78 小猫は名前をつけてもらった
南の海に浮かぶ真珠とも讃えられるディリライト諸島。
その中でも一番大きな島がディリライト島だ。
そこで家を借りているカイトは、最近、小猫を飼い始めた。
小さな動物を飼うだけで、人はこんなにも穏やかな気持ちを取り戻すことができるのかと、カイトは改めて生き物の力を感じている。
勿論、何の役にも立たないのは事実だ。
(いや、手間だけかかるお荷物だ)
大人しく留守番をしておくように言っても、にゃーにゃー鳴いて足元に纏わりつく。
しかも自分だけにしか懐かないのなら特別感もあろうというものだが、カイトと一緒の時はまさに「好き。大好き」と言わんばかりに「かまって、かまって」と寄ってくるのに、宿舎に連れて行けば、小隊長ドカートンや美女のルーシーばかりか、頭を撫でてくれる皆にごろごろと咽喉を鳴らす始末だ。
(なんて浮気性な生き物なんだ、猫。馬だって俺にひとたび懐けばちゃんと俺だけを主人として認めてくれるってぇのに)
真っ先に駆け寄ってきて、にゃーと挨拶してもらえるものだから、猫より犬派のドカートンすらご機嫌だ。
「この小猫、さすが賢いだけはある。俺が一番偉いと分かっているのだな」
本来は、
「猫など連れてくるものではない」
と、一番に言いそうなものなのに、ちゃっかりお目こぼし状態となっていた。
(なんて世渡り上手な生き物なんだ、猫。誰に媚びればいい思いができるか、分かっているとしか思えねえ)
皆が模擬剣などで訓練したり、慌ただしく動いていたりする時には、邪魔にならないような場所に座って見ていたり、居眠りしたりして大人しくしている。
たまに高い木に登りすぎてしまったりもしているようだが、やはり猫だからなのか、見事な空中回転で着地し、それをルーシーに絶賛されて誇らしげだ。
(やめとけ、猫っ。その女はお前を太らせてから食う気満々な女だっ。近づくんじゃねえっ)
しかし、ルーシーの前でそれは言えない。
だからちゃんと家に帰った後で、カイトは言い聞かせている。
「いいか、猫? 世の中には笑顔で近づいてくる怖い女だっているんだ。誰彼かまわず懐くんじゃない」
「にゃ」
返事は立派だが、全く理解せずにルーシーに懐いているのだから、所詮は猫なのだろう。愚かなことだ。
まさに主人の心、小猫知らずである。
(いや、もしかしてこの小猫の中では、俺は主人ではなく世話係として認識されているのか?)
そう考えると虚しくなってしまうが、眠くなったらカイトの膝の上に乗ってきてくるっと丸まって寝てしまうのだから、可愛いと思ってしまう。
今までこんな小さな動物に懐かれたことのないカイトには新鮮な体験だった。
小さいから踏まないように気をつけて、寝てしまったらルーシーが用意してくれた可愛らしい揺りかごの中にそっと休ませ、そうして毎日世話をしていれば、色々と物思いに耽る暇もなくなる。
(なんで猫なんぞに揺りかごなんだ? しかもこの揺りかごに敷き詰められたクッション、どうしてこう高そうなんだ?)
しかもカイトに揺りかごまで運んでもらい、ご機嫌で眠りにつく小猫は、何故か朝になったらカイトの枕元で寝ているのだ。何の為の揺りかごなのだろう。
「あのなぁ、猫。お前みたいな小さいのがいたら潰しちまうだろが。お前だってぺしゃんこ干物になりたくないだろ? ちゃんと揺りかごがあるんだから、そこで寝ろ」
そう言い聞かせても、ふみゃーと鳴いて終わりにするのだから、小猫とは人肌が恋しい生き物なのか。
(寝室の扉を閉めれば、にゃーにゃー鳴いて入れろと主張する。なんて我が儘な生き物なんだ、猫)
だが、まるでとても優しくて幸せな日々を繰り返しているかのような、そんな気分をカイトは味わっていた。
ドモロール王国へ送り返した五人の代わりにと、やはり五人の騎士達がやってきて、月に一回だけ首長に挨拶しに行く日がやってきた。
「今回やってきた五名と新入りのルース君だけ連れて行けばいいかと思っていたのだが、どうせなら全員でどうぞと、あちらから言われたのだ。何でも茶をもてなしてくださるという。皆、決して礼を失せぬように。ドモロール王国の名を辱めぬよう振る舞うのだぞ」
「えーっと、そういうことでしたら、小隊長。この猫の世話もありますし、俺は行かねえか、どこかこの宿舎の部屋に小猫閉じ込めておくかしておけばいいでしょうかねぇ」
すると、そこでルーシーが小猫に手を伸ばす。
「そうですわね。ディリライトの野蛮な兵士にいじめられたりしたら大変ですもの。どこかのお部屋でお利口に待っててもらった方がいいですわ」
「いや。この猫は賢い。家具で爪とぎもせんし、小物や食器をひっくり返したりもせんしな。連れて行ってもいいだろう。気軽な茶会ということだったし、もしもケイト姫がお姿をおみせになるようならば、献上してもよい」
ディリライト首長が猫嫌いだったらどうするのかと思ったカイトだが、その時は猫と一緒に帰ってくればいいだけかと、そんなことを思う。
けれども、別にディリライト首長夫妻とその跡継ぎは猫嫌いではないようだった。
「おや、可愛い小猫ではないか。たくましい兵士が肩に猫を乗せているとは、ほのぼのとする光景だな」
「本当に可愛らしいこと。タイキ、あなたをずっと見ていてよ」
「何故なんでしょう。別に魚や肉のにおいがついているとかいうわけじゃないと思うのですが」
カイトの肩の上にちょこんと乗った小猫は、特に跳びはねたり走っていったりもしないが、じーっとタイキを見ていた。
母のカリンに指摘され、タイキも戸惑いながらその理由を挙げてみせる。
室内での茶会ということで、二人か三人につき一つの卓が用意されていた。
「この小猫にはミルクをあげましょうね」
「くださるのでしたら小皿を。この猫は茶も飲みますので」
使用人に気を遣ってもらいはしたものの、カイトがそう言うと、とても変な顔をされてしまった。
どうやらカイトと同じく、ディリライトの使用人達も猫はお茶を飲まないと思っていたらしい。
カイトだって猫が茶を舐めるのを見たのは初めてだったが、この小猫は飲むのだ。
さすがにそれを聞いてしまったコウヤとカリンが胡乱げな眼差しになる。
「えーっと、たしかカイト殿と言われたか。猫は普通、茶は飲まないと思うのだが」
「はあ。勿論、ミルクも飲みます」
すると、小隊長と共に座っていたタイキが立ち上がって小猫に手を伸ばす。
「なら、私のお茶を分けてあげよう。ずっと見ているしね」
小猫もその手の上に前足を乗せたかと思うと、すっと肩までジャンプし、タイキの頭の上に前足を乗せてしまった。
「こっ、こらっ、猫っ」
「ああ、かまいませんよ。とても人懐こい猫ですね」
気にせず小猫を乗せたまま自分の卓へと帰っていったタイキだ。
カイトがハラハラしながら見ていると、タイキの額飾りを前足でペシペシしながら顔を近づけている。
「ここはお茶の葉を組み合わせて楽しむようですわね。カイトさんはどういった組み合わせがお好きですか?」
「別に茶の組み合わせなんて俺には分からんので・・・。すみませんがルース殿、よろしくお願いします」
あの跡継ぎがつけている額飾りが気に入ったのか何なのか、怪我させたらとんでもないことになると焦るカイトに比べ、同じ卓についたルーシーは冷静なものだ。
「どれくらいの割合を足すのが飲みやすいのかしら? あまり香りが強すぎてもお茶の味が分からなくなりそうだけど」
使用人に組み合わせのお勧めを尋ねながら、自分で適当に作り上げていく。
だからカイトは小さな声で尋ねた。
『なあ、ルース殿』
『なんでしょう?』
『あの猫、どうにかして連れ出す秘策はないか? 跡継ぎ殿に怪我をさせたらどんなことになるか』
『大丈夫でしょう。もしもそんなことになった場合は、私がなんとしてでも守り抜きます』
カイトは黙りこんだ。
(何を守るというんだ? 怪我させた後で、守るも何もないだろ? 大体、猫。どうしてお前はそんな高そうな額飾りをパシパシ殴るんだ)
あのキラキラしているのが気になるのだろうか。どうせならそこらの猫じゃらしでもペシペシしておけばいいものを。
だが、手慣れた様子で茶を組み合わせていたタイキも、頭上にいる猫の動きには気づいていたらしい。
「もしかしてこの額飾りが気になるのかな? これは特別なものなんだが、違いが分かるのかもしれないね」
そう語りながら額飾りを頭から外し、卓上の隅に置く。すると小猫はその卓へと飛び下り、額飾りを矯めつ眇めつして眺め始めた。
「ほら、猫ちゃん。ミルクとお茶だよ」
そうタイキが話しかけても全く反応せず、あくまでその額飾りにだけ興味があるらしい。
そしてカイトの方を向いて悲しげに、にゃーと鳴いた。
「え? って、何が言いたいんだ、猫?」
カイトも戸惑ってタイキと顔を見合わせてしまう。
何をしてもらいたいのか、さっぱり分からない。
そしてカイトは、助けてくれそうな人間に救いを求めた。
「ル、ルース殿。猫って宝石とか金属とかにも反応するものなのか?」
「え? そんなことは・・・。とても大ぶりで素敵な額飾りでいらっしゃいますのね。やはり何か特別な由来でもおありなのでしょうか?」
ルーシーは、そこでタイキに向かって怖じ気づく様子もなく尋ねる。
本来、女兵士という身分のルーシーは、自分からディリライト首長の跡継ぎであるタイキに話しかけられる立場ではない。
だが、タイキも気にせずに答えた。
「ああ。これはですね、神子姫様がいらした折、その滞在の礼にと私が頂いたものですよ。神子姫様は、男物に作り直してから私に下賜してくださったのです」
にこやかにタイキが言うと、ドカートンが不愉快そうに鼻を鳴らす。
「そんなことも聞いておらんのか。全く、有名な話だというのに」
「まあ、神子姫様が。そうでしたか。ですから特別なものを感じて・・・」
ルーシーは、小猫に微笑みかけた。
その笑みの意味するところは「取り返しましょうか?」なのだが、そんなことと気づく者は他にその場にいない。
「きっとその特別な価値が、小猫にも分かってしまったのでしょうね」
小猫は小首を傾げて卓上の額飾りとタイキを交互に見ていたが、何かそれで落ち着いたのか、すたっと床に飛び下りてからカイトの膝へ戻ってきた。
「お前な。そんなとんでもなく大切なものを気軽にペシペシ叩いて戻ってくるとは何なんだ」
しかもタイキがミルクや茶を用意してくれているのに全く反応しないとは。
「おやおや、猫ちゃんはもう興味をなくしてしまったのかな。もうこの額飾りはいいのかい?」
「みゃ」
タイキの方へ顔を向けて返事はするが、ルーシーの膝に移って撫でられている小猫は、さっきまでの好奇心をもう忘れてしまったらしい。
「猫は3日で飼い主を忘れるとは聞いていたが、なんて移り気なんだ」
カイトのぼやきが聞こえたか、タイキもそれに同意する。
「いや、全く。しょうがないな。ほら、ミルクとお茶だよ」
「ありがとうございます」
かなりフットワークが軽いのか、上座にいたタイキがその小皿を持ってきたものだから、ルースが立ち上がってそれを受け取った。
自分の卓上にそれを置く。
「基本の組み合わせですから飲みやすいと思いますわ」
そうして卓上で小猫にそれらを舐めさせ始めたものだから、さすがに一番の上席にいたカリンが眉を顰めた。
「ドモロールの方は、猫を卓上で食べさせますの?」
いくら可愛い猫であっても、猫は猫だ。女性だからこそ、マナーには気を遣う。
それだけにカリンの疑問というよりも、質問にみせかけた非難は当然のものだっただろう。
けれどもルーシーは平然として答えた。
「ドモロールに限りません。この猫はとても価値がある猫なのです。床の上でだなんて、そんなこと、絶対にできませんわ」
すると、コウヤが妻を制して尋ねた。
「ルース殿といったかな。ドモロール王国では女性の兵士も多いのかね」
「さあ。私は存じ上げません」
「ふむ。私は猫には明るくないのだが、その小猫、どれ程に価値があるのかな? いや、猫なんてどこにでもいると思っていたものだからね」
にっこりと笑ってルーシーは答えた。
「価値など人によって基準は様々でしょう。ですがこの小猫は知る人ぞ知る、とても貴重な猫なのです」
そうして小猫に向かって、笑いかける。
「こちらのお菓子も美味しかったですよ」
差し出された菓子を食べさせてもらい、小猫はご機嫌だ。
ごろごろと咽喉を鳴らしてルーシーに顔をこしこしと擦りつける。
しかし、そこで気色ばんだのが今回ドモロール王国から派遣されてきた騎士達だった。
「控えろっ。いくら強かろうが、猫ごときをそこまで・・・っ」
「いくら神子姫様に献上するつもりであろうと、何と躾のなってない体たらくっ」
「増長しすぎであろうっ」
ガタガタッと、次々に席を立ちあがったが、彼らを率いるドカートンが反応するよりもコウヤの方が早かった。
「いや。待ってくれ。たしかにその猫、言われてみればとても気品がある。できれば私の席でお茶をと思うのだが?」
「まあ、あなた。あなたまで何を・・・」
気品も何も、ありふれた茶色いトラ猫だ。
カリンが夫に呆れた視線を向ける。
「いやいや。可愛らしい上、神子姫様の額飾りの価値が分かるとはとても賢い猫ではないか。ましてや神子姫様に献上予定となれば、血統も立派な猫に違いない。きっと親切にしておけばご利益があるだろう。時に、普通の人では理解できぬ程に高額で取り引きされる猫がいると、私も聞いたことがある」
立ち上がってカイト達の所まで、コウヤは歩いてきた。
「良かったら私の卓でお茶でもいかがかな? 妻は茶の配合が得意なのだ。きっと気に入ってもらえるだろう」
よりによって、小猫に語りかける。
差し出されたコウヤの腕にぴょんっと乗り、小猫は一番の上席、しかも卓上に落ち着いてしまった。
「私とカリンの間に椅子を一つ用意したまえ。卓と同じ程度に座面が高い椅子を。赤の間の椅子ならぴったりだろう」
しかもコウヤはちらっと茶菓子を見て考えたらしい。
「こういった茶菓子は甘さも控え目だからな。たしか、花を模った菓子が届いていただろう。あれを全種類、一つずつ。それから蒸し菓子も小さく切って可愛らしく盛りつけてきなさい」
使用人達に椅子ばかりか、菓子の盛り合わせまで用意させた。
「カリン。たしか新しい味の組み合わせがあったね。それを作ってもらえないか。どうせなら様々な種類も」
「はい」
そうなるとカリンも、夫に命じられたまま色々と茶を作って小猫の分は新しく用意された小皿に入れていく。
その小皿も、とても装飾性があるものをコウヤは小猫用として用意させた。
「どれが好みかな? このお茶は花の香りを移したものなのだよ。ああ、こちらは発酵させたものだ」
コウヤに話しかけられた小猫は一つずつ舐め、気に入った茶をぴちゃぴちゃと舐めはじめる。
菓子の盛り合わせも、少量を可愛らしく盛り合わせた皿で出されたのだが、嫌味なのか何なのか、とても高そうな菓子皿で提供されていた。
平常を装いながら、ドカートンが尋ねる。
「コウヤ様は、猫をお好きでいらっしゃるのでしょうか?」
「そうだな。ドカートン小隊長ならこの価値が分かるだろう。たしかにとても賢く、得難い猫だと感じ入ったよ。いや、さすがだ」
「はあ」
この場で一番もてなされているのが、なぜか猫。
首長夫妻の間という一番の上席に座るのが、なぜか茶色い小猫。
ゲストは既に小隊長でも赴任してきた騎士達でもなく、ただのトラ猫。
こんなことがあってもいいのだろうか。
見れば立ち上がって怒気を示していた騎士達も、何とも言えぬ表情でコウヤや小猫を眺めては、顔を見合わせている。
「ル、ルース殿」
「なんでしょう?」
「普通に床の上で食べさせておけばこんなことには・・・」
「冗談はやめてくださいな」
「いや、冗談って・・・」
だが、女兵士にすぎないルーシーが騎士達の恨みをかったことは確実だ。
彼らはプライドが高い。こんな場で女性と雖も兵士に恥をかかされたとあっては許さないに違いない。
『ルース殿』
『なんででしょうか?』
『今日は一人きりにならん方がいい。いや、良かったらうちに来た方がいい』
『どうしてでしょう?』
『もしも何かあって、お宅の身内の人にまで・・・』
その先は、いくら小声でもさすがに言いにくい。
カイトは言いあぐねて、言葉を泳がせた。
するとクスッと笑ってルーシーがカイトを黒い瞳で見つめてくる。
今までこの女に警戒心を覚えたことは多々あるが今は感じないなと、カイトはそれを不思議に思った。
その形のいい赤い唇から出てきた言葉を聞けば、自分の認識が間違っていたことにすぐ気づいたが。
『大丈夫ですわ。あの程度の騎士達なら、うちを襲撃されたところで痛くも痒くもありません。私の身内も私と同じ程度には強いものですから。それこそ今度は肋骨を折られる程度ではすまないでしょうね』
『・・・そうかよ』
心配して損したと、カイトは心の底から思った。
茶会も終了し、ドモロール王国軍の一行は揃って辞去の挨拶をすることとなった。
小隊長であるドカートンも、いかに素晴らしい茶会だったかを褒める。
「お気に召したのでしたら、なんでしたらその小猫はどうぞお受け取りを。高い猫らしいので、もしも神子姫様がおいでになりましたら献上しようと思っていたのですが、コウヤ様が可愛がってくださるのでしたら、猫も幸せでしょう」
「ふむ」
ドカートンが提案すれば、ディリライトの首長コウヤは横の椅子に座る小猫を見下ろした。
小猫も、じーっとコウヤを見上げている。
「だが、この猫もいたい場所があるだろう。勿論、歓迎するがね。うちの猫になるかい?」
コウヤが猫に尋ねれば、猫は何を言われているのか分からないといった風情で、カイトとルーシーの方を見た。
その赤みを帯びた焦げ茶色の瞳がとても切なさそうで、カイトは思わず立ち上がる。
「あの・・・っ」
「なんだ、カイト。控えろ」
「すみません。ですが・・・」
ドカートンに叱責され、カイトも座り直そうとした。
首長夫妻が出ていくまで、自分達は席を立つことなど許されぬ立場だというのに。
それでも、小猫の目が何かを伝えているかのような気になったのだ。
放っておけない。
(いや。ここなら大事にされるだろうし、この女と違って食べたりもしないだろうし)
小猫にとっては一番いいもらわれ先ではないか。
しかし何を言うべきか、自分の気持ちが分からず、こういう時にこそと思って横にいるルーシーを見れば、「私は知りません」とばかりに、ルーシーはその会話が全く聞こえないフリで茶を味わうように飲んでいた。
(あれ程、可愛がっておきながら茶の方が大事なのか。猫の行き先なんてどうでもいいのか)
なんて薄情な女なのだろう。
そうだ。この女に期待した自分が馬鹿だっただけだ。
カイトは、そこで口を再度開いた。
「その猫は、元々、神子姫様に献上しようとしていたものでございます。この猫ならばグリフォンに怖じることもないからと。たしかに首長様の所へ引き取られれば猫にとって幸せではありましょう。ですが、神子姫様はとても心優しいお方。一度は首長様へ献上した小猫を奪い取ったりはなさいますまい。ですから神子姫様がおいでになるまで、その猫は私に世話させていただけないでしょうか」
コウヤとドカートン、そしてタイキがカイトを見つめる。
「何かしら、このヘタレ」
そんな小さな呟きが横から聞こえたような気がしたカイトだ。
いや、気のせいだろう。そうに違いない。
そう信じたかった。
「神子様が心優しい、ねえ」
タイキが面白そうに呟く。
「そうなんだ?」
くすっと笑って尋ねられたカイトは、タイキを見返した。
「違うのですか?」
「いや、何を根拠に言っているのかなと思ってね」
カイトがタイキに対し、蔑むような顔になったのは仕方なかっただろう。
「根拠も何も、女神シアラスティネル様の姫君達はどなたも心優しく素晴らしい方々。あの空に展開された奇跡を見ても、その気高くお美しい心を疑う者はおりますまい」
「姫君の内のお一方が起こされた奇跡だ。ジンネル大陸に留まった神子様はともかく、ゲヨネル大陸とマジュネル大陸に渡った神子姫様がどうかなど分かるまい」
「彼の奇跡を起こされたお一方を思えば、残りのお二方もどういったお方なのかは火を見るより明らかなものでしょう。それ程の物を頂いておいて、どうしてあの律儀な方々に対してそこまで無礼な物言いができるのか、私には分かりかねます」
ドカートンも、ディリライト次期首長に対して口ごたえをするカイトを叱りつけるべきところだが、事は神子姫のことである。
そうなるとカイトを叱りつけるわけにはいかず、小さく唸った。
「なるほどね。君の上司は父にこの猫を渡すと言う。君は自分が引き取ると言う。だが、君の意見など誰も聞いていないのではないか?」
「それは・・・」
カイトは黙りこんだ。
たしかにその通りだ。けれどもどうして、あの小猫に悲しげな瞳をされて置いていけるだろう。
だから顔を上げてコウヤに頭を下げる。
「小隊長が申し上げたことは、すみませんがなかったことにしていただけないでしょうか。その猫は私が所有している大事な猫なのです」
コウヤは面白そうに笑った。
「別に私はどっちでもいいのだよ。猫がどこに行こうと。猫がいたい場所が一番だとは思うがね」
すると小猫は椅子から軽やかに床へと着地し、てくてくとカイトの方へと歩いていく。
カイトが屈んで腕を差し出せば、そこへまっすぐ向かっていった。
「ふふ。ならば私も申し上げてみましょうか。そんな、自分に責任がないような逃げ口上を述べるような意気地なし共とは違い、私はあなたをとても大切に思っていますし、大事にしますわ。誰に問われても、世界で一番かけがえのない存在だと言うでしょう」
黒く艶のある髪に、日焼けを全くしていない色白の肌。そして黒く潤んだ瞳。
ルーシーの濡れた赤い唇が、立ち止まった小猫に向かって妖艶に微笑む。
「誰よりも愛していますわ」
ぽすっとその胸に小猫は飛びこんだ。
「「「「・・・・・・」」」」
満足そうに小猫を撫でる美女。
カイトの腕は行き先を失った。
「本当に、ひどい目に遭いましたわね。こんなにも可愛らしい小猫。誰もが我先にと望んで、どうかうちにいらしてくださいと願うのが当たり前ではありませんか。何を格好つけて選んでもらうとか言い出すんでしょう。全く分かってない男が多すぎます」
小猫も、不満なそれを訴えるかのように、みゃーみゃーと鳴く。
その場に居合わせた人達は目が点になった。
「いや、ルース君。君がその猫、神子姫様に献上すれば喜ばれると言ったのだと思うんだが」
「はい、小隊長。ですがそれは神子姫様がおいでになった時のこと。そうでないならば、こんな大切な猫、どうして人に渡せるでしょう。それを皆が寄ってたかってどうこうとは。私達の給料を合わせても買えない貴重な猫だと、私は申し上げました」
「へえ。そんなに高い猫なのか。たしかに父上の言葉も分かるようだったし、知能が発達しているんだな。訓練すれば様々なことができそうだ」
タイキが面白そうに小猫を見つめる。
「うちの猫になったら毎日ご馳走を食べさせてあげるよ。どう?」
「みゃっ」
ルーシーの腕の中で、タイキに勧誘されても断る小猫だ。
「じゃあ、この額飾りをあげると言ったら?」
「・・・・・・。みゃっ」
それでも断る小猫だ。しかし、ちょっと考えたらしい。
「なんと。以前から賢いとは思っていたが、本当に人語を解していたのか。なるほど、高価な猫だとルース君が言っていたわけだ」
ドカートンが感嘆すれば、騎士達や兵士達も改めて小猫を見直した。
「どうすればそんな猫が育てられるんだ?」
一人の騎士が、ルーシーに尋ねる。
「私が聞いたところによりますと、まず賢い猫を沢山集め、その中から生まれてくる子猫の中でも賢い血筋の猫を選りすぐっていくそうです。勿論、その間も人の言葉に慣らして、それを理解する猫をどんどん掛け合わせ、そうして誕生するらしいですわ。その為に要する費用や年月を考えれば、いかに高く売買されるかお分かりでしょう。ここまでの成功例は5000の内、1つも出ないのです」
勿論、それは嘘だ。
しかし、ルーシーが自信満々に言ったものだから、そういった繁殖方法があるのかと、騎士も納得してしまった。
優れた馬の掛け合わせと似たようなものなのだなと。
「ですけど、カイトさん。ご自分の猫だとおっしゃるのなら、せめて名前ぐらいつけてあげたらいかがです? 普通、猫だからって、猫って呼ぶものじゃありませんわ」
そこで手持無沙汰になってしまったカイトを、ルーシーは冷ややかな瞳で見る。
「名前なんて、どうつけろというんだ」
その時カイトは、美女が男を蔑むような表情を浮かべた場合、当事者じゃない男達は見惚れるだけなのだと、欲しくもなかった知識を手に入れた。
美人は得だ。
男は損だ。
「世界で一番可愛い名前をつけてあげればいいだけのことじゃないですか。誰もが、なんて可愛らしく素敵で、この猫にぴったりだと感動するような名前を」
「・・・んな無茶な」
そんな名前が存在するなら是非教えてもらいたい。
きっと子供が産まれた親は全て、その名前をつけることだろう。
(別に俺と猫しかいねえんだ。名前を呼ぶ必要もねえだろ? 猫って呼んで、それでいいんだから十分だろ?)
この俺にどうしろというのだ。
カイトは、途方に暮れてしまった。
ディリライト邸を出て、宿舎へと戻ったドモロール王国軍の十名だが、その小猫の賢さに皆は改めて感心する。
そんなにも価値がある猫ならば宿舎で飼った方がいいのではないかと、赴任してきた騎士達が言い出した。
やはりカイトに持ち逃げされたり、売られたりしてはという気持ちが出てきたからか。
「それはかまわんですけどねぇ。この猫、かなり手間がかかりますよ? 専用の寝床だのトイレだの食器だの椅子だのを使いますから。ついでに寂しがり屋なんで、部屋の扉は全部開け放しといてやってください」
「何だ、それは」
騎士達は、猫なんて餌だけやってほとんど放置しておけばいいと思っていた為、カイトの話を聞いて面食らう。
本来、兵士に対して騎士は命令しかしない。
ドモロール王国軍の兵士ということにはなっていてもカイトは民間人で、だから宿舎の生活もせずに一軒家で暮らしていると聞いていたからこそ、会話も成り立つのだが、そのカイトの話はあまりにも奇妙奇天烈に過ぎた。
「面倒みてくださるんでしたら、スープ用、肉用、魚用、デザート用、飲み物用の小皿、そしてトイレと寝床用の揺りかごをまず持ってきますんで」
「ちょっと待てっ。たかが猫だろうっ」
「そうなんすけどねぇ」
その気持ちは痛い程によく分かるカイトだ。
自分だって猫に皿の違いなぞ分かるかと、そう思っていた日があった。
だが、この猫には分かるのだ。
「この猫、賢いんすよ。ちゃんと決まった皿を使わねえと文句言ってきますんで」
カイトがスープ用とサラダ用のミニボウルを間違えただけで、小猫はミニボウルをぽすっと叩いてカイトをじーっと見上げてくる。
サラダ用のミニボウルには色とりどりの花が描かれていて、スープ用のミニボウルには幾何学模様の図柄が描かれているから、その違いが分かっているのだろうが、形は一緒なんだからどうでもいいじゃないかと、本気でカイトは思う。
そこでカイトが、「悪かった。じゃあ、入れ替えようか」と、中身を移そうとすれば、「んみゃ」と鳴いて、それには及ばないと止めてはくれるのだが、つまり自分へ手抜きをしたら「分かってるんだぞ」とアピールしてくる猫なのだ。
「普通、猫なんて普通に魚や肉やミルクを与えておけば勝手に生きてくもんだろう」
「俺もそう思ってたんすけどね。スープや茶やパンも食う上に、寝るときは寝つくまで撫でてやってねえとすぐに起き出してにゃーにゃー鳴くんで、ちゃんとかまってやってください」
「・・・は?」
「何かやりながら、膝の上で撫でてやってりゃ大人しく寝てくれたりもしますし。で、揺りかごまで運んで寝つくまで話しかけてやりゃあ大人しく寝ることも多いです。あ、手抜きはすぐバレますんで、撫で方も単に手を動かしてりゃいいってもんじゃないっすから」
「・・・なんて面倒な」
騎士達は猫の世話をするという意見を引っこめ、結局その話は流れた。
それは帰りがけに市場へと寄り、買い出しをしていったこともあるだろう。宿舎では兵士達が交代で食事を作っているが、カイトは借りている家で自炊している。
だから皆は宿舎用、カイトは個人用の買い出しをして帰ったわけだが、カイトが牛の内臓を煮込みにしようと買っている間に、猫は八百屋の前でちょこんとお座りし、気づいたカイトが近寄っていけば自分が食べたい果物の籠の手前に前足を置いてアピールしていたからだ。
「お前なぁ、猫。昨日もマンゴー食っただろ。そんなに気に入ったのか」
「にゃ」
「しょうがねえな。じゃあ、奥さん。マンゴーを一籠、あと、バナナも一房くんねえか。あ、その真ん中の奴がいい」
「今日もご主人様のお手伝い? 本当に賢い猫ちゃんねえ」
八百屋の女房から褒められてご機嫌そうににゃあと鳴いてはいるが、無駄に手間と金がかかるだけの猫にしか、騎士達には見えない。
そしてカイトがどの腸詰め肉を買おうかと迷っていると、
「にゃ」
と、自分が食べたいナツメグ多めな腸詰め肉の前で鳴くときたものだ。
カイトにしてみれば食べたいものはちゃんと伝えてくれた方が助かるので何とも思っていなかったが、さすがに見ていた騎士や兵士達が、
(なんてこだわりの多い猫なんだ)
と、思ってしまったことは事実だった。
(まあ、いいとしましょう。ちゃんとお食べになりたい物を食べさせているようですし。そこは合格ですわね。呼び方だけはどうにかしてもらいたいですけど)
そんなことを思っていたのは一人だけである。
尚、その日の夜、皆が解散した宿舎からルーシーが身内と暮らしているという家に至るまでの道で、何故か三名の騎士達がボコボコにされた状態で見つかった。
通りがかった島民がそれを知らせてきたのである。
肝心の騎士達は、どうしてそこでそんな怪我をしていたのかは、決して口を割らなかった。
勿論、ドカートン以下、皆には何が起きたか分かっていた。
けれども助かることに、今回は全身打撲だ。骨折まではいっていない。
だから道で転んで怪我したということでドカートンは終わらせ、本国への交代要請は行わなかった。
当たり前である。赴任そうそう交代だなんてドカートンの指導力不足が疑われ、本人達も数段階の降格となり得る事態ではないか。
『分かっているとは思うが・・・。こちらもな、交代したばかりでディリライト首長に挨拶したその日に懲りもせずに馬鹿をやらかしたなどと、報告はできんのだ。恥もいいところだからな』
それでもドカートンは冷たい目で叱責しておいた。
『申し訳ございませんっ』
『あれ程までに強いとは・・・っ』
『このうつけ者共がっ。いいかっ。彼女は、
「今回は警告です。次回は遠慮なく叩きのめします」
と、言っておったが・・・。相手の力量も把握せぬような間抜けはさらすなっ!』
『はいっ』
『申し訳ございませんでしたっ』
どうせ神子姫はまだ来ていないのだ。ならば療養している人間が三名いてもかまうまい。
小隊長ドカートンは自分もまたルーシーの力量を見抜けなかったことを棚に上げて、そんな風に心の決着をつける。
けれどもそれからルーシーに対し、兵士ばかりか騎士達までもが「ルース殿」「ルースさん」などと及び腰になりながら呼ぶようになった。
そして、カイトは悩んでいた。
「なあ、猫。世界で一番可愛らしい名前だなんて、最初から存在しねえよな」
「にゃー」
「んなもんがあったら、どこの国だって王女にその名前をつけるさ。そうだろ? なんでああ女ってのは無茶しか言わねえんだ?」
「にゃー」
「だから、ほら。この文字を組み合わせて好きな名前を作るんだ。いいか?」
「にゃー」
しかし、床に文字を書いた紙を広げても、小猫は欠伸してカイトの膝にぴょんと飛び乗り、そうして眠ってしまう始末。
(やべえ。このまま放置してたらあの女が微笑みながらここへやってきそうだ。それこそ、ホホホと笑いながらナイフを突き刺してくるかもしれん)
あれだけ美人なのに、いずれ隙を見て食べてやろうと目論んでいる小猫にしか愛情を抱けないとは、なんて凶悪な存在なのか。
交尾したオスを頭から食らう蟷螂のような女だ。
どんな美貌を持っていても気性がそれでは持ち腐れもいいところ、不憫なことよと同情するには、あまりにも強烈すぎる。
だからカイトは、宿舎である貸別荘の横にある納屋で、ばったりと会ったルーシーに言った。
「ルース殿」
「なんでしょう?」
「この猫の名前だが、ルース殿がつけてくれないか? 俺じゃ猫の名前なんて分からん」
何事も先制攻撃あるのみ。
カイトは、
「まだ決めてませんの? なんて優柔不断なんでしょう。それでも男かしら」
などと言われる前に、それを持ち出す。
「にゃ?」
カイトの肩の上にちょこんと乗って、その頭に前足を乗せて周囲を見ていた小猫は、ルーシーに向かって小首を傾げてみせた。
「名前に可愛いとか綺麗だとか、そんなのを言われても俺には分からねえんだ」
「別に、普通に女の子の名前をつければいいじゃありませんか。ほら、たとえば昔、子供の頃、近所で憧れていた綺麗なお姉さんの名前とか」
「生憎と俺の近所にいたお姉さんに、憧れた覚えなんぞない」
シルバータイガーの里にいたお姉さん達は、ほとんどがシルバータイガーである。年上だからこそ自分達よりも先に牙や爪が発達し、獲物を素早く仕留めたものだ。
獲物の血に染まったその口元を見れば、捕食者に対して憧れるより被食者に対して食い気に走るのが、虎の獣人だった。
「あら、そうですの。困りましたわねえ」
カイトの肩から自分の腕の中へと移った小猫を撫でながら、ルーシーは少し考える。
かなり荒んだ生活をしているという話だったが、とんでもない仕事を請け負っている割に、カイトはクリーンだった。
「でしたら、カイトさんのお姉様や妹さんの名前なんていかがです? 同じように優しい女性に育つようにと、そんな願いをこめてみたらいかがかしら」
カイトは少し考えたが、疲れた顔で首を横に振る。
「そして同じように狂暴な猫に育つのか? とんでもねえ。気に入らないことがあると、すぐに平手が飛んでくる苛烈な女共だ。冗談じゃない」
飛んでくるのは爪と牙だったが、さすがにカイトもそれは言えない。
カイトの女性の好みを知ろうと思ってわざと言ってみたルーシーだったが、どうも参考にならないようだと諦めるしかなかった。
「じゃあ、今までカイトさんが可愛いとか綺麗とか思った名前などは?」
「名前なんぞにそんなものを感じる奴がいるのか?」
「・・・そういうものですのね」
カイトは、いちいち名前に意味を見出さないタイプだった。名乗られたらそれが全てだ。
「分かりました。じゃあ、私と同じ名前にしましょう。ルースって名付けて、だけど名前が一緒だと混乱しちゃいますから、ルーって呼ぶようにしたら可愛いですわ」
「ちょっと待ってくれっ。なんでルース殿と猫の名前をお揃いにしなくちゃならないんだっ?」
「あら。だって可愛いでしょう? ほら、ルーって呼んだらとっても似合いそう。だってこんな可愛らしい小猫、可愛い名前じゃないと許せませんものね」
「んなアホな話が」
自分の姉妹の名前も冗談ではないが、この女の名前も冗談じゃないと、カイトは思った。
こんな女の影響を受けたら、今はまだ可愛らしい小猫もとんでもない山猫へと変貌を遂げるだろう。
だが、これでは「ルー」で決定してしまう。
よりによって自分と一緒に暮らす小猫が。
よりによってこの女と同じ名前の小猫に。
(俺が一体何をしたってんだ・・・!)
冗談ではない。自分はどこに心の安らぎを見出せばいいのか。
「いっ、いやっ。それなら、それならだなっ、・・・マーコットでっ」
「・・・・・・あら」
カイトは咽喉の奥から絞り出すようにして、その名前を出した。
あえて考えないようにしていた名前だが、「ルー」よりはよっぽどマシだ。
「ほ、ほら。やっぱりだな。ルース殿とは誰もが仕事仲間だ。しかしこいつは猫だ。やはり仲間と愛玩動物は違うだろう? いくら舌足らずに呼ぶとしても同じ名前というのはよくないと思うんだ。けじめというのはあるもんだしな。何よりルース殿だって、自分の名前を呼ぶだなんてちょっと恥ずかしいと思うぞ。な? だからだな、ここはやっぱり違う名前がいいと思うんだ。そうだろう? そして全く違う名前を考えるならば、だ。やはり・・・」
ずらずらと言い訳を並べながら、焦って早口になるカイトである。
「私は何も言ってませんよ、カイトさん」
どこか哀れむような気配を滲ませ、ルーシーは軽く片手を左右に振った。
「マーコットですか。とても素敵な名前ですわね」
そこでルーシーが優しげに笑ったものだから、カイトも落ち着く。
それはまるで穏やかな春の気配を漂わせる、そんな微笑だった。
「ああ。俺が知る中で、世界で二番目に可愛い名前なんだ」
「・・・・・・まあ」
一気にルーシーの微笑が冷たい冬の気配となる。だが、もう違う方向を向き始めていたカイトは、そのことに気づかなかった。
なぜかといえば、それで問題は片付いたからだ。どうして自分は納屋にやって来たか、である。
「じゃあ、それでいいよな。俺はちょっと海岸での整備に行くから。悪いがルース殿。そいつを頼む」
いくら何でも、この宿舎でなら小猫を鍋にしたりはしないだろう。
そんな理由でカイトは小猫をルーシーに預けに来たのだ。
何と言っても海岸沿いでの作業だ。目を離した小猫が波にさらわれたりしたらどうなることか。こんな小さな猫、ほんのちょっとの波で途端に死んでしまう。
「一つお聞きしますけど、カイトさんが知る中で、世界で一番目に可愛らしい名前というのは何なのかしら?」
スコップを取って出ていこうとするカイトの背中に飛んだルーシーの質問に、カイトの肩が僅かに揺れる。
そのまま聞こえないフリで出ていこうとしたようだったが、後で問い詰められるだけだと気づいたのだろう。足を止めて、しかし口には出せず、逡巡した様子だ。
「カイトさん?」
「悪いが、それは誰にも言えない名前なんだ」
納屋から出ていくカイトを見送り、ルーシーは溜め息をついた。
「えーっと、ここの籠を持って皆の部屋から洗濯物を回収してくればよかったんですわね」
小猫を肩に乗せたルーシーも外注に出す洗濯物を宿舎で集め、そうして大きな籠に入れてそれを洗濯屋まで運んでいく。
男達九人分の洗濯物は凄い重さだ。だが、ルーシーには片手で持てる重さだった。
誰もいない道では鳥の囀りがそこかしこに響き、長閑な島の光景である。
ルーシーの肩には小さな茶色い猫がちょこんと座り、その猫には青紫色の石が5つついたブレスレットが、首輪代わりに使われていた。
「本当に馬鹿な男ですこと。マーコット、あなたの本当の名前は、誰にも言えない世界で一番可愛らしい名前だそうですわ」
「そうかなぁ。他の名前かもしれないよ」
「あなたの通称が二番目で、一番目の名前は誰にも言えない。となったら答えは一つですわ。誰にも言えない名前など、普通はありませんから」
ここに来て、ずっとカイトを観察していたルーシーだ。
肩にいる小猫とお喋りしながら、男でも難儀するような重さの籠を軽々と片手で運んでいく。
「だけどルーシー。カイト、本当にルーシーが猫食べるって思ってるよ。騎士の人達に渡したら売り払われかねないって思ってるから日中はルーシーに私を預けるけど、絶対に夕方には近づくなって、何があろうと家には連れて帰られるんじゃないって、毎朝繰り返してるもん」
「まあ、ほほほ。いいじゃありませんの。男なんてやきもきさせておけばいいんですわ」
「あらあら。楽しそうね、ルーシー」
そこへ、道の脇から色気に満ちた声が掛けられる。
「あ、ラーナ。リリアンも。あのねっ、あのねっ。私の名前ね、カイトがマーコットってつけたの」
「あらまあ。じゃあ気づいてしまいましたの?」
「ううん。ルーシーが、自分と同じ名前にして『ルー』って呼びましょうねって言ったら、途端にそっちの名前を出してきたんだよ。私はね、ルーっていう名前も可愛いと思ったんだけど」
差し出されたラーナの腕に移った小猫は、興奮気味にそれを伝える。
「信じられる、ラーナ、リリアン? 世界で二番目に可愛い名前だからですって。一番目に可愛い名前は誰にも言えないそうよ」
「まあ。それはそうかもしれないわね。名付けてしまえばその名前で皆が呼ぶもの。マーコットの本当の名前なんてつけて、あんな馬鹿共に呼び捨てられたらたまらないわ」
呆れを隠さないルーシーに、リリアンもすぐに事情を察する。
「ねえ、ラーナ。ガーネットとサフィルスは?」
「ああ。ガーネット達は尖った石を買いに行きましたの。それをうちに来るまでの道に撒いておけば、殴る手間も省けますもの」
どうせ道を歩く必要もないドラゴンとペガサスである。
カイトのように鼻が利くわけではないので、手っ取り早く誰もが近づけない手段を講じたのだ。勿論、侵入者が家の中に入ってきてからでも十分迎撃はできる。
実際、ルーシーは強いと分かっていたのでその身内とやらが弱点になるのではないかと思ってやってきた騎士達は、ルーシーとは違うタイプの若い美女が揃っていたことに驚き、これならと思ったら反撃にあったわけだ。
可愛らしいタイプのサフィルスですら、その蹴りは強烈だった。ペガサスは地を走るのも得意で、脚力は桁違いである。
「心配しなくても、もうルーシー達、狙わないんじゃないかな。あの人達、未だに少しでも動くと痛みが全身に響くって、トイレすらよたよた歩きだよ? ルーシー見たら下向くし」
「お気の毒ですわね。今度、花束でも贈っておきましょうか。ルーシーに預けて」
「あのね、ラーナ。それしたら泣いて島から逃げちゃうと思うよ。可哀想だからやめたげた方がいいんじゃないかな」
「ほほ。それでも毎日小猫の姿では窮屈でしょう? こちらのコテージにいらっしゃいません?」
「よろしくね、ラーナ、リリアン」
そうしてラーナ達が暮らすコテージに連れていかれた小猫だ。
ルーシーはドモロール王国軍の兵士として仕事をしなくてはならないけれど、かえってその方が安心だと笑って、ラーナとリリアンに小猫を預けた。
そうして人間の姿に戻れば、やがてガーネット達も帰宅し、ディリライト首長の茶会の話をしたり、この島で売られていたサマードレスの話になったりする。
「このサマードレスね、日差しがきつい時には襟のそれを頭の方に持ち上げて日よけフードにできるんですって。ね。なかなかひらひらしてて可愛いでしょ? 他にも色々な模様や色で売られてたの。マーコットならどれが似合うかしら。だからほら、一緒に買いに行きましょ? 待ってたのよ」
「だけどサフィルス。この姿じゃ・・・」
「大丈夫よ。だってカイトさん、いつも海岸沿いで働いてるじゃない。会いっこないって。それにシルフに頼んどけば完璧っ」
サフィルスが着ているサマードレスはディリライト島で売られていたものだ。白地に緑や赤で草花が描かれている。
「あ、そっか。じゃ、行ってみたい。リリアンはどんなのにしたの? ラーナやガーネットのは大人っぽそうだから私には無理だしなぁ」
「私はマーコットが来てから買うつもりでお待ちしていたんですわ。お互いに見立てあってもいいでしょう?」
「ふふ。ラーナも私も買ってませんよ。買ったのはサフィルスだけ。だからみんなでお出かけしましょう、マーコット? せっかくの南国ですもの。鮮やかな色のサマードレスもいいんじゃないかしら」
リリアンが提案すれば、ガーネットも真琴を立ち上がらせた。
「ほら、こっちこっち。やっぱり涼しげな色がいいかしら。大胆なのもいいと思うのよっ」
「待ちなさいって、サフィルス。ごめんなさい、マーコット。サフィルスってば本当に南の島を楽しんでるんですから」
「ううん。ガーネットも似合うの選ぼうよ」
そうして買い物に行けば、色々なデザインのものを体に当てて、どれが似合うとか、こっちがいいとか、賑やかな騒ぎとなった。
「まあま。どなたも美人さんだこと。背も高いし、それならちょっと待っててちょうだい。着丈の長いのがありますよ」
店の女主人も、それぞれ違うタイプの女性が買ってくれる様子となると、にこやかな対応である。
観光客ならばと、まさに色鮮やかで大胆な模様のものを出してきた。
「あら。こういう黄色と青と緑の組み合わせもいいですわね。マーコット、そこで試着してみてくださいな」
「えへへーっ。なんかカラフルなオウムになったみたい。こんな鮮やかなドレスなんて初めて。カイト、喜んでくれるかなぁ」
一緒に暮らしているものだから、つい、自分がそれを着たら喜んでくれるのではないかと思い、真琴はそんな言葉を発してしまう。
けれどもすぐに、今の自分は猫だったことに気づいてちょっと寂しくなってしまえば、リリアンが真琴に向かって慰めるように言った。
「きっと見せて差し上げたら喜びますわ。だって、どう考えてもあなたに未練たらたらじゃありませんの」
「そ、そうかな」
どうなのだろう。
だけどカイトに恋人がいないのはもう十分に把握している真琴だ。今、カイトが誰よりも大事にしているのは茶色い小猫なのだから。
そしてカイトが誰よりも警戒しているのはルーシーだ。
(ルーシー、美人だからカイトもくらっときたらどうしようって思ってたんだけど。なんかルーシーのこと、妖怪か何かと思ってる感じだもんなぁ)
ルーシーはいい人なのでカイトもそこまで警戒しないでほしいと思う真琴だが、うまくいかないものである。
そんな真琴に、ガーネットも今は淡い金髪に染めた髪を揺らして力強く頷く。
「愛していなければ、可愛い存在にその名前なんてつけません。そういえば初めての子供に、別れた恋人の名前をつけて、それが原因で離婚した夫婦がおりましたのよ」
「へ、へえ。別れた恋人の名前を・・・」
「ええ。お分かりでしょう? それはつまり、今の配偶者よりもかつての恋人を愛していると、そう宣言したようなものだったのですわ。子供の名前を呼ぶ度に、過去の恋人を懐かしもうって思ったのか、未練だったのか・・・。それだけ好きだったのでしょうけど」
「それならさぁ、その人と添い遂げればよかったのにね」
「全くですわ」
ふぅっと溜め息をつくガーネットは、何を思い返しているのだろう。
(か、可哀想。子供の名前は、実は配偶者のかつての恋人の名前だった・・・。ショックだよね。子供もそれを知ったらグレそう)
ちょっと同情してしまった。
「ですけど、この場合は・・・。ねえ、マーコット。カイトさんは小猫の名前を呼びながら、きっとその度にあなたを思い返すのでしょうね」
「・・・・・・う」
ガーネットが、うふふと少しからかうような感じで笑いかけてきたものだから、真琴の頬も熱を帯びる。
そうなのだろうか。やっぱりカイトは自分を・・・。
(ううん。カイトのことだもん。他に思いつかなかったってオチかもしれないし)
それでも真琴の心は、隠しきれない喜びで紅潮していった。
ガーネットの慰めにすぎないかもしれないけれど、それでも嬉しい。
(それに、猫でもカイトは私を大事にしてくれる)
猫は昼間、だらだらと寝ているものだが、何かと真琴は動いている。だから夜は熟睡状態だ。
寝ぼけたままカイトのベッドに潜りこむが、それ自体は以前から手慣れたものだ。
そしてカイトも本来は夜行性だが、日中は必要以上に体を動かしている上、猫の世話に明け暮れているものだから、嫌でもそれに生活を合わせている。
小猫と一緒に暮らすようになり、カイトは生活も何もかも、健全さを取り戻し始めていた。
そして真琴も食欲は完全に戻り、カイトと暮らし始めてから自然な笑顔が増えてきていた。




