91 ルートフェン王女達は二人の王子を迎えた
パッパルート王国に比べて、そこまで乾燥しきった土地ではないルートフェン国は、小さいながらも長閑な国だ。
農業が盛んといえば聞こえがいいが、自然だけがある国だ。つまり、特産品は何もない。そして、平和と静けさがある。
「つまりそれって、十年前と今と十年後が全く変わらない国ってことよねー。それ、時が止まっているってゆーの? 何も変わらない、時代に取り残された国ってゆーの? 要は取り残され国って奴?」
うーんと伸びをしながらお喋りするのは、第一王女カディミアと同じ髪と瞳の色をした娘だ。
その緑色の瞳には、向かいに座る青年が映っていた。
「そういう馬鹿っぽい口調はやめなさい、エルネー。ルートフェン国において二人しかいない王女の一人だという自覚があれば、自ずと立ち居振る舞いにも落ち着きと気品が出てくる筈ですよ」
「はぁい、デューレ兄様」
「返事は短く。そしてお淑やかに」
「はい。デューレお兄様」
注意された通り、静々とした口調で言い直せば、満足そうに青年は頷く。
「よろしい」
こうしてデューレが直々に自分達の社交教育をも行ってくれるからどこに行っても恥ずかしくないだけの教養が叩きこまれているのだと、皆は言う。
だが、肝心のルートフェン国王女はそこまで他国に招かれたり招いたりといったものとは縁遠いことを忘れているのではないかと、時々エルネーは思わずにいられない。
「それよりカディミア姉様、遅いけどどうしたんだろう」
「エルネー」
途端に厳しい声が飛ぶ。
ぴしっと、ルートフェン国第二王女は背筋を伸ばした。
しばらくぶりだったのでつい忘れてしまっていたが、このデューレは優しげに見せかけて、やるとなったらとんでもないスパルタ教師であることを思い出したのだ。
それこそ怒らせたら、どんなしごきが待ち受けることか。
王女の寝室まで入ってきて叩き起こす王子によって早朝から就寝前まで、まさに休憩時間はおやつの時間だけという壮絶なお仕置きレッスンに見舞われてしまう。半日だけで泣いて謝って許してもらう地獄の特訓だ。なのに、許してもらえず三日は続くのだ。
しかもそういう時、父王と母王妃は全く庇ってくれない。姉の第一王女はデューレの言いなりだ。
「カディミアお姉様、遅うございますわね。どうなさったのかしら」
「次期女王としての教育は多岐に渡りますからね。こうしてのんびりとお茶を飲むこともできないということですよ。君もいずれ、カディミアを支えることになるでしょう」
「姉様、綺麗になったもの」
ぽろっと、エルネーからそんな言葉が零れ落ちた。僅かにデューレの眉が上げられる。
「エルネー?」
何かあったのかと、視線だけで尋ねてくるデューレは外国の王子だ。
何世代おきに婚姻を重ねてはいるものの、ほとんど他人レベルで血縁は遠い。それでもルートフェン国はパッパルート王国の属国みたいなものなので、交流はかなりあった。
「ごめん、・・・なさい。何でもありません」
馬鹿なことを言ったと、エルネーは唇を噛んだ。
立ち上がって近寄ってきたデューレが、跪くようにしてその唇に自分の指先を当ててくる。
「何かあったのですか?」
その言葉は優しくて、ディッパじゃないのにエルネーは甘えたくなってしまった。
「みんなが言ってたの。姉様はとっても綺麗になったから、・・・だから、ギバティの王子もその噂を聞きつけて姉様を欲しがったんだって。だから、今回もしつこく・・・」
俯くエルネーは、何もできない。
ギバティ王国の王族といえば、どこに行っても自分が中心じゃないと気がすまない傲慢さで知られていた。
そんな国の王子に目をつけられてしまっただなんて、あまりにもひどい話ではないだろうか。
こうして、それを案じてやってきてくれたデューレだが、国力の差は歴然だ。
「馬鹿なことを。年頃になった女性が美しくなるのは当たり前ですし、君だって同じように綺麗になりますよ、エルネー」
デューレは、ギバティ王国の件については触れなかった。
だけどエルネーは知っている。
ディッパはカディミアもエルネーも一緒くたに可愛がってくれるけれど、デューレは皆に優しいようでいて、実はカディミアだけが特別なのだと。
どっちかというと、エルネーをカディミアのみそっかすみたいに扱うディッパの方が、本当はエルネーのことを見てくれている。
だけどデューレも冷たいわけじゃないと分かっているから・・・。
「そんなことない。だって、似たような顔でも違うもの。姉様は誰もがハッと振り返るものがあるけれど、私にはないし、それに女官達だって姉様は本当に綺麗になったって・・・」
こういう時は、きちんと敬語を使えていなくてもデューレは怒らない。私的な会話だからだ。
「おやおや。何を拗ねているのやら」
「拗ねてなんかないもん」
デューレはいつもエルネーを子供扱いだ。そりゃ年の差があるから仕方ないにしても、本当の意味で対等には扱ってくれない。
「そうですか。だけどエルネー、君はまだ17才でしょう。まだ、そういう女性らしさを身につける程にいたらなくても十代であれば急ぐ必要はないのですよ」
「そんなことないもん。だって、姉様と私を見て、どっかの国の大使、
『なんと、どちらも花のような姫君ですが、やはりカディミア様は気品がございますな』
って、帰り際に庭を歩きながら話してたもん。
私、ちゃんと聞いたんだからっ」
「どこで聞いたのですか? 聞き間違えでは? 離れているとそういうことはよくありますよ」
「聞き間違えなんかじゃないもん。だって私、すぐそこの木の枝の上にいたんだから」
「・・・エルネー」
ふうっと、悩ましげに息を吐くのも厭味ったらしい王子だ。
「しょうがないですね。カディミアみたいに綺麗になりたいのですか、エルネー?」
「うんっ。だって私だって、あんな風に溜め息をつかれてみたいもん。大体、姉様ってば私よりも昔はお転婆だったっていうのに、今じゃ誰もが、
『守ってさしあげたい姫君ですね』
とか言うのよっ。物憂げな瞳がたまらないとか言って」
「それを盗み聞きしている内は、君にそんな言葉をかける人はいないでしょうね」
パッパルート王宮では、自由気ままな愛らしさしかクローズアップされないカディミアだが、どうやら自分の国ではそうでもなかったようだと、デューレは思う。
いや、カディミアにとっては、自分の前だからこそ、ああやって甘えることしかできなかったのだろう。
「だけどエルネー、まだあと二年はそういうことは考えなくてよろしい。君のそういう朗らかなところを愛してくれる人を見つけた方がいいですからね。その上で、カディミアのように綺麗になりたければ協力してあげますよ」
「えっ!?」
途端にきらきらとした期待を瞳に浮かべるエルネーだ。
何故ならデューレは約束をちゃんと守る王子だ。その点、ディッパはいい加減である。約束しても忘れる。
「カディミアの綺麗になったとはどういうところだと?」
「えーっとね、女官達はね、姉様の肌もすべすべになってるし、体のラインもとっても美しくなったし、更には仕草そのものに色気があるって言うの」
「なるほど」
心当たりは沢山あるデューレだ。
「では、エルネー。君が今のカディミアと同い年になったら、そういう肌がすべすべになるような粉末や化粧水、体のラインが美しくなる為の運動と、そして仕草そのものに色気が出る動きを私がちゃんと叩きこんであげましょう」
「・・・え」
途端に、エルネーは嫌そうな顔になった。
「肌の美しさは、それだけ滑らかに擦りあげる必要があるということです。いいですか、エルネー。努力なしに綺麗になどなれないのですよ。あれはなかなか痛いらしいですが、慣れたら大丈夫です。全身をいつもその粉末入りのそれで磨けば綺麗になるでしょう。そして体型を美しくする為の運動も、最初は筋肉痛に悩まされるでしょうが、いずれ慣れます。そうして物憂げな仕草も、指先のそれぞれに至るまで気を抜かずにやり遂げればどうにかなりますからね」
「・・・え」
エルネーはとても、本気でとても嫌そうな顔になった。
そんなルートフェン国の第二王女に、パッパルート王国の王弟は微笑む。
「カディミアはやり遂げましたよ?」
「・・・・・・ま、まさか」
あまりにも怖すぎる事実を思い浮かべ、エルネーは慄いた。
「最初の内は、部屋から出てこられないぐらいの痛みだったようですが、なに、十日もすれば慣れます。我がパッパルート王国の女官達数十名がかりの傑作ですからね」
「え、っと・・・。私、やっぱり・・・」
エルネーは、そういうハードな努力は遠慮したい王女だ。
「安心しなさい、エルネー。君をどこに出しても恥ずかしくない王女とする為に、我がパッパルート王宮の女官達は協力を惜しみませんよ」
「その女官達って何っ? 数人がかりどころか数十人がかりって何っ? しかもさっきの痛いらしいって何なのっ」
そこでデューレは首を傾げた。
「さあ?」
「さあって何なのっ」
「私は男ですからそういうのは分かりませんね。やろうとも思いませんし。ですが、我がパッパルート王国における代々の王女が、貧乏国にもかかわらず様々な国から望まれた逸話は知らぬわけではないでしょう、エルネー?」
「そ、それって・・・」
「古くから続く王国の王宮にはそれなりのものが伝わっているということです。可愛い君の為です。私も協力は惜しみませんよ」
まるで可愛い実の妹を見るかのようなデューレの黄土色の瞳はとても穏やかだ。
けれども、その穏やかさに内包されているのは、あくまでビシバシな熱血教師だと、エルネーは知っている。
「う、ううん。やっぱり私、まだまだ子供でいいかなぁって思います。デューレ兄様」
にっこりと可愛らしくエルネーは微笑んでみせた。
これは逃げではない。戦略的撤退だ。
「遠慮しなくていいのですよ、エルネー。我が後宮はまだ王妃もおらず、空いていますからね。女官達もさぞ喜んで腕を振るうことでしょう」
「心の底から遠慮したく存じ上げるのでございます、デューレ兄様」
自分はただ、似たような顔だというのに誰からも望まれる姉のカディミアがちょっと羨ましかっただけだ。
だけどあの姉王女が部屋から出てこられなかった程の苦行とはいかなるものなのか、心の底から知りたくない。
そう言えば、カディミアは何かとパッパルート王宮へ出かけていたが、たしかにいつも綺麗になって戻ってきていたような・・・。
(ね、姉様に聞いてからにしよう。うん、そうしよう)
まだカディミアが相手ならば、ある程度を教えてもらって駄目だと思ったら引き返すこともできるだろうが、このデューレ相手となるとそんな甘さはない。
だからエルネーは、こほんと咳ばらいをした。
「妹王女である以上、姉王女に従うが道理でございます。まずはカディミア姉様の婚姻がまとまってから、それから私も姉様にとって役立つ縁組の為に尽力するのが当然でありましょう。今からそんなことに現を抜かすよりも、まずは知識と教養を身につけることが第一だと己に言い聞かせております」
「それは立派ですね、エルネー」
ふわりと立ち上がる動作はまるで風のように存在感がない。
けれどもそれがデューレの本質のようで、エルネーを戸惑わせる。
「残念ですが、では数年後、君という王女を磨き上げるのを楽しみに我が王宮の女官達を待たせることにしておきましょう。それでは、会話術の続きに入りましょうか」
「はい、デューレ兄様」
たとえ貧乏でもパッパルート王国は一流国とされている。それは、直系王族は様々な見識を叩きこまれて育つからだ。
実際、パッパルート王国の王子もしくは王女と結婚した人間で、不仲になった夫妻はないとされている。どんな秘訣が、そのパッパルート王宮に隠されているというのか。
(考えてみれば、姉様があんなに皆から憧れの視線を向けられるようになったのって、・・・パッパルートに行き始めてからじゃないの?)
それを知りたいような、知りたくないような・・・。
(恐るべしっ、パッパルート王国っ)
だが、自分はカディミアと違う。
ディッパやデューレを信じて、その内容を知らずに飛びこんでいってそれを実体験してしまったカディミアと同じ轍は踏むまい。
(そう、全ては情報を集めてから。まずは、姉様に訊こう。そうしよう)
うふふふふと、エルネーは微笑んで、お茶会の続きを始めた。
その晩。
カディミアの部屋に行って、エルネーは尋ねた。
「ねえ、お姉様。姉様が綺麗になったのってパッパルートの女官数十人がかりの結果って本当?」
デューレと違ってカディミアにはざっくばらんに話しかけても怒られることはない。
「ええ、本当よ。誰に聞いたの?」
「デューレ兄様」
「ああ、なるほどね。どうして?」
せっせとカディミアは自分の髪をブラシで梳いていた。そうして何かを髪に擦りこんでいる。
「んーとね、姉様と私、似てるのに、姉様は皆から綺麗だって言われるじゃない? 私も姉様みたいに綺麗になりたいって言ったら、デューレ兄様が、肌を綺麗にしたり、体型を美しくする方法がパッパルート王宮には伝わってるって。だから私もしてあげようかって言われたんだけど、姉様に聞いてからにしようと思ったの」
「ああ、そうなのね」
カディミアが振り返れば、自分達は本当によく似た姉妹だとエルネーは思う。
自分もあと三年したら姉のようになるのだろうか。
「百聞は一見にしかずよ。試させてもらえば?」
「だけど、なんか怖そうじゃない? だからどんなんだったか聞きたいんだけど。駄目?」
可愛らしく尋ねれば、カディミアは髪をくるくると一つにまとめて頭上で留めてしまう。
「どんなって、あれはねえ・・・。そうね、体験したら一番分かりやすいわね。いいわ、エルネー。少しやってあげるから、そこに服を脱いで寝てみなさい。その肌が綺麗になるの、やってあげる」
「えっ、本当っ? 姉様、そんなのできるの?」
「そりゃそうよ。そうじゃないと困るでしょ。毎日パッパルート王宮に行ってお手入れしてもらうわけにはいかないんだし」
カディミアがやってくれるというのならば安心だ。
そう思ってエルネーはその肌の手入れをしてもらうことにした。
が、しかし。
(あら? なんで私ってばお姉様に縛られてるの?)
すぐにエルネーは、それを撤回しようとする羽目になった。
「痛いっ。やだっ、痛いってばぁっ。もういいっ」
「黙りなさいっ。何なの、このなってないお手入れはっ。肌もガサガサじゃないのっ」
カディミアが持ち出してきた、顔だけではなく体の産毛まで全て引っこ抜けるという道具は、まさに全身がひりひりと赤くなるシロモノだった。
しかもカディミアは容赦がない。
というよりも、エルネーが途中で止めると言い出すのを予測していたのだろう。
(その為に私の手足を縛ったのねーっ。姉様のバカッ)
全身がひりひりとして痛い。しかも、遠慮なくそこへ薬のようなものを擦りこまれ、余計に痛い。
「さ。これで産毛は抜けたから、明日はその肌のガサガサをどうにかするわよ。あ。今晩と明日はこのシルクを着てなさいね、エルネー。これなら刺激が少ないから」
「え」
もうこれで終わりではないのかと、しくしく泣きたいエルネーが寝台の上から見上げれば、仁王立ちになったカディミアがいた。
「当然でしょ」
そうして不思議そうな顔で言う。
「これは肌の手入れに不要な産毛を抜いただけなの。お手入れはこれからよ」
「え、・・・っと、もう十分じゃないかなぁって思います。お姉様」
「言っておくけど、パッパルート王宮のそれはもっとハードよ、エルネー。まだ私ですませておいた方がいいんじゃないの? そんな体じゃ恥ずかしいだけでしょ」
「・・・・・・(別に恥ずかしくなんてない)」
そうだったと、エルネーは思った。
この優しい筈の姉王女は、それでもあのデューレに仕込まれた王女。
自分とは、考え方のボーダーが違うのだ。
姉王女にとって、これはまだ辛いとは思えないレベルなのだろう。自分にとっては拷問だが。
「ちゃんと明日も来るのよ、エルネー。そうじゃないと、問答無用でパッパルートに放りこみますからね」
「・・・はい、お姉様」
鬼がいる。ここに鬼がいます。
(ああ、言うんじゃなかった・・・)
ここは母に泣きつこうと、エルネーは決意した。
母王妃ならば、きっと娘を止めてくれるに違いない。
子を思う親の愛は海よりも深く、砂漠よりも熱いと言う。
(なのにひどいわ、お母様。私を見捨てるだなんて)
ルートフェン国第二王女エルネーは、さめざめと涙に暮れていた。
何ということだろう。
優しかった姉王女は、今や妹の体を痛めつけることに喜びを見出す鬼畜と化しているというのに、それを母であるルートフェン王妃は止めもしないというのだ。
「よかったじゃないの、エルネー。カディミアもパッパルート王宮に行く度、見違える程、綺麗になって帰ってきていたもの。あなたもカディミアから教わることができるなら、それに越したことはないわ」
そんな、まるでどうでもいいと言わんばかりの口調で。
こんなことがあってもいいのだろうか。
それどころか女官達も、第一王女と共に自分の敵にまわったという始末。
「よろしゅうございましたわね、エルネー様。早速、効果が出ておいでですわ。髪や肌が艶めく様も、そのゆったりとした淑やかな仕草も、まさに王女としての品格に満ちておいでです」
「本当に。髪の滑らかさまで違いがでてきていらっしゃいます。さすがはカディミア様ですこと」
「・・・・・・違うもん」
淑やかな仕草を心がけているわけではない。単に筋肉痛で動けないだけだ。
木登りや駆けっことは違う筋肉疲労の扉を、エルネーは開けさせられてしまった。
同じ姿勢のまま体を揺らさずに歩くという拷問を、あの壊れやすいガラス製品を両手に重ねて持たされた状態でやらされたのだ。しかもそれで割ったら、その弁償費用は自分のおやつから引いていくという、血も涙もない条件付きで。
(おかしいわ。普通、女性のお手入れって、もっと甘やかせてもらえるものじゃなかったの? だってどんな物語でもそうなのに。寝転がって任せていれば、お肌ツルツルの美人に生まれ変われてしまうもんじゃなかったわけ?)
そして無理な姿勢によって、生まれたての仔馬のようにプルプルと手先足先が震えて動きもままならなくなってしまった妹王女を、躊躇うことなく裸にひんむいて肌の手入れをしてくれた姉王女は、きっとその状態ならエルネーが抵抗できないと知っていたに違いない。
今の自分は、全ての尊厳を第一王女によって剥ぎ取られてしまった哀れな第二王女だ。
「お姉様。少しは手加減してくれてもいいと思うの」
そんなエルネーは寝台と一体化している。もう、体の全てが痛くて起き上がれない。そして今のエルネーの肌は、まさに殻を剥かれてしまったツルツルのゆで卵状態と化している。
きっと今のエルネーの肌に触れる人がいたなら、「なんと。これこそ吸いつくような肌だ」と、感動してくれることだろう。誰にも触らせる気はないが。
「してるわよ。私なんて本当にパッパルートで数日間、部屋から出られない程にきつい目にあったもの。あなたなんて筋肉痛といったところで、ちゃんと動き回ることができてるじゃない。何ならデューレ兄様も来ていることだし、兄様に監督してもらう? 言っておくけど兄様は容赦ないわよ」
そんなことをカディミアが自分の爪の手入れをしながら提案してきたものだから、不貞腐れた頬を膨らませたままエルネーは言った。
「なんで兄様がここで出てくるの」
「あら。デューレ兄様の方がもっと手加減無しに決まってるじゃない」
「嘘ぉ。何言ってるのよ、姉様。いくら何でも男の兄様がそんなのできるわけないでしょ。それに兄様だってどんなのか知らないって言ってたもん。あくまでそれができるのは女官だけだって」
すると、カディミアが頬を赤らめる。自分が発言した内容の愚かさに気づいたのか。
「あら、そうなのかしら。てっきり兄様なら・・・」
だから、エルネーは偉そうに指をチッチと振ってみせた。寝台に横になったままだから、今一つ決まらなかったけれど。
「そんなわけないでしょ、姉様。いくらデューレ兄様だって、男の人なんだから。女の人の体のお手入れなんて知るわけないじゃない」
「・・・そうね」
赤くなって俯く姉は、これだから頼りないところが放っておけないのだ。変なところが抜けている。
そうエルネーは思う。
そこへ、バタバタと慌ただしい足音が響いた。
「姫様っ、カディミア様っ、どこにいらっしゃいますかっ。大変ですっ」
「どうしたのっ? 非常事態でも起きたのっ?」
その自分を捜しまわる声に、カディミアが部屋から出ていく。
「ああっ、カディミア様っ。大変ですっ。ギバティ王国のラルース王子様が・・・っ」
「・・・ラルース王子様が?」
どこか固くなった声でカディミアが問う。
「ラルース王子様がおいでになりましたっ。何でも、ルートフェン駐在のギバティ大使の査察ということでこちらにおいでになり、そのついでに姫様にもご挨拶申し上げたいと・・・」
「何ですってっ」
勿論、そんなのは口実に過ぎないと誰もが分かる。
タタタタとカディミアが慌てて駆け出していく足音に、エルネーは身を起こした。
恐らく自室へ着替えに行ったのだろう。
(ラルース王子。ジンネル大陸一の国であることをいいことに、他国へ無理しか突きつけないギバティ王族)
だけど、今ならパッパルート王国のデューレ王子がここに滞在している。
(兄様は、このところずっとお父様と一緒にいるから)
だからきっと、もうそのラルース王子のことも聞いているだろう。もしくはとっくに会っているかもしれない。
(どうなるんだろう、うちの国は・・・。そして、お姉様は・・・)
どうすればいいのか分からず、ぶるっとエルネーは身を震わせる。
知らず、寒くもないのにその肌は粟立っていた。
ルートフェン国の王城に、パッパルート王国の王弟デューレは、滞在中である。
やはり自分の決断は間違っていなかったと、彼は思った。
(予想以上に有能でしたね。それどころか掘り出し物と言っていい)
パッパルート王国から届いた書状を読み、第二王子デューレは口角を上げる。
そこには、パッパルート王国に他国からの圧力が掛けられたことが記述されていた。同時にそれらは全て国王の帰還後にと、ユーリ姫が突っぱねた事実も。
だが、国王帰還後の会談は行われないだろう。その原因となったギバティ王国をユーリ姫が撃退したのだから。
(よくぞそこまで他国高官の弱みを握っていたものだ。やはり得体の知れぬ娘ではあるが、この場合は助かったというものでしょう)
何よりもありがたいのはこの情報だ。
ギバティ王国が、どうしてルートフェン王女との縁組を望んだか。
それがユーリ姫によって詳細に書かれていた。デューレにとって喉から手が出る程に欲しかった情報である。勿論、裏付けは取るべきだろうが。
(それも、ここでギバティ王弟が来たとなれば、確認も容易い)
デューレはカディミアの姿を脳裏に描く。
このルートフェン国の王城では、どこに誰の目があるかも分からず、自分達はそれなりに礼節を保った距離でしか会話もできないが、自分を見て我慢できずに嬉しそうな顔になったカディミアの為なら、何を惜しむものがあるだろう。
「デューレ王子。やはりギバティのラルース王子はカディミアを見に来たということか」
「恐らく。ですがおじ上、先程、パッパルートから届いた書状によりますと、ギバティにもルートフェンとの縁組を望まねばならない理由があったようです。どうやら格下の国の王女であれば誰でも良かったようですね。カディミアに白羽の矢が当てられたのは、年齢的な問題でしょう」
「なんと。そうなのか?」
デューレは頷いた。
「念の為、ラルース王子にも鎌をかけることにはなりましょうが、恐らくこの知らせは事実でしょう。それならば納得できることが多々あります。どうやらギバティは、他国へ高く王子王女を売りつける国から、通常の婚姻を結ぶ国へと転換しているようです」
「それはまた・・・。いきなりどうしたものか」
「神子姫を確保できなかったことが原因のようですね。もう高く売りつけても買ってもらえないと判断し、まずは王弟からその手本となることを選んだようです」
ルートフェン国王は、ふむと言って頷いた。
そういうことであれば納得できる。
「だから無茶は言ってこないでしょう。後は、ルートフェン国にとって悪くない婿かどうかだけです」
「そうだな。・・・だが、君でも良かったのだがな、私は」
一瞬、動きを止めたデューレは、すぐに笑みを浮かべた。
「そうですね。おじ上を父上と呼ぶのも良かったでしょうが、これはカディミアが決めたことです。いずれおじ上の血に連なる未来の王女達の為に」
そう言ってくれるパッパルート王子だからこそ、カディミアにとっては一番いい相手だったと思わずにはいられないルートフェン国王だ。
けれどもこういう王子だからこそ、カディミアの決断に協力してくれたわけで、なかなかうまくいかないものだとも思う。
「カディミアに、全てを背負わせてしまうな」
「おじ上の娘に相応しい、立派な王女ではありませんか。それを支持した国王として、いずれ未来のルートフェン王室におじ上の英断は語り継がれましょう」
父親として、王子を作ってやれなかった負い目が気弱にさせるのだろう。
デューレは心に重苦しいものを抱えながら、そう慰めた。
「ラルース王子には軽食をお出ししていますし、絵画の間にも案内させています。十分、カディミアが装う時間はとれるでしょう。おじ上、大丈夫です。断りたい時には、カディミアは既に私の手がついているということにすれば、あちらも引くでしょう。良縁だと判断すれば話を進めればいいだけのことです」
「有り難い限りなのだが、複雑な気分だよ」
いくら子供の頃から可愛がってきた青年とはいえ、ことは娘の結婚だ。
「パッパルート王宮において、兄上と私の目を盗んで手を出せる男はいません。そしてこの城ではおじ上とおば上の目が光っています。カディミアはどこに出しても恥ずかしくない清純な王女ですよ、おじ上」
さらりと、デューレはそう言ってのけた。
「本当に君は大人しい顔をして・・・。いや、頼もしい限りだが」
突然の来訪をやってくれたラルース王子には、国王は今手が離せないとして、もてなしを受けてもらっている。
その間にカディミアも王女として恥ずかしくない身なりを整えることができるだろう。
「私は、ちょうどルートフェン城に滞在していたということで、適当に機を見て声を掛けることにいたします。どうぞおじ上、気軽にお会いになればよろしゅうございます」
「ああ、そうだな」
さすがに娘の縁談ともなると、狼狽も出てくる国王だ。
今回の件でも頼りになるデューレに、本当に彼が自分の娘婿になってほしかったと思わずにはいられない。
(カディミアはディッパ王子が好きだったようだが)
この国にやってくる王子達に纏わりつき、パッパルート王宮へもちょくちょくと出かけていた長女は、恐らくパッパルート第一王子が好きだったのだろう。
今は国王となってしまったが。
ルートフェン国王はそう思っていた。
何故なら、ルートフェン王城でデューレとカディミアは常に礼儀正しい言葉でしか会話をしていなかったからだ。その点、ざっくばらんなディッパとは気軽に口喧嘩もしていた。
(これだけ頼りになる王子だというのに、カディミアは見る目がない)
そう思うルートフェン国王は、好きだからこそ両親のいる王城でデューレにあまりべたべたできない乙女心を全く理解していなかった。
二流国家と言われてはいても、やはりパッパルート王国の流れを汲む王族だけはある。
ギバティ王国の王弟ラルースは、ルートフェン国王を見てそう思ったものだ。
ベージュ色の髪に黄土色の瞳。その色はパッパルート王国特有の組み合わせだ。
しかし王妃を他国から迎えているせいだろう。ルートフェンの第一王女カディミアは、ベージュ色の髪に緑色の瞳をしていた。
そうして今日は、第一王女の茶会に招かれているわけだが、自分が知る茶会とは一味違うと、ラルースは思った。
「たとえば、炎の熱を効率的に使おうと思えば、金属板よりも針金を用いた方がいいのではないかと、そういう話だったのですわ」
白磁のティーカップから一番に摘まれた茶葉ならではの馥郁たる香りが漂う。
カディミアは、優雅な手つきでそれを勧めてきた。
「なるほど。なかなかに興味深い話ですね。砂漠の夜は冷えますし、そういった研究はパッパルートでも行われていますが、耐久性の問題が出ていた筈です。ギバティ王国ではいかがでしょう、ラルース殿下? やはり装飾性にもっと重点を置くべきだと考えられますか?」
ベージュ色の髪に黄土色の瞳。まさにパッパルート王国人の色を持つデューレは、そのゆったりとした民族衣装もあって体型が分かりにくい。
けれども日焼けはあまりしていない肌に、外へは出ないタイプだろうと、そんなことを感じる。
「そうですね。恥ずかしながらそういったことを考えたことはありませんでした。さほど燃やす木々に不足する事態を考える必要もなく・・・。ですが、そういう研究が進んだなら、軍備などでも助かる国は出るでしょうね」
体格だけなら確実に自分の方が勝っているなと、そう思うラルースだが、このカディミアはどういう男が好みなのだろうと、そこが分からない。
何故ならば、自分達二人を前にしても普通に接してくるからだ。
今までラルースが様々な姫君や貴婦人からよく送られてきていた秋波や媚び、そういったものがカディミアには全くなかった。
「なるほど。さすがはラルース殿下。そういう分野での使い道もあるわけですね。カディミア殿下はどういった使い方をお考えでしたか?」
「私は、まずはあまり人が近づかぬ場所での利用ですわね。そういう場所では、とかく物資が不足しがちでございますから」
通常、茶会で交わされる会話は流行のドレスや珍しい異国からの輸入物についてだ。そして、メンバーも王族を中心とした貴族が取り巻くものと決まっている。
けれどもルートフェン国の茶会で招かれたのは王子が二人。
しかも会話は、全くもって真面目なものだ。
(なるほど。これはたしかに女王を目指すだけはあるのかもしれん)
ルートフェン国の王女は自分の妻になって王妃になる身だと、そう言ってきたパッパルート王国のデューレ王子がもうここに来ているとは誤算だったが、こうして見ていると、二人の間にはかなり礼儀正しい距離感がある。
実は乱れた関係かもしれないと思っていたラルースが恥ずかしくなる程、二人の会話も色気がない。
(いや。試しているのか、この私を)
王女は一人。王子は二人。
まさに比べられているかのような気分になるラルースだ。
(しかし、これは三人で話し合えという意味なのか? 一体どういうことだ。普通、こういう茶会というのはあるものなのか?)
ラルースと共に来た大使や護衛達は同じ部屋の隅でもてなされているが、意味はないだろう。なぜなら舞踏会が開けるような大広間の真ん中にテーブルが一つ置かれて、席につくのは自分達三人だけ。
幕の内側で演奏されている音楽のせいで、大使や護衛達のテーブルでどんな会話がされているかも自分達には届かない。勿論、逆も然りで、自分達の会話は彼らに届かないだろう。
完全に、密談仕様の茶会だ。
「あの・・・、カディミア殿下。あなたはそちらのデューレ殿下と結婚してこの国の王妃になると聞いたのですが、それに間違いはないのでしょうか」
ここはもう直球でいった方がいいだろうと、ラルースが口火を切る。
「あら。・・・ふふ、どう思われます?」
「どう、とは?」
カディミアは焼き菓子をラルースに勧めて微笑む。
「どこの国にも国の未来がありますわ。それを考えるのが王族の務め。そうはお思いになりません?」
「それは同感です」
ラルースは頷いた。見れば、デューレも無言ながら頷いている。
「我が国に王子は生まれませんでしたけれど、王女であれば国の行く末を考えなくていいわけではございません。私が婚姻を結ぶ時にはこの国の未来を共に考えてくださる方をと、そう願うばかりでございます」
なるほどと、ラルースはその挑戦的な緑色の瞳を眩しく思った。
「ご立派な覚悟です。デューレ殿下はどうお思いでしょう?」
「私に、お尋ねになりますか」
苦笑するデューレは、まさに砂の国の王族に相応しい色合いだとラルースは感じた。黒髪に青い瞳をした自分は、この国の人間にはいささか暗くも見えるだろう。
「私は私の役割を果たすだけだと思っております。我が国パッパルート、そして我が兄弟の国ルートフェン。どちらの未来をも憂い、そうして私は為すべきことを為すでしょう。・・・ラルース殿下。あなたは、この国に対して覚悟はおありですか?」
その質問に対して、ラルースは答えられなかった。
自分の国に対する覚悟ならばある。だが、初めて訪れた国にどんな覚悟が持てようか。
勿論カディミアに縁談を持ちこんだ以上、あると、そう答えるのが当然だ。
しかし、軽い気持ちで答えたならば、二人に軽蔑される気がした。
「なかなか、重いご質問だ」
ラルースは、茶で咽喉を湿らせてからデューレに視線を合わせる。
貧乏ながら古くから続くことで知られるパッパルート王国。その属国とされるルートフェン国。
けれどもこうして茶会に招かれてみれば、会話の内容はともかく、カディミアの動きは一流国の王女と比肩する優雅さだ。
その垂直に動く手先すらブレがない。
それはまたデューレも同じことだった。寛いでいるように見せかけながら、全ての進行を把握して場を取り持つそれは、こういった招きに慣れていることを示している。
「正直に答えさせていただきましょう。まだ、その覚悟はないのだと。ですが、持ちたいとは思っております」
ラルースはあえてそこで、自分を大きく見せる努力を放棄した。
恐らく既にカディミアは王となる教育を受けているのだ。そして、自分の足を引っ張るような男は困ると思っている。
(末の王子として国王教育を受けてはこなかった自分では、恐らく太刀打ちできまい。軽蔑されるかもしれんが、そこは認めなくては)
王子とはいえ、末弟ともなると王位簒奪の芽を摘む為にも国王教育は受けさせてもらえない。第二王子ならばともかく。
するとデューレはやや眦を緩めて微笑んだ。
「そうですか。まだ、滞在予定はおありですか、ラルース殿下? 明日はこちらの鰐の飼育所を見に行くのですがご一緒にいかがでしょう?」
「鰐ですか。実はまだ実物を見たことはないのです」
鰐といえば、パッパルート王子達は、自分達はのうのうとしておいて、このカディミアに鰐退治をさせたのではなかったか。
そこでふぅっと、これ見よがしに溜め息をつくデューレだ。
「昔、そこの鰐の飼育所に行ったら、どこぞのお転婆王女が、護衛兵の剣を持ち出して、絵本で見たとかいう鰐退治をやろうと、勝手に柵の中に入ってしまいましてね。いや、本当に。あの時は心臓が止まるかと思いましたよ。慌てて兄と追いかけました」
「そっ、それは・・・っ」
慌ててその口を塞ごうとする王女がいる。
「あの鰐が寝ていたからこんなへっぴり腰王女の剣でも無事にすみましたが、本当にもう・・・。それ以来、柵は確実に施錠されるようになりました。近づこうとしても近づけないようになっております。ですから危ないことはございません」
ラルースは、デューレと真っ赤になっているカディミアを交互に見た。
(え? 可愛い。耳まで真っ赤だ)
さっきまで冷静で瑕疵一つない王女として振る舞っていたカディミアなのに。
「もうっ、いつまで言うのよっ」
小さな声でデューレへ文句を言いながら顔を赤くしているものだから、そのギャップも激しすぎる。
カディミアは可愛らしい顔立ちの王女だった。
茶器を渡してくる際に触れた手も、とても肌理細やかでしっとりしていたし、その口から出る言葉があんな真面目なものでなければ、どんな男でも可愛らしいと感じたことだろう。
(というか、それって鰐を退治したというのとは違うんじゃ・・・。かなり聞いていた話と実際が違いすぎないか?)
ラルースは、改めてカディミアを見る。
その耳元で揺れている真珠の白さが引き立つ程に、カディミアは林檎のように真っ赤になっていた。




