198話 異質な剣
―― The Knight-King’s Sword ――
理由は、誰もが薄々理解していた。
だが、口にできた者はいない。
ネクロスキー卿は、剣の柄を握った瞬間、そう確信した。
力を込めても、掌が言うことを聞かない。
抜こうとすればするほど、指先から力が逃げていく。
まるで――剣のほうが、拒絶しているかのようだった。
「……っ」
歯を食いしばった次の瞬間、鋭い痛みが走った。
気づけば、掌に細い裂傷が走り、血が止まらない。
刃に触れた覚えはない。
それでも確かに、斬られていた。
この剣には、古く、歪で、祈りを嘲笑う魔法が刻まれている。
詠唱も、まじないも、意味をなさない。
剣を抜こうとした者は、例外なく血を流した。
かつての匠たちは、この剣を処分できなかった。
壊すことも、封じることもできず――
地下深く、呪いの剣として葬るしかなかったのだ。
それを掘り起こしたのが、牙王ライオネルだった。
「触れるな」
それだけを命じられ、ネクロスキーは剣を預かった。
理由は知らされない。
ただ、腰に帯び、大切に鞘を磨けと言われただけだ。
ある日、鞘を磨いていると、文字が浮かび上がった。
――『騎士王の剣』
鑑定の結果、それは疑いようのない“権物”だった。
王の証。
選ばれし者のみが扱える剣。
だが、ネクロスキーは知らなかった。
その剣が、王を拒む剣であることを。
事件は、訓練中に起きた。
相手はゼルド。
底の見えない強さを持つ男。
ふと、試してみたい衝動に駆られた。
あの剣なら、彼に通じるのか。
ネクロスキーが柄に手をかけた――その瞬間。
ゼルドが動いた。
目で追えない速さで距離を詰め、
剣を――咥え、奪った。
「――なっ」
制止する暇もなかった。
ゼルドは、そのまま剣を抜いた。
スパッ、と乾いた音。
次の瞬間、地面が裂けた。
一直線に、完璧に、世界が二つに分かれた。
息を呑む一同の中で、
ゼルドだけが、静かだった。
剣を見つめるその表情は、勝者のものではない。
どこか――悲しげだった。
牙王ライオネルは、その光景を見て悟った。
隠してきた真実を、
もはや伏せておく意味はないと。
剣の来歴を、ゼルドにだけ語った。
ゼルドは何も言わなかった。
ただ剣を握り直し、静かに頷いた。
その日から彼は、騎士王の剣を極めることを決めた。
前任の所有者が、なぜ王になれなかったのか。
なぜこの剣が、王を拒むのか。
その答えを探すために。
――そしてネクロスキーは思う。
この剣が選んだのは、
王ではない。
王になれなかった者の、後悔そのものなのではないか、と。
198.5話 閑話
―― 緋色の天使 ――
闇は、いつもと同じ匂いをしていた。
血と鉄と、焦げた魂の残滓。
北の果て、獄界。ここは我らの餌場であり、巣であり、終着点だ。
――だが、その夜は違った。
空が、裂けたのではない。
沈んだ。
光が落ちてきたのだ。
赤い。いや、緋だ。
刃のような光が闇を切り裂き、俺は思わず四肢を地に伏せた。
本能が、牙より先に逃げろと叫んでいた。
目を上げた瞬間、理解した。
敵だ。
それも、勝てぬ敵だ。
四つあるはずの俺の視界が、滲む。
見えているのに、焦点が合わない。
存在そのものが、こちらの認識を拒んでいる。
翼があった。
鳥のものではない。
天使? いや、そんな生温いものではない。
六枚。
燃えるように赤く、しかし炎の熱は感じない。
あれは――力の形だ。
「死杯のヘルか」
喉が震え、音にならなかった。
賢者どもが語る、名だけの災厄。
だが、違う。
小さい。
あまりにも。
気づいた瞬間、背中を冷たいものが走った。
人だ。
人の形をしている。
黒い髪。
金の装飾。
そして、刃。
彼女は剣を抜いていない。
それなのに、世界のほうが先に切り裂かれている。
――近づくな。
俺の中の古い記憶が囁いた。
四皇獣に仕える前の、もっと獣だった頃の恐怖だ。
彼女が、こちらを見た。
いや、見ていない。
見られているのは、未来だ。
「――でいいのに」
声は低く、静かだった。
それだけで、俺の膝は砕けた。
抵抗?
そんな概念は浮かばなかった。
もし、千の軍勢がここにいても同じだ。
彼女は剣を振るわない。
振るう必要がない。
なぜなら、あれは剣士ではない。
――決定そのものだ。
彼女は腰を下ろした。
まるで、この獄界が椅子であるかのように。
待っている。
誰かを。
その「誰か」が俺でないことだけは、確信できた。
だから生きている。
それが、何よりの証拠だった。
逃げねばならない。
だが、逃げた先に彼女がいない保証はない。
闇は、もう味方ではなかった。
この地に名が轟く理由を、俺は理解した。
理解してしまった。
――緋色の剣士、ネカァ。
敵か、味方か。
そんな問いは、人間のものだ。
魔獣である俺に許された答えは、一つしかない。
あれは、世界を変える側の存在だ。
そして獄界は、その始点に選ばれただけなのだ。




