73 遥佳はヴィゴラスを避けた
自然と共に生きる幻獣と妖精の地、ゲヨネル大陸。
そこに、とある悩めるグリフォンがいた。
(避けられている。それは気のせいじゃない)
彼は気づいてしまったのだ。
(何ということだろう。こんなことがあっていいのだろうか。いや、よくない)
というわけで、ヴィゴラスはイスマルクの所へドスドスと歩み寄った。
イスマルクは机に向かって様々な書物を広げ、何かを書いていたようである。
「キゥッ、キィッ」
「どうした? 悪いが、ヴィゴラス。ハールカがいないんじゃお前の言いたいことが分からん。何か文句があるのは分かるんだが、人の姿になってちゃんと言うか、紙に書いて持ってくるか、もしくはハールカを連れてきてくれ」
イスマルクはペンを置いて振り返った。
今度はなんだと、困惑した顔になっている。
普段は遥佳の近くでご機嫌に過ごしているヴィゴラスだ。用事があるなら、イスマルクが遥佳に声を掛けた時に遥佳を介して伝えてくるものなのだが。
(具体的な会話となったら分かるわけないだろう。どうしてこいつはこうなんだ)
イスマルクが何かしている時に近寄ってきたなら、大体の思っていることは分かる。しかし、用事があるとなったら言ってくれないと分からない。
それは当然だろう、誰でも。
そんなイスマルクの気持ちは、さすがのヴィゴラスにも伝わったらしい。
しょうがないと、ヴィゴラスはその場で人の姿になり、勝手にそこにあったイスマルクの服を着る。
するとイスマルクは、はあぁっと大きな溜め息をついた。
「あのな、ヴィゴラス。別に見られて恥ずかしい体じゃないのは分かるが、一応よそを向いて着替えるとかしてくれ」
「そういうものらしいな。だからちゃんと服は着ている」
人間らしい振る舞いについては、優理の所で学んできたヴィゴラスだ。
自分は完璧だと思っている。
「その着替える時に体を隠す努力をしてくれと言っているんだ」
「気になるなら見なければいいだろう。それにお前は男だ。まさか俺に欲情しているわけじゃあるまい」
「誰がそんな話をしてるんだ。この家にはハールカという若く純情な乙女がいるんだぞ。日頃から性的なものを見せないだけの慎みを持てと言ってるんだ」
「ここにハールカはいない」
イスマルクは汚れなき乙女の生活環境について、深いため息をついた。
それこそ上半身には何も着ていないケンタウロス族にすら真っ赤になってしまう遥佳だからこそ、最近では皆がシャツを着てから来てくれるようになっているというのに。
同じ家の中に住む男が無神経では話にならないだろう。
そりゃヴィゴラスは、基本的にグリフォンの姿で暮らしているが。
(そうだ。こいつはタダのトリ犬なんだ。鳥や犬は服を着ないんだ)
イスマルクは、無駄なやりとりをする努力を放棄する。
「まあ、いい。で、どうしたんだ? ほら、そこ座れよ。立っていられると落ち着かん」
そうだ。どうせこいつはいつもグリフォンなんだし、矯正する方が疲れるだけだ。
そういった結論に達したイスマルクに椅子を示され、どすっと座ると、ヴィゴラスはかなり不機嫌そうに言い捨てた。
「お前のせいだ」
「・・・何がだよ。全ての悪いことは俺が原因かよ」
イスマルクは今までの人生を振り返る。
口説く予定の女をよその男にお持ち帰りされてしまったのも、神子姫が大神殿にやってこないのも、真琴が矢傷を負ったのも、遥佳がグリフォンと逃げたのも、どうせ全ては自分のせいなのだろう。
このゲヨネル大陸に来て、やっとそう言われない日々を、・・・いや、もういい。
どうせ自分の人生なんてそんなもんだ。
「お前が悪い」
「だから、何がだ? まずはそう思うに至った理由を言え。お前の結論は全てにおいておかしいんだぞ」
するとヴィゴラスはむっとした顔でイスマルクを睨みつけた。
「ハルカが俺を避ける」
イスマルクは、一気に脱力する。
そんなの知ったことか。聞く価値など全くない言いがかりだろう、それは。
なので、一句ごと力をこめて切りながら言った。
「悪いが、それは俺、全く関係ない」
「お前が俺を騙してからじゃないか」
「・・・その前にお前がハールカを騙していた事実を直視しろ」
それでも面倒見のいいイスマルクは朝の様子を思い返す。
「それに、別に避けられてはないだろ。今朝だってちゃんとお前の好きな肉団子のスープを出してくれてたじゃないか。食後の果物もお前の分、ちゃんと多めにしてくれてただろ。お前の部屋のシーツだって交換してくれてたし」
そうではないと、ヴィゴラスは理解の悪すぎるイスマルクに対して苛立った顔になった。
「今までっ、食べ終えたら頬ずりしてキスしてくれてたのにやってくれなくなったんだぞっ。しかも俺が抱きかかえようとすると逃げるっ。俺が近づくと、先に俺の頭を撫でるんだっ」
「撫でられるのが嫌なのか?」
いつも喜んで撫でられていると思ったのだが、それはイスマルクの気のせいだったのか。
「違うっ。先に俺を撫でることで、それ以上近づけないようにするんだっ」
それがどうしたと、イスマルクは思った。
「当たり前だろ。小さな子供ならともかく、お前みたいなでかい男に頬ずりしてキスして、更には抱きかかえられたりなんかしてどうするというんだ。撫でてくれるだけでもありがたいと思え」
尚、イスマルクの中で、自分が遥佳を抱きしめるのはカウントされていない。
「お前がいらんことをするからっ」
「言っておくがなっ。お前がっ、最初から年齢相応に振る舞ってりゃなんてことない話だったんだっ」
ぐっと押し黙ってしまったヴィゴラスに、イスマルクもなんでこんなことを聞かされなきゃならんのだと、疲れが増した。
「だからって、ハルカが俺を避けるんぞっ」
「別にそこまで気にしなくてもいいだろ。大体、自分より年上の男となりゃハールカだって今までのようにいくか。それに、俺があれ程一人で入れって言ってたのに、やっぱりハールカと一緒に風呂入ってたんだな、ヴィゴラス」
「それがどうした。いいじゃないか、別に」
一緒に入れば洗ってもらえるし、ヴィゴラスだって遥佳の髪や背中を洗ってあげられる。全く問題はない。
(お前が一緒に入ってもらえないからと言って、俺に妬かないでもらいたいのだ)
そうヴィゴラスは言いたい。だけど口にして、イスマルクまで遥佳と一緒に入浴するのは嫌だから言わない。
ヴィゴラスは、イスマルクがそんなことを言い出す筈もなく、遥佳もそんなことをしようとする筈がないことを今一つ理解していなかった。
それでも今までの幸せが、どんどん失われていったことが悲しい。
「アホか。ハールカは女の子だ。それを自分よりも年上の男と風呂に入っていたと知ったら恥ずかしくて目も合わせられないのは当たり前だろう」
「なんだとっ!?」
驚愕のあまりに目を剥いたヴィゴラスに対し、イスマルクはまさに信者を導く神官の顔となった。
さながら道を見失って暗闇の中を彷徨う旅人を、優しく街道へと導く曙光のように優しい面持ちで。
「小さな子供や動物は人間の性差を理解しないものだ。だからハールカだって気にせずにお前を可愛がり、甘やかすことができた。しかし、自分より年上の男となったら話は別となるのは当然だろう。それこそ、自分が知らずにやっていたそれらが年上の男の目から見たらどういうものだったかと考えれば、恥ずかしくて避けてしまうのは仕方ないだろうに」
そのイスマルクの蒼い瞳には、無知な信者に対する哀れみの心が湛えられている。
ヴィゴラスの頭に、があぁーんと何かが鳴り響いた。
「いいか、ヴィゴラス。よく考えるんだ。ハールカは慎みを知る純情で汚れなき乙女なんだということを。そこらの蓮っ葉な女じゃないんだぞ」
「・・・そんな」
慎みと言われても分からないし、純情も汚れもよく分からないヴィゴラスだ。
初めて自分が認識していいと思った人間の少女だった。それだけなのだから。
その後で神子だと気づいたが、それが原因かどうかなんてもう分からない。
他に比較対象がない場合、それが全てだ。
ちなみに真琴と優理に関しては、すぐに遥佳と同じ神子だと気づいたので、やはりちゃんと特別視したヴィゴラスだった。
「一緒になんてしてない。そもそもそこらの女なんて知らん。ハルカとマコトとユウリ殿自体が別格なんだからな」
「まあ、それは認めるが。・・・だが、どうしてユーリ様にだけはやはり遠慮してるんだ、ヴィゴラス?」
「遠慮なんて、し、してない」
しかしヴィゴラスは、床に目を落とした。
「まあ、いいが。そうだな、俺もユーリ様とはドタバタでしか会話をしてないし、そんなものか」
やはり共に山へ薬草採取に行ったり、買い物に行ったり、そうして家族のように過ごしていた遥佳や真琴とは違ってしまうのは仕方ないだろう。
まさか遥佳をダシに色々とからかわれたとは思いつかないイスマルクだ。
(こいつにも、少しは親しくない人に対する遠慮というものを持ち合わせる神経があったんだな)
そう思って、イスマルクなりに納得する。
孤高のグリフォンは、優理のそういったジョークに対応できるだけの人間づきあいスキルがない為、実は普通の人よりも大きなダメージを受けていたとは、さすがに気づきようがなかった。
「そんなことより、ハールカも年頃の繊細な乙女なんだ。これからは成獣のグリフォンとして節度ある態度をとるんだな、ヴィゴラス」
「・・・この役立たず」
「誰がだ」
かなりムッとしたイスマルクだが、強気な言葉とは裏腹にヴィゴラスはしょんぼりとしていた。
そうなるとイスマルクも少しは可哀想に思ってしまう。
だってこいつはどんなに人間らしくても、トリ犬なのだから。ペットに人間としての礼節や良識を期待する人間がいるだろうか?
「しょうがないな」
そう言ってしまうイスマルクは、面倒見がよく苦労人気質の元神官だった。
最近、自分でもヴィゴラスを避けている自覚はあった遥佳だ。
切なさそうな顔になるヴィゴラスが可哀想になって、だから近寄って大鷲の頭を撫でてあげても、その正体は自分より年上の男だと思うだけで、やっぱり恥ずかしくなって適当な用事を作って逃げてしまう。
(だけど、まさか子供じゃなかったなんて。しかもまだ少年ならともかく)
どんな顔をすればいいのか分からなかった。
けれどもヴィゴラスが悲しそうな顔になるのも見たくなくて、グリフォンは体が大きいので入ってこられない2階の自室に引きこもり、そうして溜め息をついてしまう。
ぼうっとこうして椅子に座っていても、遥佳にはいい方法が分からなかった。
「ハールカ、いるかい? この布をもらったんだが、何か使い道はあるかな?」
そこへトントンとノックの音が響く。
イスマルクが部屋へと入ってきた。幾つかの小さなリボンを見せてくる。
「まあ、綺麗な柄ね。どうしたの?」
「織る布の見本用に使っていたらしい。だけどもう大きなのができたから、この小さいリボンはお役御免になったそうだ。で、なかなか綺麗な模様だったんでもらってきた」
「そうなの? そうね、これなら服のアクセントにも使えるわね」
遥佳はちょっとウキウキした気分で受け取った。
青や茶色を多用した模様のものは、イスマルクの服のポケットや裾などに縁取りとして使ってもいいだろう。桃色のものは可愛らしい。
今度、どこかの里の女の子が遊びに来たら、髪に結んであげよう。きっと喜ぶ筈だ。
「最近、こっちの2階にばかりいるんだな、ハールカ」
「え。ああ、そうかしら」
隣にある椅子を引きだして勝手に腰掛け、イスマルクが困った顔で話を持ちだす。
「かなりヴィゴラスが落ち込んでるんだ。怒る気持ちは分かるんだが、そろそろ許してやってくれないか?」
「怒ってなんか・・・」
「だよな。ハールカは優しい子だ。どうしていいか分からないだけなんだろう?」
遥佳がこくんと頷けば、イスマルクは椅子に座ったままで手を伸ばし、遥佳の頭を撫でてきた。
「馬鹿だよな、あいつも。最初から年齢相応に振る舞っておけば問題なかったのに」
「しょうがないわ。だってヴィゴラス、お腹すかせて行き倒れてたんだもの。きっとみっともないと思ってたから言えなかったんだと思うの」
なるべく相手に好意的に考える遥佳だ。その言葉に、イスマルクも蒼い瞳を細める。
「良かった。まだヴィゴラスを嫌ってないんだな、ハールカ」
「ヴィゴラスを嫌ったりなんかしてないわ」
「そうだな」
イスマルクは優しいと、遥佳は思う。
どんな時でも皆の幸せを祈る彼は、たとえ口では文句を言っていても、決して人を見捨てるようなことはしない。
いつもヴィゴラスを叱りつけてはいるが、やはり心配してくれていたのだろう。そして自分のことも。
「だが、グリフォンなんて基本的に狂暴で自分の宝のことしか考えられないアホ幻獣だからな。力で押し通すことしか知らない馬鹿なトリ犬だから、普通の人の感覚が分からないのも事実だ」
「・・・・・・えっと」
イスマルクは優しいと、遥佳は思う。
どんな時でも皆の幸せを祈る彼は、たとえ口では文句を並べていても、決して見捨てるようなことは・・・。
見捨てるようなことは・・・・・・。
遥佳は、そっとテーブルの上に置いたリボンに目を落とした。
「だが、やっぱり一緒に暮らしていてのあれは、あまりにマナー違反だ。そうだろう? だからヴィゴラスには罰ということで、おつかいに行ってもらうことにした」
「おつかい?」
「ああ」
イスマルクはとても爽やかに笑ってみせた。
まるでそれは、目障りなゴキブリを退治した瞬間すら思わせる・・・。
(ううん、イスマルクは優しい人だもの。そんなことはないわ)
遥佳は自分に言い聞かせた。
「グリフォンの姿だと空を飛んでしまえるからな。だから人の姿になっていくこと、トラブルを起こさないこと。その2つを条件に、ゴブリンの里まで酒を買いに行ってもらうことにした」
「・・・ゴブリンの里に」
ゴブリンの里は、少し離れた場所の地下にある。
ゴブリン達が使う小さな地下通路を使ったり、空を飛んで行ったりするなら早い。
だが、そうではないとしたら、かなり曲がりくねった道を行かなくてはならない。つまり、それなりに道のりがあるのだ。遥佳の足だと一時間半は歩かないといけないだろう。
「だけどヴィゴラス、道なんて分かるのかしら。あの子、いつも空を飛んでるから、地面を歩いていく道だなんて・・・」
「だからそれも含めての罰さ。ちゃんと人に尋ねて、そうしてお礼を言うのができなきゃってね。そうじゃないと意味ないだろ?」
「・・・それって」
ちなみにヴィゴラスが自分から遥佳や真琴以外の人に尋ねたりとか、お礼を言ったりとか、そんなもの、二人とも見たことはない。
それはグリフォンだからというのもあるが、基本的にヴィゴラスは要求して終わり、である。
要求する前に逃げられている凶悪幻獣とも言う。
「大丈夫。いい経験になる。明日の夕食までには戻ってくるさ。今、出ていったばかりだから」
尚、今は昼食を終えたばかりだ。遥佳で往復3時間の距離だが、おそらくヴィゴラスではその倍以上かかると、最初からイスマルクは踏んでいるのだろう。
(ううん。ヴィゴラスのことだもの。ゴブリンの里を通り越して海まで行きかねないわ)
がたっと遥佳が立ち上がる。
そうしてバタバタと出ていくのを見送って、イスマルクは微笑を浮かべた。
渡された紙には、とても大雑把な地図と買ってくる酒の名前と量が書かれている。ちゃんと財布も渡されたが、どう考えても自分の買い出しを人に押しつけたようにしか思えない。
(この買い物をちゃんとしてきたら、うまく取り計らってやるとか言ってたが、本当か? イスマルク、俺を騙してないか?)
たとえ人の姿でも、道さえ分かっていれば獅子のように早く駆けることはできる。
だが、普段は空を飛んでいるので道が分からないヴィゴラスは、地図を見ながら悩みつつ歩いていた。
日頃、地図など使わないのでどう見ればいいのかも、今一つ分からないのだ。
(道に迷ったら人に訊けと言ってたが、・・・そもそもどうやって訊くんだ?)
人に声をかけるということからして、ヴィゴラスにしてみれば、かなり困難なファーストコンタクトだ。声をかけられたなら返事もできるが、自分から声をかけるだなんてスキル、ヴィゴラスには全く備わっていない。
そこへ、背後から走ってくる足音がする。
(あ、良かった。誰か来ている。なら、この紙を見せたらどうにかなるだろう)
まずは挨拶して、それから言葉で説明するということを全く思いつかないヴィゴラスは、見せれば相手が理解するとしか思っていない。
だが。
「ヴィゴラスッ」
「ハルカ?」
驚いて振り返ったヴィゴラスは、この短距離でも息をきらしている遥佳に気づき、慌てて近寄って抱き上げる。
「病気なのだなっ? 苦しそうだ」
「それは・・・っ、走って、きたからで・・・っ」
ぜいぜいと荒い息をついている遥佳にライムグリーンの瞳を細めると、ヴィゴラスは遥佳を抱き上げたまま来た道を引き返し始めた。
けほけほと、まだ少し咳ごみながら遥佳は尋ねる。
「ちょっと待って。どっちに行ってるの、ヴィゴラス?」
「具合が悪い時は寝なくてはいけないのだ」
「違うでしょっ。おつかいに行くんでしょっ、ヴィゴラスッ。私は単に走ってきたから息が切れてるだけで、別に病気でも何でもないんだからっ」
「む。・・・だが、道が分からない。だから帰ろう」
やっぱりと、遥佳は大きく溜め息をついた。
そんなことだろうと思ったのだ。
「ゴブリンの里はあっちよ、ヴィゴラス」
遥佳が指差す方向は、やはり自分達が住んでいる家とは別方向だった。
(チッ、これでは帰れない。それにハルカが来てくれたのだし、おつかいには行かなくてもいいだろう)
そんなことを思いながらも、上辺だけはなるほどと、ヴィゴラスは頷く。
「一緒に行ってくれるのか、ハルカ?」
「・・・しょうがないでしょ。ほら、下ろして。ちゃんと私、歩いていけるわ」
下ろしたら離れてしまうではないかと思ったヴィゴラスは、適当な理由を考えた。
「嫌だ。ハルカが傷ついたら困る」
「歩くぐらいで傷ついたりなんかしないわよ。ね、重いでしょ。ちゃんと下ろしてちょうだい」
「別に重くない」
久しぶりの遥佳なのだ。どうして堪能せずにいられるだろう。
ヴィゴラスは腕の中にいる存在をギュッと抱きしめた。
「重いのが駄目なら、軽い間はずっと抱いていてもいいか?」
「何を言ってるのっ」
別におつかいなんてどうでもいい。
このまま一緒にずっといてもいいのではないか。
ヴィゴラスは、すりすりと遥佳の頭に頬ずりしてみる。
「やっぱりこの体は不便だ。ハルカを俺で包みこめない」
すると遥佳の顔が近づいてきて、両手でヴィゴラスの頬を押さえた。
そして視線を合わせる。
「下ろしてちょうだい、ヴィゴラス。ちゃんとおつかいに行くの。もうっ、どうしてそんな子供っぽいことしか言わないのっ。本当は大人なのにっ」
こうして遥佳が明るい光の中で見れば、褐色の肌に明るい髪の色を持つヴィゴラスは、本当に見た目だけはとても頼れそうな格好良さがある。
だけど言ってることとやってることはやっぱりヴィゴラスなのねと、遥佳は思わずにいられない。
「本当も何も、俺はちゃんと大人だと言った」
「・・・そうね。数十秒で子供時代は終わりを迎えるんだったわね」
だが、それを子供時代終了として本気に受け取る人がどこにいるというのか。
「だけど3回しか冬を見てないって言ったじゃないっ」
「そうなのだ。多分、冬を見たのは3回なのだ」
「本当は二十回以上見てるでしょうっ」
「記憶にない」
会話の不毛さに脱力した遥佳の髪を掻き分けるようにして、ヴィゴラスの顔が近づいてきた。
そうして唇が遥佳の首筋に触れる。
「ヴィゴラス?」
「グリフォンの嘴だと傷つけるかもしれないから、だから人の姿になった時には、せめて一度でいい、俺からハルカにキスしたいと思っていた」
そんな殊勝そうな言葉が戻ってくるが、既に何回のキスをしているのだろう?
(ハルカの視界を俺で埋め尽くせないなら、俺の視界をハルカで埋め尽くせばいいのだ。ずっとキスしていたらハルカもキスに慣れてくれるかもしれない)
そんな心が自分に流れ込んできて、遥佳は胸が締めつけられるかのような気分になった。
(ヴィゴラス。・・・あなた、本気で、言い訳は言い訳でしかない人なのね。あなたの理由づけって、全く真実がないんじゃないかしら)
遥佳の肩に顔を埋めている男の髪はキャラメルみたいな柔らかな色合いで、所々に光を反射して赤や白が浮かび上がる。
不思議な色合いだと思いながら、遥佳は優しく言った。
「ヴィゴラス。ちゃんと顔を上げて。そうじゃないと私もキスできないわ」
間近で見たその瞳はやはりグリフォンと同じライムグリーンで、若葉の色だと思う。
黄緑色だけど、緑に近い鮮烈な色合いなのだ。
(お願いだから唇へのキスは期待しないでちょうだい、ヴィゴラス。どうしてあなた、反省したと思ったらすぐに立ち直ってるの?)
けれどもそれがヴィゴラスなのだ。
遥佳はやっと、この姿とグリフォンの姿が重なったような気がした。
どんな姿でも、変わらぬ心をヴィゴラスに感じるから。
そうして頬にキスすれば、嬉しそうにその瞳を細めるのも変わらない。
「ね、下ろして。ちゃんとおつかいをすませましょ」
「別にハルカが怒ってないなら、もうどうでもいい。だから帰ろう」
こんなかったるいおつかいとやらをしに行こうとしたのも、それをしたら遥佳にとりなしてやるとイスマルクが約束したからである。
遥佳がこうして自分に近寄ってきてくれた時点で、それを達成しなくてはならない理由はもうヴィゴラスにはなかった。
「駄目でしょっ。ほら、下ろすのっ」
呆れた遥佳がヴィゴラスの腕をペシペシと叩けば、諦めたように地面に下ろしはしたが、その腕は遥佳の腰にまわされたままだ。
(駄目だわ。ヴィゴラスにやらせるより、まずは私が動かないと)
これはもうしょうがないのかと思い、遥佳はゴブリンの里に向かって歩き出した。
きっと遥佳が歩きださないと、ヴィゴラスは歩きださない。
「ほら、見て。たまには地上を行くのもいいでしょ。あそこの蔓に花が咲いてるわ」
「そうだな。花を指差すハルカはとても可愛い」
「違うでしょっ」
そうして目的地に着く前に、誰かに会うたびに挨拶するという常識をヴィゴラスに懇々と教え諭す羽目にはなったが、それまで二人の間にあった壁はもうなくなっていた。
この家の前には、綺麗な湖がある。
そこでは水の妖精が笑いさざめき、湖畔を渡る風に風の妖精がその姿を煌めかせていく。
とても美しい景色だ。
こうして水際にあるベンチに腰掛けて見ているだけで、心が洗われていく。
「そういう割にゃ、お前っていつもブルーだな、イスマルク」
「放っておいてくれ、クミト。考えてみりゃどうして俺がヴィゴラスを庇ってやらなきゃいけなかったんだ?」
ヴィゴラスはどうでもよかったが、遥佳が迷子になるのは困るので、視力のいいケンタウロス族のクミトに頼み、少し離れて後を追ってもらっていたイスマルクだ。
ちゃんと遥佳はヴィゴラスに追いついて一緒にゴブリンの里へ向かったと、そうクミトが報告してくれたので、ならばいいかと安心はしたのだが、今度は不満も出てくるわけである。
片膝を抱えるようにしてそこに頬杖をつきながら、溜め息を量産していた。
「そんなこと言って。姫様とあのグリフォンが寂しそうな顔になってるのが耐えられなかったくせに」
くすくすと笑いながら、一人の水の妖精が湖からその上半身を現す。
最近は、イスマルクの遥佳に対する衣服相談にも乗っているせいか、水で作る衣服もかなり凝り始めていた。
以前はそのまま流すようにしていたヘアスタイルも、最近の水の妖精は結い上げたり編んでみたりと、更にはその色合いも変えたりしているのだ。
「今日はおさげ髪なんだな。いつも大人っぽいから新鮮だ。今度、ハールカも髪を二つに分けてもいいかな。やっぱり女の人が近くにいてくれるのは有り難いよ」
「うふふ。たまにはいいでしょう? だけどグリフォンの年齢が分からなかっただなんて、やっぱりイスマルクもそういうのは分からないのね」
自分では分からないからと、何かとイスマルクは水の妖精達に相談している。
だが、イスマルクにとっては可愛らしく映ったそのヘアスタイルも、ケンタウロス族のクミトにとっては違ったらしい。
とても悲しげな顔になった。
「え。なんだかよ、イスマルクのせいで、段々お堅い感じになってきてねえか? ウンディーネってのはやっぱり何つーのか、こうセクシーなとこがいいってもんだろ。どうしてそんなかっちりした服にまでなってんだよ」
「失礼だろう。どこに文句があるんだ、クミト。その刺繍の凹凸すら水で作り上げてるだなんて素晴らしいじゃないか。それに美人なんだから、どんな格好してても目の保養だろ」
「そりゃそうだけどよ。そうなんだが、どうせならやっぱり目に楽しい格好の方がいいってもんだろ」
「淑やかで慎み深い美女達がこうして笑いさざめいてるんだぞ。十分目に楽しいじゃないか。そんないやらしい目で妖精を見るもんじゃない」
「・・・お前の石頭にゃ負けるよ」
これがサテュロスの里などにいけば、かなり男も女も奔放なもんだというのに、イスマルクは徹底して遥佳の周囲を健全なもので固めている。
クミトは、何とも言えない気分になった。
(なんでこいつ、サテュロスとも仲いいくせにこうなんだろう)
誰もが敬愛する神子姫が暮らす家だというのに、そこには一人の人間と幻獣が同居している。
あまりにも羨ましすぎて妬ましいといえば妬ましいのだが、その人間は徹底して神子姫の健全環境を守っているのだから何も言えない。
これで少しでも男として迫っているような様子があれば、誰もが不満を爆発させていただろう。
しかしイスマルクは遥佳に誰よりも信頼されている上、その生活環境としてゲヨネル大陸がいいと判断してくれた元神官だ。そしてヴィゴラスは、遥佳をゲヨネル大陸に連れてきた幻獣だ。
自分達を排除する姿勢ならともかく、イスマルクは遥佳のことに関しては何かと幻獣や妖精に依頼してくる為、種族を越えた友情が出来上がっている。
「けどなぁ、いくら姫様が知りたがったにしてもよ、あれなら子供グリフォンだと思われてた方がよかったんじゃないのか? お前だってそう思わないわけじゃなかったんだろ?」
「そうよねぇ。だってあのグリフォンだって知られたくなかったんでしょ。私に口止めしてきたぐらいだもの。その方が良かったんじゃない?」
「それは言えるわね。だってどう見ても姫様、子供グリフォンを可愛がっていらっしゃる感じでいらしたもの」
「グリフォンがあんなにも素直に手伝いするだなんて、初めて見たわよ。やっぱり姫様にはグリフォンも違うのねって、私も思ったわ」
いつの間にか周囲には他の水の妖精達が集まり、うんうんと頷いていた。
イスマルクの蒼い瞳に少しの陰りがよぎる。
「そうだな。そう思わなかったわけじゃないんだが、・・・だけどいつまでもそれで通じる筈もないし」
そこまで言って、イスマルクは何かを振り落とすかのように頭を軽く下へと向けた。
「いや、違うな。多分、俺はもういいだろうと思ったんだ」
その言葉に、クミトが首を傾げる。
「何がだ?」
「ドリエータの治療院でいた時、第7神殿以外ではいつもハールカは顔を前髪とかで隠すようにされていた。だけどディリライトに行かれていたからなのか何なのか、ここで再会してみたら、いつの間にか年頃の娘さんのようになっていらしてびっくりした。そして、ここではもうヴェールすら忘れて散歩に出かけられることもしばしばだ」
一人の水の妖精が、くすっと笑った。
「寂しいの、イスマルク?」
まるで置いてけぼりをくらった子供のように、イスマルクの表情に何か頼りないものが揺れている。
「そうかもな。今のハールカはマーコット以外にも優しく穏やかに、そして幸せそうに笑いかけられるようになって、・・・だからもう可愛がって世話してあげなきゃいけないバカ犬はいらないんじゃないかって、そう思ったんだ。もうバカ犬がいなくても、この世界はハールカを傷つけない」
「なんでそこでバカ犬扱いなんだ、イスマルク?」
「あんな迷惑なトリ犬、バカ犬で十分だ」
クミトと水の妖精達は、ダメだこれはと、肩を竦めた。
色々と思うことがあるのだろう、イスマルクも。
けれどもその言葉の奥に透けて見える感情はとても優しい。
『素直じゃないよな、こいつ』
『そこがいいんじゃない』
こそこそと、クミトとウンディーネが小さな声で囁き合う。
何かを見出そうとするかのような瞳で、流れてくる風をまるで掌に載せようとするかのようにイスマルクは手を伸ばした。
「何か分かるの、イスマルク?」
一人のウンディーネが尋ねれば、イスマルクは目を少しだけ伏せた。
「いいや。所詮、俺などただ人にすぎないからな」
「ふふ。そういうことにしておいてあげる」
それは事実だ。自分に、神子達のような世界の祝福はない。
けれど本当は分かるものもある。
風の中、微かに遥佳の感情を感じて・・・。
(あなたが幸せであるなら俺はそれでいい。ハールカ、マーコット。あなた達がただ幸せならば)
たとえあんな性格破綻した迷惑幻獣でも、一緒にいることでこうして穏やかに笑えるのなら。
(風が歌っている。楽しげに、あの澄んだ心を乗せて)
そう思ってイスマルクは目を閉じる。
あと少ししたら遥佳達も帰ってくるだろう。このところの距離感が全くなくなった、仲良い二人で。
ヴィゴラスはグリフォンだ。だからグリフォンの姿でいるのが一番落ち着く。
しかし必要とあれば人の姿でも過ごすグリフォンである。
「なんでお前は未だに人の姿なんだ、ヴィゴラス?」
おつかいが終わって遥佳とも仲直りしたなら、後はグリフォンの姿に戻ればいいだけだろう。
そう思い、イスマルクはここ数日ずっと人の姿でいるヴィゴラスに尋ねた。
「しかもどうしてハールカを膝の上に乗せて幸せそうにしてるんだ。誰が見ても変質者だぞ」
見ているだけでムカつく。
最近は、小粒の宝石を連ねた髪飾りを遥佳につけることすら覚えたらしい。そのヘアスタイルを提案したのは水の妖精らしいが、そういうことだけ他人と会話ができるのか。
「ハルカが俺の服を作ってくれると言った」
「しょうがないじゃない。勝手にイスマルクの服を着るもんじゃないのよ、ヴィゴラス。イスマルクはちゃんと自分の服は自分で洗濯しているのに、それをヴィゴラスが勝手に着て洗濯はイスマルクに任せてるんじゃひどすぎるでしょ。ちゃんと作ってあげるから、そっちを着て、自分の服は自分で洗濯するの」
「その意気込みはとても素晴らしいが、ハールカ、ヴィゴラスが洗濯までするとは思えない」
「そんなことはない。ハルカが作ってくれたなら、俺はちゃんと洗濯してそれを着るのだ」
「そうかよ」
なんでヴィゴラスばかり幸せに生きているんだろうと、イスマルクは思った。
遥佳の飼っているペットだから仕方ないのかもしれないが、部屋の出入り口には遥佳手作りの暖簾がかかっているし、今度は遥佳お手製の服が与えられるらしい。
(いや。我慢だ、俺。こいつはどんなに人間らしくても人間じゃない、動物なんだから)
これが人間であるなら、「恐れ多いにも程があるだろう。増長すんじゃない」と、蹴りつけてやれたのに。
(全くこのトリ犬は。世界で一番高貴で汚れなき姫君を愛でる権利など、そのご両親にしかないというものを)
そう思ってしまうイスマルクは、自分のことは棚に上げている元神官だった。
「だが、俺とて情けの心はある。イスマルクにも特別に洗わせてやってもいい。それにハルカ。別にイスマルクは洗濯するのを気にしていない」
「気にしてないんじゃなくて諦めてるんだ。事実を誤認するんじゃない、ヴィゴラス」
言われてみれば、遥佳はたしかにここ数日、布をちくちくと縫っていたが、ヴィゴラスのこの服を作っていたのか。
「だけどハールカはヴィゴラスの躾を諦めてないんだな。 そこまで優しく生きる必要はないんだぞ」
イスマルクは遥佳の頭を撫でる。
こんな救いようのないトリ犬をそれでも躾けようとする神子姫は、なんて高潔な魂の持ち主なのだろうと。
「それに俺の服なら分けてやってもいいんだし。あまり根を詰め過ぎるなよ、ハールカ」
「そうだけどイスマルクの服って大きめじゃない。イスマルクは慣れているから着こなせるけど、ヴィゴラスは引っ掛けてしまうだけよ。ちゃんとサイズをそこそこ合わせておかないと」
薬師として働くことができるイスマルクは、かつて非常時には皆を導かねばならぬ神殿長でもあった。いざという時には自分の服を裂いて包帯代わりに使うことも考えて、日頃から布を多く使った服装を心がけている。
神官を辞めても、それまでの自分が消えるわけではなかった。
(そうだな。ヴィゴラスが自分の服を提供してまで人を助けるとは思えん)
それもそうかと、イスマルクは頷く。
ゲヨネル大陸で暮らし始めても薬草を採取し、育て、付近の集落にはちゃんと置き薬を渡してあげているイスマルクは、そういう意味でも神官の鑑と言っていいだろう。
人には要求せず、それでも自分はストイックに人のことを考えて生きていた。
「まあ、あまり邪魔するなよ、ヴィゴラス。縫ってる時にお前の邪魔で針が落ちたりしたら大変だ。もしも針をなくしたりしたら、ハールカをこの部屋から出して俺を呼びに来い。俺が捜すから」
「あの・・・、イスマルク。私、針程度、自分で捜せるわよ?」
「冗談はやめてくれ。もしも刺さったりして怪我したらどうするんだ」
そう言って出ていったイスマルクを見送り、遥佳は背後のヴィゴラスを、首を仰け反らせて見上げる。
「ねえ、ヴィゴラス。別に針を落としても自分で捜せるから、わざわざ呼びに行かないでね?」
「分かった。どうせ俺がそんなのを見落とす筈もない。たかが針の落ちる動きなど」
「・・・そうなの」
猛禽と猛獣の能力を持ち合わせたヴィゴラスは、針の落ちる動きすらスローモーションで把握できるのだと、遥佳は知った。
(グリフォンの姿でいてもらった方が良かったかもしれない)
少なくともあのグリフォンスタイルのヴィゴラスなら、色々と主張はするが、ちゃんと良い子で聞いてくれたのに。
人の姿になったことで、ヴィゴラスの話を捻じ曲げてしまう才能が更に開花したように思えて仕方ない。
(秘密を暴く時には慎重にやらなきゃいけないのね)
少なくともグリフォンの姿なら、椅子には座れない大きさだからこんなこともなかった。
どうして自分は彼の膝に座って縫い物をしなくてはならないのだろう。
ここ数日、「人の姿は好きじゃなかったが、ハルカをいつでも抱きしめられるならこれはこれでいい」と、ご機嫌なヴィゴラスである。
(私は早まったんだわ。しかもヴィゴラス。なんかとっても幸せ気分が満開なんだけど)
遥佳はそう思い、後悔は先に立たないから後悔なのねと、諦めて手を動かし始めた。




