90 優理と小猫はドモロール王国へ行った
ディリライト島からドモロール王国へと、誘拐された神子姫は夜の闇に紛れて去る。
あり得ない程に順調に進んだ船は、あっさりとドモロール王国にある小さな入り江に着いた。
「凄いもんだ。漕ぎ手など必要なかったんじゃないか」
我知らず、カイトとて感嘆の声も出るというものだ。
自分達が使った痕跡をごまかす為、密輸といった後ろ暗いことをしている男達に船の引き渡しを終えて戻ってきたカイトは、改めて未だ昼にもなっていない事実を実感し、まじまじと優理を見た。
「見事なものですね」
なんと、一晩で航海が終わってしまったのだ。
まさかこんなにも早く船で海を横断できると、誰が思ったことだろう。
「えへっ。・・・あの船、彼らに売っちゃうの?」
「ええ、そうです。跡継ぎ殿が船籍をごまかしてはくれても、秘密は漏れるものです。ですがああやって後ろ暗い稼業の人間に船そのものを渡してしまえば、それを見つけ出すことはとても難しくなります」
「ふぅん。かなり面倒なんだ」
「仕方ありません。簡単に辿れるような軌跡を残しておいては、同じことを考える人間が出ないとも限りませんから。本来、あなた方は誰からも利用されてはならぬ存在です」
カイトの言葉を受けてくすぐったそうな顔になる優理は、本当にかつての真琴とよく似ている。
漕ぎ手達も、こんな波と風は初めてだと言っていたが、おそらくそれは優理が風の妖精に頼んでやったことに違いない。
真琴との船旅もまたかなり楽なものだったが、優理はそれよりも見事だった。
(三つ子でも、やはり能力に違いがあるのか。だが、マコトとて十分にシルフから愛されていた)
単に風の妖精と海の好意だけで進むそれより、具体的な指示を出す優理の方がより良い結果になるというだけなのだが、そこまでの詳しい事情などカイトに分かる筈がない。
「ところで、これからどうしますの?」
「そうですね。まず王都入りして隠れ家を用意します。そこにラーナさん達に待機してもらうことになるでしょう。・・・ユウリ様にもできればそこでお待ちいただきたいところなのですが」
ラーナに問われ、カイトは改めて困惑したものを漂わせる。
「私が出向かなきゃ意味ないじゃない。そうね。やっぱりガーネットとかヴィーとかを連れていくのは無理かしら」
「そこは女性であれば大丈夫でしょう。ヴィー殿は男ですから早々に始末される可能性がありますが、女性なら身の回りのお世話をする侍女ということでどうにでもなるかと思います。しかし、さすがに四人というのは多すぎるかと」
いくら相手が神子姫でも、ラーナ、リリアン、ガーネット、サフィルスの四人の侍女を共に攫ってきたいう説明は、ドモロール宰相から誘拐を命じられたカイトも無理があるとしか言えぬ設定だ。
侍女一人ならば脅して一緒に連れてきた、とも言い張れるだろうが。
「ラーナかリリアンがいいんじゃないかしら。わざと相手に捕まるんでしょう? それなら私やサフィルスよりも強い彼女達の方がいいと思うのよ。一番いいのはヴィーだと思うけれど、さすがに男では同じ部屋でいさせてもらえなさそうだもの」
この場にいないルーシーは、名目上、ドモロール王国軍に属している女兵士だ。今、カイトと共に抜け出そうものなら面倒なことになる。
だから残ったのだが、きっと今頃、カイトの失踪を受けて、「神子姫ハールカを攫った犯人はカイト」説をぶちまけていることだろう。
「そうね。じゃあラーナは私の侍女ということで、マーコットはわざわざドモロールの小隊長さんがくれた猫だから連れていきましょ。それでいいわね?」
「よくない。マーコットは俺のだ。しかも夜は一緒に寝かせてくれないんだぞ。これで離れ離れだなんて納得できない」
「船の中で一晩中マーコットと遊んでたんだから十分でしょ、ヴィー。大体、見てみなさいよ。あなたに撫でくり回されて、マーコットったらもう青息吐息じゃない」
優理の指摘も無理ないことで、遥佳はいないし、真琴は小さいしというので、ヴィゴラスはずっと真琴を掌の中で撫で続けていた。
普段なら遥佳を囮にしてすいっと逃げられる真琴も、今は小さい猫とあって逃げられず、しかも遠慮なく全身を撫でられまくっていたものだから、ほとんど体力と気力が尽きかけている。
神子姫に世界の息吹を感じる幻獣は、遥佳のいない精神安定を小猫に求めていた。
「何だ。どうした、マーコット? 遊び疲れたか? あれだけかまってもらってたもんな。やっぱりもう眠くなったか?」
カイトがひょいっとグロッキー状態の小猫を抱き上げる。
むむっと唇を尖らせたヴィゴラスだが、カイトが自分に好意的なのは分かっていたので文句を言わなかった。
というよりも、カイトから小猫をもらうのは許されても、カイトから小猫を取り上げようものなら、後でドラゴンとペガサスにどれ程こっぴどく怒られることか。
(べ、別にドラゴンやペガサス如きを恐れるグリフォンではない。だが、・・・口うるさいのはごめんだ)
孤高の幻獣として、他の生き物のことなどどうでもいいと思って生きているヴィゴラスだが、馬鹿ではなかった。学習能力もある。
「みゃあぁ」
ああ、やっとこれで静かに眠れると、小猫が甘えた声になったものだから、カイトは薄い水色の瞳を細める。
「そうか。良かったな」
優理やドラゴン、そしてペガサス達は正しく状況を把握していたが、船の進行などに気を配っていたカイトは、逃げたくても逃げられずに失敗し続けていた小猫の動きを、はしゃぎまくってヴィゴラスに遊んでもらっているようにしか認識していなかった。
「お前、いつも夜は早く寝るのに、思いっきり楽しんでたもんな。さすがに夜遊びしすぎたか」
「んにゃ」
小さく、小猫が抗議の声をあげるが、カイトには肯定にしか思えない。
「では、行きましょうか。この先にある無人の家に馬車が用意されている筈ですから」
左手で小猫を抱きとめるようにして、カイトは左肩の上に乗せると皆に声をかける。
そうして案内役でもある彼は、先に立って歩きだした。
(ああ。やっぱりヴィゴラスは鬱陶しすぎる。これぐらいでいい)
片方の掌だけとはいえ、それでもカイトは決して自分を落っことすようなことはしない。
そう分かっている小猫は目を閉じた。
相手が小猫だから許されるが、全身をくまなく撫でられまくるあれを本当の姿でやられた日にはお嫁に行けない事態だ。
(やっぱりヴィゴラスは遥佳担当でいいんだってば。もうホントに)
ヴィゴラスは大好きだけど、あの他に目を向けさせないしつこさで独占してくるのだけはやめてほしい。
ましてやイスマルクがいない今、誰もあのヴィゴラスを止められないときたものだ。遥佳という人身御供もいない。
「あらま。マーコット、寝ちゃったみたいね。カイトさんに引き取られてやっと安心したのかしら」
すぴすぴと寝息をたてはじめた小猫に気づいていたのはカイトだけではないらしい。
サフィルスが、澄んだ青色の目を瞬かせてカイトに話しかけてくる。
「はしゃぎ疲れたんでしょう。俺の前ではあそこまで興奮しないのに、ヴィー殿は特別らしい」
「興奮というのか、・・・どうなのかしらねぇ」
サフィルスは間近でカイトの顔を見上げる。
(ラーナやリリアンにはかなり警戒してるっぽいけど、私やガーネットにはそうじゃないのね。そういう意味では勘がいいのかしら。だけどやっぱり鈍いわぁ)
小猫がはしゃいでいるのか嫌がっているのかも見分けがつかないとは。
「俺の前だと、この猫はいい子にしようと頑張ってしまうから。・・・やっぱり俺が怖いのかな」
「怖がってはいないと思うわぁ。ええ、確実に」
こうして歩きながら話し始めれば、猫が力を抜いて寝やすいようにと、素早く折った布を首から吊り下げ、ハンモックのようになったそれに猫を寝かせて更に自分の腕で支えてやる面倒見の良さだ。
そんな男を怖がる小猫がいるとはとても思えない。実際、小猫は手足をだらりんとさせて熟睡モードに入っている。
「それに、そんなにマーコット、カイトさんの前でいい子にしてたかしら」
あれが食べたい、これが欲しいと、いつでもリクエスト全開の小猫ではなかろうか。
(カイトさんって、かなり目が節穴なのね。話してみればいい人なんだけど)
そうサフィルスは思った。
「ええ、いい子ですよ。そりゃ、あれして、これしてと、おねだりはしますが、ちゃんと俺の顔を見ている」
「え?」
「俺の迷惑になったり、負担が大きそうならすぐに取り下げようと思ってるんでしょうね。かなり気を遣ってますよ、この猫は」
かつて同じ名で呼ばれていた、少年のような少女と同じように・・・。
カイトはそう思いながら、茶色い縞模様の小猫を撫でる。
こうして指先で撫でてくるのがカイトだと分かっているのかいないのか、幸せそうににゃごにゃご言いながら目を閉じたままじゃれついてくる小猫に、どれ程心を和まされていただろう。
自分を疑ったラーナ達によって送りこまれただけの見張りでも、それでもカイトには可愛い小猫だった。
ただ、この平和ボケした小猫にどんな間諜作業ができたというのか、全く怪しい限りというか、意味不明というか、謎だ。
「だから俺は、そんな気を遣わないでいいヴィー殿なら、この子も自分を抑えずに幸せに生きていけるだろうと、そう思ったんです」
「それでヴィーに渡したのね、カイトさん」
ああ、ちゃんとカイトは小猫を見ていたのだ。
サフィルスはそう思う。
だが、肝心な解釈と判断が間違っている。
(多分、そこに小猫の幸せな日々は全くないと思うわ)
振り返れば、優理を始めとした女性陣が、ダメだこりゃと、首を横に振っている。
ヴィゴラスだけが満足そうな顔だ。
(自分を抑えなくていいんじゃなくて、全力を出さないとグリフォンからは逃げられないだけだと思うの)
それでも今は小さすぎて逃げられない小猫が哀れすぎる。
サフィルスは疲れた顔で、カイトの肩をぽんと背後から軽く叩いた。
「だけどね、カイトさん。女心が全く分かっていなさすぎだわ」
「は? 何故、ここで女心? 今、猫の話をしていたのでは?」
あまりにも話が飛び過ぎたことに面食らったカイトだが、もう目的地はそこだ。
(何故、俺がそんなことを言われなきゃならないんだ?)
本当に女というのは理解しがたい生き物だ。
すぐに話がころころと飛ぶ。
「えーっと、あの家の裏庭に馬車が用意されている筈ですので」
そう言いながら先程の会話をどれ程に振り返っても、話の流れが見えないカイトだ。
自分達は小猫の話をしていた。そう、それに間違いはない。
女性の話は一切していなかった。そうだ、間違いなくその通りだ。
(別にこのサフィルスさんが俺に好意を抱いているってわけでもねえってのに、何故そうなる)
背後に続いている皆に、家の裏に続くスペースを指し示しがてら、「誰かサフィルスを説明してくれ」と、目で助けを求めたが、どうしてだろう、誰もがカイトを責めているかのような眼差しだ。
ヴィゴラスを除いて。
(どうして猫の幸せを願ってやって、それを的外れなことで責められなきゃならねえんだ?)
なんという心の狭い生き物なのだろう、人間の女というものは。
小さくか弱い存在に対して、もっと優しさを向けてやっても良かろうに。
(どんなに賢くても、猫は猫だってのに)
世の中は不条理に満ちている。
最大の不条理は女という生き物だと、カイトは確信した。
ドモロール王国でも城に近く、そして一番高いと言われる宿屋に呼び出された宰相は、慌てて駆けつけた。
一番高いとされるには理由がある。この宿屋は、それこそ王宮を訪れる他国の王族や貴族といった高貴な客ばかりが使うからだ。
パッと見は、それこそ豪華な邸宅にしか見えないことだろう。
周囲を柵に包まれ、門番や兵士も警備しているその宿は、見るからに高そうな佇まいであった。
「はい。カイト様とお連れ様でございますね。伺っております。どうぞこちらへ。ご案内申し上げます」
宿屋で働いている男が、案内に立つ。
そうして、二階にあるその部屋の前でノックをした。
「お客様がおいでになりました」
「お通ししてくれ」
宰相達を案内してきた男にチップを渡したカイトだ。
「お前達はこの廊下で控えていろ」
護衛達を廊下に待たせ、宰相だけがカイトと共に部屋に入る。
扉を閉めた後、カイトは宰相に対して膝をついた。
「世話をする女性がいなくてはお困りになるだろうと思いまして、侍女殿をお一人、共にお連れしました。何でも神子姫様はとても繊細なお方で、親しい人間以外がお世話をすることを好まれぬとか。
見慣れぬ人々と長く接するだけで臥せっておしまいになるそうでございます。
今朝の時点では薬が効いておられましたが、そろそろお目覚めではないかと・・・。ここの続き部屋になっている部屋に侍女殿が、そうして一番奥のお部屋で神子姫様はお休みになっておいでです」
「そうか。よくやった」
「いえ。尊き御方のお望みのままに」
そう述べるカイトは、本当に女神を信仰しているのだろうと、宰相は思った。
(あれだけの奇跡を起こしてみせたとなっては無理からぬこと。だが、どれ程に大きな力を持とうと、小娘には違いあるまい。あのキマリー国王子とも通常の交友を持っていたというのだ。世間知らずな娘、何とでも言いくるめられる)
まずはこの乱暴な招きに対して、許しを得るように持っていかねば。
神子姫はとても心優しい娘だという。そして物静かな環境を好み、大仰なもてなしを嫌がるという話だった。
つまり、気が小さいのだろう。
(その侍女とやらも邪魔だが、信頼を得るまでは引き離すわけにもいくまい。いずれ、我が子飼いの者だけで周囲を固めさせるにしても)
そして、このカイトも始末する必要がある。いらぬことを喋られてはたまらない。
宰相がそういったことを考えていると、カイトは続き部屋の扉をコンコンとノックした。
「はい」
少しの時間を置き、そう返事して出てきたのは、肩の辺りで切り揃えた黒髪に黒い瞳をした、まさに目が離せなくなる程の艶冶な女性だった。
その流し目にすら、年甲斐もなくドキドキとせずにはいられない。
(なんという美女が・・・!)
こんなにも艶めかしい女が目の前にいるというのに、カイトは冷静な口ぶりで尋ねた。
「侍女殿。こちらがドモロール王国の宰相閣下であらせられる。神子姫様にお取次ぎをいただけましょうか?」
宰相には信じられない淡泊さだ。数多の美女を見てきた自分ですら目が離せなくなるというのに。
「いいえ。生憎と、姫様は此度のあまりにも無理矢理な移動でご気分を悪くされて臥せっておいでのまま。食欲もおありではなく、目通りなどとてもとても・・・。カイト殿。姫様のご信頼をいいことにこのような無礼な振る舞い、決して許されることではありませんよ」
けれども、その侍女の口から出てくる言葉は激しくきついものだった。
そして、宰相にも視線を向ける。
「礼を尽くしてお招きするというのであればいざ知らず、このような乱暴な真似をなさるとは、いつからドモロール王国はそのような卑賤なる国と成り下がったのですっ。宰相殿ということは、これこそがドモロール王国の意思ということですかっ」
「い、いや、そうではありませぬ。決してそうではないのです」
宰相は哀れっぽい声を出した。
「どうぞお許しくださりませと、神子姫様にはお伝えくださいませ。ご気分がお悪いとあらば、それこそ名医を幾らでも呼び寄せましょう。本当にただの行き違いがあっただけなのでございます」
宰相は、カイトにさっと目配せをした。
つまりは、口裏を合わせろということである。
「勿論、こちらは礼を尽くしてお招きするつもりでございました。ただ、この者が先走った行動に出たと知り、私も慌てて駆けつけた次第なのでございます。どうぞご寛恕くださいますよう伏してお願い申し上げます。神子姫様には、それこそごゆっくりとお休みになれるような邸宅も準備してございます。どうか、どうか・・・」
カイトも、即座に頭を下げた。
「申し訳ございません、侍女殿。私が閣下のご命令をきちんと受け取っておらぬばかりに乱暴なことをいたしました。どうかこの責めは私一人に下されますようお願い申し上げます。宰相閣下に非はございません」
なるほど、たしかにこのカイトはいい人材だと、宰相は思う。
こちらの状況をきちんと読み、役立つ行動を判断し、冤罪すら引き受けてみせる忠義ぶりだ。
(使い捨てるには惜しいやもしれぬ。何よりここまでの優秀さだ)
そうして深々と頭を下げる二人を見下ろし、気の強そうな侍女は冷たい声で言い捨てた。
「理由など知ったことではありません。さっさと出ておゆき。あのお方は慣れぬ人の気配すら苦痛に思われるというのに、いつまでここにいるつもりなの」
「申し訳ございません、侍女殿。私をご不快に思われるのは当然のこと、すぐに出てゆきます。ですが・・・、ですがどうか、宰相閣下の話だけは、どうぞお聞きになって差し上げてくださいませんか」
神妙そうな顔で、カイトは悪くない流れへと導いていく。
「このことは、本当に、閣下はご存じではなかったのです」
「いや。我が国の者が行った以上、それは我らが責を負うものと認識しております。どうか謝罪の機会を与えてくださいませんか、神子姫様の侍女殿」
部下の暴走は我が責任とばかりに、宰相はカイトを庇った。
そうして男としての点を稼ぐ。
「私はこれで・・・。廊下におります」
カイトが一段と低く礼を取ってから出て行ったのを確認し、宰相は溜め息をついてみせた。
「本当に申し訳ないことを・・・。まさか、あの者がこのような真似をするとは全く思いもしておりませんでした。
このような宿では人の気配も多く、神子姫様もゆっくりお休みになれますまい。
我が別宅を丸ごと一つ提供させていただきます。どうぞそちらにお移りになってくださいませ。勿論、神子姫様の具合が良くなり次第、神子姫様のお望みの場所へとお連れ申し上げます」
ですからどうか・・・と、宰相は、あくまで何も知らなかった善人を演じてみせた。
この侍女とてまだ二十代であろう。となれば、神子姫の側近くで仕えているとあって気が大きくなっているだけだ。
いずれ身の程を分からせてやればいい。
いくら美しかろうと、せいぜいは商家か農家の娘程度に違いあるまい。貴族の娘が神子姫の側で仕えているというのであれば、その噂が流れぬ筈がないのだから。
「どうか、侍女殿。神子姫様の為にも、このような場所ではなくもっと警備がしっかりした場所へとお移りくださりませ」
実際、このような誰が泊まるか分からぬ宿屋に滞在し続けては、いずれ、ここに神子姫が泊まっているということも知れ渡ってしまう。
そうなれば、どれだけの人が押し寄せてくることか。
「我が別邸であれば、最小限の世話をする者しかおりません。また、お気に沿わぬ者は辞めさせますし、神子姫様のお好きなように全てを変えてくださってかまいませぬ。ですからどうぞ・・・」
その宰相の熱意が通じたのだろうか。
「仕方ありませんわ。姫様が第一ですもの」
やがて赤い唇をほぅっと緩ませて、気の強そうな美女は折れた。
(なるほどな。やはり神子姫はかなり気が弱いとみえる。人前に出ぬとは聞いていたが、つまりは侍女の背中に隠れ、侍女に全てを決めさせているのだろう)
ならば、その侍女の役回りを自分へとすり替えればいいだけのこと。
あくまで実直な顔の裏で、宰相は密かにほくそ笑んだ。
いきなり滞在していたディリライト邸から姿を消した神子姫ハールカの噂は、瞬く間に広がった。
というのも、ディリライト首長コウヤがそれを明らかにしたからだ。
「神子姫様が滞在なされていることが広まってから、ほとんど連日のように襲ってくる者達がおりましたので、警備には力を入れていたのですが・・・。
朝になって、いきなり神子姫様が可愛がっておられた猫と共に姿を消していたのです。本当に、なんということなのか。まさか、誰もが敬愛すべき神子姫様を攫おうと考える者がいるとは」
他国からの問い合わせに対し、己の不甲斐なさを嘆くばかりのコウヤだが、できれば小猫は置いていってほしかったと、そんなことを内心では考えていたりもする。
形ばかりではあるがディリライト島の全ての建物を調べ上げ、どこにもいないことを確認したことをも発表した。
そしてまた、小舟が何艘かなくなっているということも。
「恐らく賊は沖に船を停めておき、小舟で神子姫様を攫ったのでしょう。まだディリライト島に出入りしている船であれば記録も残っていますが、そうでないとなれば追跡はほとんど不可能です」
神子姫がいなくなったと知った途端にそこまで調べ上げたコウヤの発表を疑う者はいなかった。
肝心の記録改竄や見逃しに協力した息子達を除いて。
だが、そうなると各国では途端に探り合いが始まる。
――― どこの国が神子姫様を誘拐したのか。
――― それが可能なら、天罰は当たらぬということか。
――― ならば更にそれを見つけ出して奪ってしまえばいいのでは。
もうディリライト諸島に用はないとばかりに、各国は不審な船の出入りがなかったかを調べ始める。
自軍の兵士達が動いていないなら、民間のならず者共が動いた可能性がある。
一気に密輸や人攫いといったそれらに対し、取り締まりという名で各国の総力を挙げた大騒ぎが始まった。
尚、肝心のディリライト島では・・・。
「ああ。可愛かったのになぁ、マーコット。タイキ、お前も情けない。どうしてカイト殿に負けるんだ」
実はあのちまちまとした仕草にめろめろとなっていたコウヤは、じろりと長男に恨みがましい目を向けていた。
これは美味しいお菓子なのだよと、声をかけて差し出せば、ててててっと寄ってきてはぐはぐと食べるのだ。
しかも話し相手としてもなかなか気が利いていて、愚痴をこぼすコウヤを慰める時には、ぷにぷにした前足を手の甲に重ねてくる。
あれは本当に可愛かった。
「無茶言わないでくださいよ、父上。最初からマーコットはカイトさんしか見てなかったじゃないですか。大体マジュネル大陸に連れていったのって彼でしょう? ならしょうがありませんよ」
そんな父と息子の会話に、カリンが首を傾げる。
「そんなに猫が好きでしたの、あなた? でしたら飼います? まあ、猫といえば爪とぎしたり、食べ物を勝手に食べたりって、困ったイメージがありましたけど、ちょくちょく遊びに来ていたあの猫は賢かったですわね。あれなら飼ってもいいかもしれませんわ」
「それは言える。あのマーコット、すっげえもんな。猫のくせして俺と張り合う素潜りだったぜ」
うんうんと頷くカシマはかなり小猫を気に入っていた。
何故なら、あの小猫はこの自分を認めさせる実力の持ち主だ。見事な速さで海に飛びこみ、魚を捕まえてくる技能。
きっとどんな無人島に取り残されても、あの小猫と一緒ならば自分は生還できるだろう。
「普通、猫なんて可愛がる為にいるのよ。一緒に泳いでどうするの、カシマ兄様」
ケイトは呆れ返りながら冷茶を口に運んだ。
「けど、あの猫、かなり珍しいんだろ? そう言ってたよな、たしか」
「そりゃ珍しいだろうね。この世界に一匹しか、いや、一人しかいないんだから」
弟の質問に、兄が苦笑しながら答える。
「へ?」
「馬鹿だな、カシマ。あのマーコットは、三人目の神子姫。つまり小猫の姿をしていただけで、ハールカ達三つ子の一人だよ」
一家団欒の場は、しぃんと静まり返った。
「ちょっと待ってよ、兄様。いつからそれを・・・」
「うーん。あのドモロールの人達が連れてきた時かな。父上がいきなり小猫を最上席に連れていったからね。よくよく考えたら、あの小猫、ハールカがくれた俺の額飾りに反応してたと思って、そうしたら自ずと結論は出るさ。あのルースさんが神子姫マーコットのお供だってこともね。大体、あんな小猫いるわけないだろ。誰がどう見ても人間が猫の姿をしてただけじゃないか」
ケイトに向かってタイキが説明すれば、カシマが顎を落っことしそうになっている。
「いやいや、ちょっと待ってくれよ」
そこでカシマは手を横に振りつつ、色々と思い返した。
「人間が猫にって、なれるのか? いや、神子ならできるのかもしれんが、あれがハールカと同じ神子姫? だけどハールカと違ってすっげぇ運動神経抜群だったぞ?」
「三つ子でも違いがあるんじゃないか? それを言うなら今回の神子姫とハールカも性格はまるっきり違ってたじゃないか。」
そこでタイキは自分の背後にゆらりとした動きで近づいてきた人影に気づき、口を閉じた。
「ちょっと待ちなさい、タイキ。あの小猫が神子姫様って、どうして私に教えてくれなかったの?」
その低く据わった口調に、こいつはまずいと、タイキは身の危険を感じる。
「え? いや、その、母上。だって、いくら何でも小猫を神子姫様って、・・・そんなの、ちょっとほら、マーコットはドモロール王国軍の宿舎に出入りしていたでしょう?
だから口に出したらとんでもないことになったでしょうし、それならば気づかぬフリをしておもてなしだけしてあげればいいかなって・・・。
あ、ですからこの邸から運ばせた料理もお菓子も気に入って食べてましたよ、母上。作ってあげた首輪も毎日付け替えて楽しんでましたし」
弟妹達には流れるような口調でも、母に対しては途切れ途切れになってしまう。
気づけば、コウヤはその部屋から姿を消していた。
きっとカリンの怒りを受け止めたくなかったのだろう。
「ターイーキー。あなたって子はぁっ」
「俺が悪いんじゃありませんっ。父上だって・・・っ」
「言い訳するんじゃありませんっ」
神子姫の滞在などという晴れがましいことがあるならば、そのもてなしが女主人の役目であることは言うまでもない。
だからこそ、どんな国に尋ねられても感心されるおもてなしをすることこそ、カリンの誇りだ。
遥佳が初めてディリライト島へやってきた時、姪扱いでその素性を妻子にも明かさなかった首長コウヤは株を上げたが、それは男の世界の話だ。
そんな大切なことを教えてもらえていなかったカリンは、何かと女同士の付き合いで惨めな思いをしていた。
――― まあ。本当にカリン様は教えていただけませんでしたの? 奥方様ですのに。
――― 本当はこっそり教えていただけていたのでしょう? だってこれ以上はない尊いお客様ですもの。
――― ですわよねぇ。だって失礼があってはなりませんもの。
勿論、カリンは遥佳を大切に扱っていたし、衣装も新しいものを誂え、かなりよい関係を築いていたことは確かだ。
最後にしてもらった頬へのキスも、どれ程に嬉しく晴れがましかったことか。
けれども女神の姫君に対する程のもてなしをしていたかと言われれば、それはやはり違うのである。
(今回、ハールカ様のフリをしていた神子姫様は、お連れになった方々と塔でのんびり暮らしたいということだから、ご馳走だけ運ばせておいたけれど・・・。あの小猫ならこっちの邸にもちょくちょく遊びに来ていたっていうのに・・・!)
なのに、その神子姫の訪問をいつも、そう、いつも立ち去ってからしか伝えてこない夫と息子は何なのか。
(もう許せないわっ!)
その日、ディリライト首長夫人カリンの怒りが炸裂した。
「ばっかねぇ、タイキ兄様。全部、お父様に押しつけておけばよかったのに」
「後悔は先に立たないから後悔なんだ」
誰だって油断することはある。
自分が苦手な食材ばかりを使った料理とか、自分の好みじゃない服だけが残されて後は洗濯中とか、そこはかとない母の嫌がらせをその日から受けるようになったタイキは、己の愚かさを悔やんだ。
ドモロール王国宰相が用意した邸に移った優理とラーナは、のんびりと過ごしていた。
世話はあちらがしてくれるのだが、その邸はなかなかいい料理人と使用人を揃えている。
どうやら彼らは優理のことを、「宰相様がお預かりになった、王家の血をひく病弱な姫君」と、聞かされているらしい。
おかげで至れり尽くせりの待遇である。
「全く真琴ったら薄情よね。私をこんな敵地に置き去りにして、カイトさんばかりにくっついていくんだから」
ほぉっと溜め息をついて、わざと悲しそうに言ってみせる優理だが、そんなこと思っていないのは誰でも分かる大根役者ぶりだ。
「心配しておいでなんでしょう。カイトさん、色々な場所に忍びこんで事情を探ろうとしていますもの。しかもあの宰相、国王の命令でハールカ様を手に入れようとしたくせに、いざとなったら惜しくなったのか、まだ報告していないようですわね」
「そりゃあね。今の自分は、神子姫に信頼されている相談役だもの。ドモロール国王に義理立てするより、自分が神子姫の信頼を得て一国の王になった方がいいかもって、・・・思っちゃうわよねぇ?」
くすくすと笑う優理は、人見知りな姫君を演技中だ。
ラーナはそんな気弱な神子姫を背中に庇う、忠実な侍女役である。
「だけどカイトさんも鈍いというか、面白い人よね。背中に背負った荷物に真琴が入ってることに気づかず連れていって、それで戻ってきてから寝てる小猫を発見するんだから」
優理に調べてきたことを報告しながら、
「そう言えば、こんな証拠品が」と、背負っていた荷物からそれを取り出そうとして、
「・・・・・・」と、小猫を見つけた時のカイトの表情は見ものだった。
肝心の居眠り小猫は、
「こらっ、マーコット」と、怒ろうとしてカイトが起こした途端、寝ぼけながらにゃあと鳴いてカイトにごろごろすり寄ってそのまま寝てしまうマイペースぶりときたものだ。
だが、優理には分かる。あれは小猫の狸寝入りだと。
なのにカイトは、
「こらっ、起きろっ、マーコット」と、揺り起こされた小猫が、
(え? 眠いのに寝かせてくれないの?)と、言わんばかりの悲しげな表情を作り、切なさそうににゃあと鳴くだけで、許してしまう。
「って、眠いのか。・・・もうやるなよ」
「にゃ」と、小猫がふみふみ鳴いてカイトの手の中で丸まってしまえば説教は淡雪のように消え去ってしまうというあっけなさ。
「おかげで今じゃ、出かける前は何度も荷物の中を点検するようになったようですわよ。ただ、どんなに気をつけて出かけたとしても、その小猫は様々な姿になって追いかけて、そして入りこむんだから無駄ですけど」
「往生際が悪いわね、カイトさん」
「ええ。諦めて最初から連れていけばいいだけですのに」
そんな優理とラーナだが、カイトにしてみれば泥棒のように忍びこむそれに小猫を連れていくわけにはいかないと思うのだろう。
そうして調べたことをカイトは書きつけ、それをリリアンやヴィゴラス達がいる家の窓の中にも放りこんでくる。だから情報の共有はかなりスムーズだ。
「そこがカイトさん、かなり真面目なのよね。安心できるというのか、放っておいても報告、連絡、相談を欠かさないって感じで助かるわ」
「そうですわね。あのグリフォンと違ってそういうところはいいんですけど、ただ、あまりにも良い人すぎて困りますわ。あれじゃあマーコットが可哀想すぎます」
未だに猫のフリをしている真琴だ。それもこれも、カイトが朴念仁なばかりにと、ラーナはそこが不満に思えて仕方ない。
「そーお? 結構、幸せそうだけど」
人間の姿ならお留守番させられてしまうが、小猫なら荷物の中に入っていても分かりにくいというので、真琴は遠慮なくついていっている。猫の重さが増えたところで、カイトの体力では気づかぬものらしい。
「思うに、ヴィゴラスも真琴も同類なのよ。可愛い小猫や小鳥を演じてればカイトさんや遥佳が、しょうがないって諦めて許してくれるって分かってるの。カイトさんは世間知らずな真琴につけこんだって思ってるし、遥佳も寂しさを埋める為にヴィゴラスを利用したって思ってるんでしょうけど、実際はその反対なのよ」
あの子達、一番近くにいられるならどんな自分でもかまわないと思ってるだけなのよねと、優理は肩を竦める。
そこまで人を好きになったことがない自分には分からない感情だ。本当の自分じゃなくてもいいと思えるそれは、一体どんなものなのか。
ラーナは苦笑した。
「なかなか手厳しいことを仰いますこと。ヴィゴラスはともかく、マーコットはただカイトさんが好きなだけでしょうに」
「そ。好きなだけ。だけど、真琴とヴィゴラスの強い点はそこよ。その自分が抱く愛情を、疑いもしないの。
普通は好きって気持ちには打算も働くでしょ? この人といれば生活に困らないからとか、自分の好きにさせてくれるからとか、色々と。
だけど真琴にしてもヴィゴラスにしても、そんな条件は最初から見てないの。好きだから傍にいたい、好きだから独占したい。それしか考えてないわ」
「マーコットが幸せでしたらそれが全てですわ。それは、・・・少しは寂しくもありますけど」
「ホント、嫌になっちゃうわよねー」
肩を竦める優理は、自分といるよりもカイトにくっついていくことを選ぶ姉妹にちょっと寂しい思いをしている。
いいけどね、別に。
放っていかれたなんて思ってないけどね、別に。
私と一緒にいるよりも楽しそうなんじゃないなんて考えたりもしてないけどね、別に。
ぶーぶー文句を言う割に、真琴は薄情だ。いつかそれを、効果的な場面で愚痴ることにしよう。
「ですけど、マーコットはカイトさんとの再会にはかなり怯えてましたわ。会うのも怖がって・・・」
「真琴、好きな人に拒絶されたの、初めてだったんだもの。だから普通の人よりも恐がっちゃったのよ。耐性がなかったのね」
馬鹿ねぇと、優理は優しい眼差しで呟く。
「私と遥佳が託した相手が、真琴を嫌う筈もないのに」
「それはともかく、ヴィゴラスはやはりハールカ様に?」
「そうねぇ。遥佳も遥佳で色々と傷つきやすい子だから、ヴィゴラスは何も知らない愛玩動物を演じていた方が傍にいられるって判断したんでしょうね。あれでヴィゴラスは馬鹿じゃないわ。相手が母の子供だったから遠慮してるだけで、遥佳が普通の人間だったらとっくに自分のものにしてるわよ」
「そ、・・・そうなんでしょうか」
いささか頬が引き攣るラーナだ。
実際、グリフォンは謎が多い幻獣だ。自分達も知ろうと思わないことが多分に影響しているとはいえ、それでもグリフォンが他の生き物を恋人にしたとか伴侶にしたとかいう話は聞かない。
グリフォン同士でも子供は作るが、伴侶にはならない筈だ。
「そう。グリフォンも他の生き物を伴侶にしたケースはあるのよ。ただ、それはまず知られないわ」
かえってグリフォン同士だと宝の奪い合いになるから、伴侶になるのは他の生き物とのケースが多いのだと、優理が説明する。
「それはどうしてでしょう。私もそんなケースがあるとは、初めて聞きますわ」
「誰にも見せないからよ。グリフォンは宝を集めるけれど、それを見せたりしないでしょ? 自分だけが見て楽しむから。だけどそれって伴侶にも言えるの。伴侶の場合はもっと独占欲が出るわ。だって宝石と違い、生きているから自分で動くことができるんだもの。だから余計に見張りも厳しくなっちゃうの」
「迷惑な存在ですわね」
心の底からラーナはそう思った。
「やはりここで始末しておいた方がハールカ様の為では・・・」
グリフォンは手強いが、ドラゴンが三人がかりならばどうにかなるのではないか。
風の妖精の助力も頼んだ上でと、ラーナがそれを検討し始める。
「いいわよ、放っておいて。本当に迷惑なら遥佳が自分でどうにかするわ」
「ハールカ様が?」
「そう。手は出しちゃ駄目よ、ラーナ。あれで遥佳は自分のものに手を出されるのをとても嫌うの。まだ怒ったり泣いたりしてくれている内が花よ」
「そうなのですか?」
「ええ。一番怒らせたら厄介なのは遥佳よ。私たちの中で一番傷つきやすいけど、切り捨てるとなったら一番過激ね」
「それは・・・」
問い返そうとしたラーナだったが、そこでコンコンとノックの音が響く。
扉を開けずに、
「お嬢様、ラーナ様。宰相様がおみえになりました。応接室でお待ちになっておいでです」
と、メイドの声がした。
「分かったわ。すぐにまいりますと伝えてくださいな」
ラーナがそう答えると、
「かしこまりました」
と、メイドが返事する。
「今日も来たようね」
「そうですわね。さ、ハールカ様らしく、このヴェールをかぶってくださいな」
「ありがとう。表情を隠すのってこれが一番よね」
大人しく誰かの庇護がないと何も決められない気弱な神子姫。
その役回りを演じている優理は、涙ぐんだ様子で笑いを堪えていたりもするのだが、表情を隠してくれるヴェールはとても都合がいい。
そうして二人は、階下にある応接室へと出向いた。
まずはラーナが先に入る。
「姫様がおいでになりました」
「おお。姫様、今日もご機嫌麗しゅう存じ上げまする」
しずしずと部屋に入った優理は、その上席に座る。
「ご不自由なことはおありではありませんか? 何か欲しい物などは・・・」
そういった質問にも、小さく首を横に振るだけだ。
やがて、宰相に何か衣装などももっと用意した方がいいでしょうから採寸の人間を寄越しましょうかと問われても、
「あまり、・・・人に、会いたくないの」
と、細々とした声で呟くばかり。
「そうでございましたか。では、何かお望みなことはおありでしょうか?」
「ディリライトに・・・帰りたい」
そう神子姫が言えば、宰相はやや不機嫌そうな顔となった。
「勿論、ディリライトへは出る船の予定を問い合わせております。私がそんなことをしていないとでもお思いでしょうかな、姫様は」
そのやや垣間見える怒気に怯えたか、神子姫は小さく震えるようにして、そして押し黙ってしまった。
すると、宰相は優しい口調になる。
「申し訳ございません。姫様。あなたを驚かすつもりはなかったのです。ですが私はあなた様の下僕。どうぞ私を信じてくださいませ。決して悪いようにはいたしませぬ」
「・・・ええ」
その肯定する言葉では足りなかったのか。
宰相は、いかに自分が神子姫を神子姫と知られずに移動させる手配に骨を折っているか、滔々と並べ立て始める。
「勿論、特別な船を出せばいいことではございますが、それではすぐ噂が広まり、皆が押し寄せて参りましょう。誰もが一目だけでもあなた様をその目に映したいと願っているのです」
「・・・そんなの、怖い」
ぐすっと涙ぐんで俯く神子姫は、本当に人見知りが激しいのだろう。
ヴェールで顔が見えなくても、すんっと鼻を啜るような仕草でそれが分かる。
(ウルティード王子につけてあった者達からも、一人で塔に閉じこもって暮らしていたと報告されていたが・・・。人と接することができないという欠陥があるのだな)
こんな姫君を神子姫という背景を知らずに求婚したウルティードは愚かな王子だと、そうも思う宰相だ。
相手が神子姫だったからこそ、見る目がある王子だと言われているだけで、そうでなければこのような小娘のどこが良かったのかと言わざるを得ない。
だが、自分が操るには丁度いい。
「ご安心くださいませ、神子姫様。あなた様が何をなさらなくても、煩わしいことは全て私が引き受けますとも」
「あ。だけど・・・」
「ご心配なさいますな。あなた様の為に、私は全てを捨てて尽力いたしましょう」
何も捨ててはいないくせにぬけぬけと言えるところが凄いと、優理は思う。
普通の人は二枚舌だが、政治家はレインボウな舌を持たねばならぬと言われるだけあって、欺瞞と演技と出鱈目が標準装備されているのだろう。
「信じて、・・・いいの?」
震えが混じる微かな声で神子姫が言えば、宰相は大きく頷いた。
「勿論ですとも。あなた様が信じていいのは私だけでございます」
「うん」
言うことを聞かないようなら怒りの気配を示し、そうして怖がったなら優しくする。
簡単な手管で言いなりになる神子姫など、赤子の手をひねるよりも容易い。
思ったよりも簡単だったそれに、宰相は笑いが止まらなかった。
(まずはこの侍女から我が物にすべきか。いずれこの神子姫も・・・)
神子姫と言っても、自分の子供のような年だ。しかも全く面白味のない、おどおどとして気の利いたことの一つも言えぬつまらぬ少女。
けれどもそれについてくる力はとても魅力的だ。
(恐らくあの空に広げられた奇跡は、この侍女の指図に違いない)
ラーナという侍女はあまりにも切れすぎるところがあると、宰相は判断していた。
同時にどんなに気が強くて賢かろうが、神子姫に逆らう気はないらしい。
最初は宰相に対して大上段に振る舞っていた侍女だが、神子姫が宰相を頼りにするようなことを言ってからは、何も言わなくなった。
(所詮は小娘共ということだ)
女神の子供ではあっても、女神ではない。
劣るのは仕方ないことか。
それでも利用するには十分すぎる存在だ。
「そう言えば、カイトはどこに?」
尋ねれば、神子姫が小さく頭を揺らす。
知らないということで、首を横に振ったのだろう。
「先程、裏庭にいたようですが」
侍女が、そう答える。
「そうですか。神子姫様をこんな所へ攫ってきた馬鹿な男ではありますが、それでも何か力仕事の役には立ちましょう。どうぞご遠慮なくお使いになっていただきたい」
そう言えば、神子姫もこくりと頷く。
「では、私は失礼いたします。侍女殿。明日、神子姫様のお体を採寸してから、城まで来ていただきたい。神子姫様に似合うドレスもお作りしたいのでな」
「分かりました」
まずはこの侍女を神子姫と引き離し、途中の道で暴漢に襲われたことにすればいい。
(死体になって発見されたと言えばいいだろう)
ディリライト島に駐留しているドモロール王国軍小隊長ドカートンより早馬で届いた、神子姫が拉致されたという知らせ。
色々と急ぐことはあるのだ。
そう思い、宰相は立ち上がった。
「それでは失礼いたします。ああ、神子姫様に喜んでいただけるようなお菓子を持参しておりますので、後でお召し上がりになってくださいませ」
そうして応接室を出た宰相が裏庭に行けば、カイトは裏庭で小猫を遊ばせていた。
「これは、宰相閣下。おいでになっていたのですね。姫様ともうまく・・・?」
「ああ。なんだ、姫様の猫をどうしてお前が連れてきている」
明るいブラウンに黒い縞模様が入った小猫は、ドカートンが献上した神子姫への贈り物だという。
それを気に入った神子姫は、毎晩小猫を抱いて寝ているのだとか。
「外で遊ばせておかないと、退屈した猫は姫様の衣装やお手をひっかいたりしてしまいます。爪とぎも外の木でさせておかねばなりません」
「・・・む。そうであったか」
「はい。お怪我などなされては困ります」
なるほどと、宰相は思った。
当たり前のように、行き届いた仕事をしてみせる男だ。
これはやはり、始末するよりも己の内に取り込んだ方がいい。
「ところで、カイト。お前は運び屋の組合に属しているということだったが、私に雇われる気はないか? そう、運び屋をやめて私の専属に、ということだが」
アイスブルーの瞳が、宰相に向けられる。
だが、返事は思いがけないものだった。
「それはできかねます。私が本当に属しているのは、運び屋の組合ではありませんから」
宰相直属で雇われるとなれば、かなり報酬もいい。今回のそれもかなりの金額が支払われている。
だから二つ返事で了承すると思っていた宰相は、驚いて咄嗟に言葉が出なかった。
「それは、・・・どういう意味だ?」
するとカイトは膝をついてから言った。
「実は私、とある集団に属しております。まだ無名とはいえ、依頼に応じて様々な人間を手配する、・・・そう、傭兵のような集団というべきでしょうか」
宰相は、一歩後退った。
自分が知っていると思っていた相手の情報が全くの嘘だと知った時、人は無力となる。どうしたらいいか分からないからだ。
「運び屋のカイトというのは、怪しまれずに入りこむ為に使った名前でございます。その運び屋のカイトが、他国での仕事を受けて不在にしていると知り、その名を勝手に使わせてもらいました」
「で、では・・・。では、お前はどこに所属する、どういう名前の人間だと言うのだ」
もしかして自分は罠に掛けられていたのかと、宰相の中で様々な疑惑が渦巻く。
「我が名はユーリと申します。そして我が身はパッパルート王国にある、様々な人材を有償にて派遣する集団に属しております。ですがまだ発足したばかりですので名前を売り込む為、まずは宰相閣下の所へと出向かせていただきました」
「この私が、・・・目当てだったと?」
確かめるように宰相は尋ねた。
「はい」
銀髪の男が、頷く。
「様々な国の事情を把握し、必要な所へ必要な人材を送りこんでみせた我らが手腕。歴史が浅くともどれ程のものかはお分かりいただけたかと存じます」
「つ、つまり・・・。この私がお前にそういう依頼をすることも読んでいたと申すかっ」
銀髪の青年は、静かに頷いた。
「それらはドレイクの指示によるものでしたが、秘密は全て守ります。今回のことも口外はいたしません。ですが、次回からは直接ご依頼をくださいませ。パッパルート王国にあるドレイク一家。その名を、どうぞお忘れになりませんよう」
「なっ・・・!」
今までカイトという名前だと信じていた銀髪にアイスブルーの瞳をした青年が、バッと猫を遊ばせていた布を大きく翻す。
それが当たりそうになって、慌てて手でそれを押しのけるようにした宰相は、思わず目を閉じてしまった。そして次の瞬間には、もう青年はいなくなっている。
「き、消えた・・・?」
慌てて周囲を見渡しても、誰もいなかった。
(運び屋のカイトというのは、なりすましていた偽名だった・・・!)
まさか、ならばあの神子姫というのも偽者なのか。
だが、そんな筈は・・・。
(騙されていた可能性ならあるっ!)
慌てて宰相は、先程までいた別邸の中へと駆け戻った。応接室に行けば、もう神子姫と侍女の姿はない。
本来は高貴な女性へ会いたいというのであれば取り次いでもらうものだと分かっていたが、宰相は二階にある神子姫が使っている部屋へと階段を駆け上った。
そうしてノックもせずに神子姫の私室の扉を、バアンッと、大きく開く。
すると・・・。
「きゃあっ。何事ですかっ!」
侍女であるラーナが悲鳴をあげるが、その部屋に広がっていたのはとても幻想的な光景だった。
「なんと・・・。これは、シルフ・・・?」
きらきらと煌めく風の妖精達が溢れんばかりに室内を飛び回っていたのだ。
部屋の真ん中には黒髪の少女がいて、楽しそうに手を伸ばして戯れている。
けれどもノックもせずに入ってきた宰相を認め、泣きそうな顔になった。
「なんという無礼な・・・! ノックもせずにいきなり押し入ってくるとは、それが本性ですかっ」
ラーナが神子姫をその背に庇い、宰相を糾弾する。
さすがにまずいと、宰相もその場に膝をついた。
「申し訳ありませんっ。賊が・・・っ」
「え?」
そこで宰相は全てを銀髪の青年に押しつけることにした。
都合の悪いことは、全部彼のせいにすればいい。
「ここにカイトが参りませんでしたかっ?」
「来ていませんが、それが何だというのですっ」
「ならばいいのです。実は彼は、カイトという名前ではないことが発覚しました」
「・・・どういうことです?」
怒りを露わにしたままではあるが、ラーナが怪訝そうに問い返す。
「考えてみれば神子姫様を攫ってきたことといい、怪しげなところが多い男でした。怪しいと思って問い詰めたところ、その名は偽名だったと白状し、そうして逃走したのです。私は神子姫様が心配で、まずはこちらに参ったのですが、こちらにはあの男は来ていないのですね?」
「・・・ええ」
「ならばよろしゅうございます」
まさにそれを聞いてほっとしたと言わんばかりの顔で、宰相は侍女と神子姫に微笑んでみせる。
「どうか鍵を掛けておかれますよう。すぐに捜索させますが、身元を偽っていたような男、とんでもない素性に違いありません。何でしたら私の邸にお移りいただいても・・・」
「ラーナ、怖い・・・」
小さく、神子姫が侍女の袖を引っ張る。
「いいえ。そういうことでしたら警備だけお願いします。姫様は繊細なお方。あまりにも居場所が変わるのはよろしくありません」
「そうでしたか。では、皆にも見回りを入念に行うよう伝えておきます」
宰相は、そう言って引き下がる。
実際、自分の邸に移られるのは好ましくない。妻子にどういう素性かを説明できるわけがないからだ。
扉をパタンと閉めて、廊下を歩きながら宰相は考えた。
(シルフなど初めて見た。さすがはグリフォンすら手懐けたといわれる神子姫。あのグリフォンはちょうど出会ったから乗せてもらっただけだと仰っていらしたが・・・)
確実に本物だ。
やはり利用価値はある。
宰相は、これからのことを思い描かずにはいられない。
(まさかあのカイトが身元を偽っていたとは思わなかったが・・・。パッパルート王国にあるドレイク一家のユーリか。まず私を選んだのは見事な見識だ)
できれば専属で雇いたいが、最初から人材を派遣する組織だと言われたら仕方あるまい。
要は短期契約しかしないということだ。傭兵と同じく。
(必要とあれば神子姫すら攫ってくることのできる実力者を抱えている組織か。覚えておく必要がある)
あの手腕を他国に使われてはたまらない。つまりあの銀髪の男なら、今度はこの国から神子姫を攫っていけるということだ。
(その組織、他国に雇われるわけにはいかんな)
昂揚する気分を抱え、宰相は城への道を急ぐ。
神子姫の存在は知られてはならない。実はこの別邸は宰相がこっそりと手配したもので、訪れる時も護衛はつけずに来ていた。
今、どこの国も神子姫を攫った人間を探しているのだから。
尻尾を掴まれてしまうようなことをするわけにはいかない。
(そう、今はまだ・・・)
そう、いずれ自分が神子姫の力を全て手にする日まで・・・。
(だが、運悪く神子姫の存在がばれても、全てあの男のせいにできる)
仮に神子姫の身柄を宰相が押さえていたと露見してしまったとしても、神子姫が証言してくれるだろう。
それはカイトと名乗る男の勝手な行動によるものだったと。
そんな神子姫を宰相は保護してくれたのだと。
(何があろうと上手く泳ぎきってみせる。それが私だ)
宰相の顔に浮かんだ笑みは、どこか歪みのあるものだった。




