか自分の青春が帰ってきたような感覚に自然と高揚してしまう。
迷惑をかけないように、丁度昼休憩が終わるタイミングに来た。
「おう、どうした、追加発注か」
ジャンが前に出て紹介してくれる
「あ、いえ、今日は坊ちゃんをお連れしたんです。次男のアントニオ様です」
「どうも、アントニオです。トニーと呼んでください。いつも剣を作ってくれている皆さんに感謝と、その~、仕事場を見たくて連れてきてもらいました」
「あ?そうかい、まあ、今から始まるから、よかったら見ていってください。お構いはできませんがね」
そういってくれたのは工房主のジル・スミスという逞しい体つきとチョビ髭が特徴的だ。
ぶっきらぼうで、愛想がない感じは、どこの世界でも職人の辿り着く個性のように思えた。
「おい、そろそろ、始めるぞ」
「「へい」」
職人の数はそこまで多くない。
親方含め3人だ。
ちょっとその様子を眺めていると、工房の女将さんがでてきて、椅子を出してくれる。
「すいません、あんまりここには人は来ないもので、いいものはないんです」
「いえ、私が見たいと言って来たので」
「でもこんなの見ていても面白くないですよ」
「ハハハ、そんなことないです。皆さんが真剣にやっている姿は格好いいですよ」
それは本音だった。
前世で職人としてやっていた時、自分は本気でやっていただろうかと問われれば、やらされていたとか、仕方がなく続けていたと答えると思う。
時代の波に抗えず、仕事が減っていった時に絶望のような感覚を覚えた時もあった。
それでも自分はこれしかないから続けた。
色々作るものを変えて何とかそれにしがみついていたと思う。
それが悪い事とは今は思っていない。
むしろそれでよく乗り切ったと胸を張ることができる。
死んでみて分かるのは、辛い時逃げなかったことへの美しいといえる感情である。
逃げたとしたら、その後どんな幸福を掴んでいても、不甲斐ない気持ちと諦めることへの慣れが人生を狂わせていただろう。
仕事とは職業ではない。職人とは職業ではない。
お金を貰う手段ではない。
全て生き方だ。
辺境伯という身分になっても変わらない。
貴族は生き方だ。
騎士なら騎士の生き方。それを以前、目の当たりにしたのだ。
それは端から見たら色々な規則に縛られているように見えるかもしれない。
窮屈そうだったり、面倒くさそうに思えるのかもしれない。
だが、己の生き方を定めた人間にとってはそれに沿ってただ好き好んで進んでいるだけで、誰かに言われたからやる訳ではないのだ。
だから自由を感じ、とても清々しく行動できる。
しばらく見ていると、休憩になった。
「お、まだいたのか」
「ええ、あの、もしよかったら、剣の重心を先の方にした物って作れませんか?」
「は?それじゃ重くて、突く時手元が狂うだろうが」
「そうですね、でも一撃で切ることを目的にした剣を手にしたいのです。こう、振った時に重い一撃になるような切る剣です」
「ん?お前それどこで聞いてきた」
「え、どこでってことは無いんですが」
「自分で考えたのか」
「まあ、そういうのがあった方が良いなと思いまして」
「そうか・・・なるほどな。切るとなると反りが合った方がよさそうだな」
「ええ、片刃でいいので、飛び切り切れるやつの方が私には合うと思うので」
「ほう、面白いな」
「まだ私はペイジですらありませんが、いずれ、この地の為に力を尽くしたいと思っています。どうか力を貸してください」
「ちょっと試作してみねぇと分からんが、俺だってこの地の為にやっている。力は貸すさ」
「ありがとうございます」
「お前、名前なんてったけ」
「アントニオです。トニーでいいです」
「分かった、覚えておこう」
物作りは時間がかかる。
だけど、この人であれば、いずれ作ってくれるはずだ。
色々なヒントを渡して独自に技術を掴んでいくしかない。
代わりに見本を作ったところで、その技術に愛着を持てなければこの人だってこだわりを持って作れない。
それが職人であり、機械ではないという事だ。
それでも、愛着ある己が掴んだ技術であれば、どこまでも突き詰めることができる。
それが機械ではなく、職人のいいところである。
技術には完成というものはない。本当はどこまでも続いているのだ。
作品という結果は通過点。
そう思えなくなったら、職人ではなくなるという事になる。
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