63 カイトは船に乗り、国王はぼやき、遥佳は飛び立った
白い大亀が守り人をしている山を離れ、カイトは大きな川へと向かった。
やりきれない思いのままに大地を走る。
そうしてカイトは、大河を運行している船が繋がれている乗船場へ着いた。
チケット売り場にいた魔物に声を掛ける。
「一人だ」
「あいよっ。ちょうど出発だ。ぎりぎりだったぜ、兄ちゃん」
「そうか」
船賃を払ったカイトは甲板から階段を下りて共同船室へと入った。
こういった河川を下る船は、かなり大きい。貨物も載せているからだ。
そうして港まで辿り着くと、貿易用の倉庫か大陸間を渡る船へと荷物は積みこまれる。
乗客にしても、河口にある港の近辺に用事があるか、その途中で下ろしてもらうか、港で海をゆく船へと乗り換えるかといった客ばかりである。
だが船室へと下りてきたカイトに向かって、乗組員らしい獣人が明るい声を掛けてきた。
「兄さん。どうせなら上のデッキにいた方が景色も見えるし、風も気持ちがいいぜ? ここは暗いからよ、結構つまらねえんだ」
「・・・いいんだ。実は疲れててな。せっかくだから休みたい」
「なるほど。なら余計なことだったな」
「いや。ありがとう」
カイトは一番薄暗い奥の隅へと行き、座りこんだ。そうして壁に背中を預ける。
一気に疲れが押し寄せてきた。
考えてみれば三日間、寝ていなかった。けれども眠れそうにない。
目を閉じて、天井に向かって深い溜め息をつく。
(また、一人になっちまったな)
元に戻っただけだ。ただ、とても幸せな夢を見ただけで。
(なあ、マコト。お前と暮らして、もう一人だった時のことを思い出さなくなっていたよ、俺は)
拾った時はあどけなく身軽な少年で、やがて眩しい笑顔の少女になって、そして輝くような魅力を放つ娘へと変化して・・・。
ころころと変わる表情と同じように、真琴はその姿も変化させ続けていた。
それこそ噛み殺して全てを自分のものにしたくなる程の愛しい気持ちを抱いて、彼女を見続けていた。
その何もかもが欲しくて愛しかった。
(だけどお前は俺に助けられたから、それが全てだと思い込んでただけだ)
知らなかっただけだ。他にも男はいるということを。
あの湖底からどこへ行ったにしても、その先で出会った男はきっと真琴に恋するだろう。
(あんなに綺麗になったんだ。それが、お前に言わせると一生に一度しかないとかいう運命の恋なんだろう)
その時、帰る術を知らぬ真琴は、自分に拾われた時と同じようにその男といるようになる。
そうしてその男との絆を育むのだ。
(大丈夫だ、マコト。お前を愛さない男などいない。誰よりもお前は美しく可愛い)
たとえ神子だと知らなくても、どんな男だって彼女を見れば恋に落ちるし、すぐさま自分のものにするだろう。
(だけど知りたくないし見たくないんだ、俺は。お前が他の男を愛する姿など)
色々な地で様々な人を見てきた。
自分のように女に対してのんびりした男などいる筈がないとも分かっている。
そうして真琴は、やがて己を手に入れた男を愛するのだろう。
大人になった彼女は、きっとその時、何の柵もない真っ新の恋を知るのだ。
それともカイトのことを思い出し、帰ってきてくれるのだろうか。
だけどそれは、カイトが真琴の目を塞いで他の男など見させなかった旅路ではない。
自分が男を選ぶことのできる大人の女性だと、真琴が知る旅だ。
戻ってきてカイトを見た時、真琴はそれが本当の恋じゃなかったと知るだろう。
保護者と愛する男とは違うのだと。
(お前は誰でも愛せる優しい子だ。そして今、お前が望んで手に入らない男はいない。偶然にお前を助けただけの俺じゃなくても・・・)
真琴にとって特別なのは自分だけだと、それが嬉しかった。
何があろうと自分のところへ駆けてくる、そこに彼女の心を見ていた。
抱きしめてその体を持ち上げてやれば笑顔になる、それだけで幸せになれた。
(ずっと愛してる。この心がお前を覚えている限り)
川の流れを受け、船が大きく揺れながら進んでいく。
今はもう何も見たくない。
(女神シアラスティネル様の愛し子。どうか幸せに・・・)
カイトは黙って目を閉じていた。大切な思い出を振り返りながら。
――― シルバータイガー、いない。
――― どこまで行っちゃったんだろう、かなり遠くまで見に来てるのに。
――― 早く見つけなくちゃ。
そして風の妖精達は、まさか船の中にいるとは思わずに、いなくなったカイトを捜して様々な土地の上空を飛び回っていた。
マジュネル大陸からジンネル大陸へと向かう船で、カイトは一人部屋を選んだ。
大抵の乗客は遊戯室でカードゲームをしたり、甲板で釣りや運動をしたりしている。
そんな大陸間を渡る船の中でも、カイトはほとんど船室にいて窓から海を眺めていた。
かなり横揺れもする船の進み具合に、やはり真琴が乗っていた時は違ったのだと感じる。
ギバティ王国の港町ドレシアからマジュネル大陸に戻った時には、船酔いしている乗客など一人もいなかった。しかし今回は、当たり前のように揺れるそれに、今日もあちこちで誰かが吐いたり唸ったりしているようだ。
(今回はシルフもいないし、かなりの長旅になるとは覚悟してたが・・・。出される飯の質も落ちてきてるな)
しかし、もう二ヶ月だ。どこまでかかるのだろう。
乗船するや否やハンモックを作っていたカイトだが、おかげで他の人よりは船酔いせずにすんでいる。
そして今日も昼間から酒をかっくらってだらだらしていたわけだが、元々、船の旅なんてそんなものだ。
飲んでいれば忘れられる。
この罪悪感も。
(お前は泣いただろうか。それとも、これですっきりしたと思って俺を忘れるんだろうか)
どちらであっても知りたくない。
未練か、それとも後悔か。
そんなことを思って、浴びるように酒を飲めば、咽喉を焼くそれに頭も溶けていく。
そこへ、トントンとノックの音が響いた。
「はい」
ずっと寝ているか飲んでいるかといった生活だった。
だからカイトが苦みばしる掠れたガラガラ声で返事をすれば、ノックをしたのは船員らしい。
「お客さん。すみませんが、ちょっと皆さんには食堂に集まってもらってるんです。これから更に荒れそうなんで、良かったらどうぞ」
カイトがハンモックから降りて、酔いのせいでよろけながらも扉を開ければ、疲れた顔をした若い人間が立っていた。
こういった大陸間を渡る船の船員は人間がほとんどだから当たり前である。
「荒れる?」
「ええ。どうも空が怪しくてですね。元々、今回の旅はおかしすぎるんです。季節外れの荒れが続いてまして。こっちも頑張って帆を調節してんですが」
弱りきった声のそれは、終わりのない作業に追われる疲労に満ちていた。
「普通はもっとねえ。どこかで凪なり何なりがくるもんなんですが、全く休めやしないんですよ」
ぼやく声にも力がない。
(気の毒なんだが、操船は素人には分からんしな)
本来、気のいいタイプのカイトだ。
手伝えるものなら手伝ってやりたいが、縦帆や横帆は、風を読みながら細かく調節しないといけない。そうじゃないとマストが折れたり、とんでもない方向へと船が進んだりしてしまう。
「お客さんからも苦情が出てまして・・・」
「大変だな。こんだけの揺れ続きだ。転覆させないだけでも優秀だってのに」
「ありがとうございます。一応、食堂ならまだ揺れがマシってんで集まってもらってんですよ。あ、食堂に来る時には窓をきちんと閉めといてください。これから荒れますから。部屋にいるにしても窓は閉めておかねえと、びしょびしょになりますよ」
「分かった。ちゃんと閉める」
今日は珍しく外が見られる天気だと思ったのだが、そういうことならば仕方あるまい。
「あと、灯りの管理は厳重にお願いします。もし寝る時は完全に消しといてください。所定の位置に置いといても落っこちるかもしれませんので」
「分かった」
隣の部屋にも、トントンとノックして船員が声を掛けていく。
(真面目に一部屋一部屋に声をかけてくのは人間だからだな)
扉を閉めてから、カイトは厳重に窓の戸締りをした。
こういう船の窓は、嵐になった時の為に何重にもなっている。それら全てを閉めれば、波も入ってこない。そして灯りを消してしまえば完全な闇だ。
(食堂に行くよりも、闇の中でいた方がいい)
不健康な生活をしているという自覚はある。
髭も全く剃っていないから、かなり自分の人相も悪くなっているだろう。
灯りを完全に消して、カイトはハンモックの上で目を瞑る。
きっと今日も悪夢をみることだろう。
(それでもマコト。お前の夢を見られる)
それは黒髪の少年だったり、輝く金髪の姿だったり、少し髪を伸ばした黒髪の少女だったり、本当に様々だ。
――― 見て見てっ。三つ足なトマト見つけたっ。
それでもいつも笑顔の彼女がいた。
時折、耳に反響する「カイト」と甘えてくる声に目覚めては、周囲を見渡して幻聴だと知る。
――― だって緑色も青色も捨てがたいよねっ?
別に何色でも気にせず使うカイトだが、じっくり考えて選ぶ真琴の姿を見る楽しみを教わった。
(俺はもう十分幸せをもらったよ、マコト。お前と一緒にいられた時間、それは俺にとっての全てだった)
幸せが大きい程、失った時の不幸せは大きいのだと突きつけられて、それでも自分の行動が間違っていたとは思わない。
世界で一番幸せになってほしい愛しい娘。
(光と愛と祝福が、常にお前の周囲を包むだろう。女神シアラスティネル様の神子にふさわしく)
この天候の荒れは、それこそカイトを失った真琴の感情に引き摺られた自然が起こしているものとも知らず、カイトは目を閉じた。
そうして船は、それから更に半月後、ジンネル大陸のドモロール王国にある港町に到着した。
ジンネル大陸には様々な国家がある。
軍事大国として知られるドモロール王国。しかし、その歴史は他国に比べて浅い。
「神子姫は黒髪に焦げ茶色の瞳、か。ウルティード王子がまさかの・・・だったな」
キマリー国に嫁がせた王女ネムソフィアが産んだ次男がウルティードだ。
ドモロール国王にとって孫ながらも、その姿は一度しか見たことがなかったが、なんと思いがけない目が出たものか。
好機と見るべきか、否か。
キマリー国を乗っ取る形になるかと思われたそれも、頓挫中だ。とはいえ、確実にネムソフィアが産んだ王子が王位に就くのであれば併呑にそこまでこだわる必要もなかった。
「陛下。申し訳ございません。全く我らも気づきませんでした。神子姫様は、病弱なディリライトの姫君と言われたらその通りにしか思えぬ生活ぶりでいらっしゃいました。まさか首長のご身内ではなく賓客でいらしたとは」
ディリライト島へ向かった小隊長が、その正体を見抜けなかったことを詫びる。
「よい。妻子にまで隠し通した首長とあれば仕方なきこと。だが、ギバティで見つかったという知らせの次はディリライトか。神子姫にはグリフォンがいるというのに、何故それでもこのジンネル大陸に執着するのか」
その顔に皺が刻まれてもまだまだ壮健なドモロール国王は、灰色の瞳に鈍い光を宿らせた。
同じ灰色の瞳であっても、それは娘であるネムソフィア、そして孫であるケイファスト、ウルティードとも違う眼差しだ。
人は眼差しにその生き方も表れるものなのか。
「どう思う、宰相よ」
「何か、この大陸にいなくてはならぬ理由があるのやもしれませぬ。神殿に身を寄せられるわけでもなく、ただ、普通の人として市井に紛れてお過ごしにならねばならぬ理由が」
それが何かを知ることができればいいのですがと、宰相が熱に浮かされたかのように呟く。
「その理由が分かりましたら、我らは女神様の秘密にすら到達できるのやもしれませぬ。そのグリフォンをどうにかして捕らえ、神子姫様をお招きすることができさえすれば・・・」
グリフォンは獰猛な幻獣だ。そして宝石や黄金に目がないことでも知られている。
それを利用すればどうにかなるのではないか。
「欲しいものだ。一人でいい。神子姫さえ手に入れれば、我が国は新興国とは言われなくなる。聖なる国として長らく君臨していたギバティ王国も、今やその地位から落ちかけておる。ならば我が国が、次なる聖なる国となって何が悪いというのか」
国王が、その遠くに去ったという神子姫の姿を瞼の裏に描く。
戻ってきた者達の証言を画家に伝えさせ、似姿を描かせた。けれどもそれは、額飾りが目立っているばかりで顔立ちが良く分からない。
その神子姫は薄絹をかぶっていることが多かったそうで、皆、特徴をあまり思いつかなかったのだ。
「欲しい、ものだ」
ドモロール国王の言葉が、空へと消えていった。
ジンネル大陸の中央にはルート砂漠がある。
さて、貧しいことで知られるパッパルート王国。
なぜ貧しいかというと、パッパルートの領土内にはルート砂漠があるからだ。そこは生産性がない土地であり、通路としてもルート砂漠を渡るよりも遠回りした方が余程早いときたものだ。
領土にしても、ルート砂漠を除いた土地からしか恵みは期待できない。
その為、パッパルート王国はそれなりに古くから続く国なのだが、貧乏だというので侮られやすい傾向があった。
「だけど考えようによりけりなんだよな。我が国は様々な国と接しているわけで、そういう意味では便利と言えなくもない」
ジンネル大陸の中央、しかも縦に長い形の領土だから、それはその通りだ。
だが、わざわざ砂漠だったり貧しかったりするパッパルート王国内の道を通る必要もないと、遠回りでも旅人は他国の街道を使う。
「現実を見ましょう、我が王。宿屋もあまりない上、道も舗装されていないというので、誰も通りません」
乳兄弟にもあたる「侍従」兼「護衛」兼「相談役」兼「遊び相手」のニッカスが、生あくびをしながらもそこを指摘する。
ニッカスも立場上は国王に仕える臣下なのだが、今更な仲だ。血縁もあるからだろう。二人は親友でもあった。
「そりゃそうなんだが、明るく楽しく考えた方がいいかと思ってな」
即位したばかりの若きパッパルート国王ディッパは、そうおどけてみせた。
ベージュ色の髪に黄土色の瞳。まるでこの砂漠の国を体現しているような姿を持つ若き国王は、それだけ早く祖父母や両親に先立たれた、・・・というわけではない。
過酷なパッパルート王国での生活よりも他国のド田舎で暮らす方がまだ体に優しいとばかりに、さっさと王位を譲った歴代国王の犠牲になっただけだ。
つまり先代国王夫妻、先々代国王夫妻は、外国でのんびりと暮らしている。王族だからと言って、暗殺を恐れる必要もない。
何故ならパッパルート王国は貧乏だからだ。王族の顔を知る人もあまりいない。
ついでに元国王夫妻といっても、王族らしい生活をしていないので、全く気づかれない。
「即位式すら簡単にお済ませになりましたし、ディッパ様は本当に度し難い」
「無駄な金を使っても仕方あるまい。正直、我が国を買いとってくれる国がないものかというのが本音だ。我が国にあるのは歴史ばかりだが」
「歴史を手に入れても、不良債権ではどうしようもありませんしね」
「問題はそこだな」
全くどいつもこいつも年寄りは身勝手だ。若者に全てを押しつけて逃げてくれるのだから。
そんなことを思いながら、二人はのんびりと絨毯の上に寝転びつつ茶を啜った。
どうせニッカスの私室なのだから、二人でだらけていたってかまわないのだ。
休みの日はこうして絨毯の上に寝転んで、クッションを枕代わりにダラダラする。そこに薄物しか纏っていない美女が侍ってくれているなら男の夢なのだろうが、生憎とパッパルート王国は貧乏国。
教育として女を相手にするのならば話は別だが、快楽が目的な女遊びなど以ての外なのだ。
女性もそういった業務に従事するのでない限り、貞操観念が強い。
「そう言えば聞きました? 神子姫がディリライトに現れたっての」
「聞いた聞いた。で、キマリーの王子がフラれたってんだろ。グリフォンかぁ。見てみてぇ。いいよなぁ。やっぱり姫君じゃないとグリフォンも乗せてくんねえのな」
「どうなんでしょうねぇ。やはりオスのグリフォンだったのでしょうか。ならメスのグリフォンなら王も乗せてもらえるのでは?」
「いや、無理。餌代が出せん」
国王とその側近の会話にしてはけち臭い話だが、切実な問題である。
「そこで悔しがるぐらいの気概を見せたらどーなんです。自分だって出会ってたら求婚ぐらいしたのに、とか。どこもきっとディリライトに問い合わせの使者を出してるでしょうよ」
実際、ディリライト首長には、様々な国や団体から、神子姫に滞在していただけた理由を問い合わせる使者が送られていた。
そんな中、パッパルート王国だけはそれに参加していない。何故なら、問い合わせる必要性がないからだ。
神子姫に来ていただいても、おもてなしにかかる費用捻出が財政に痛すぎる。
「そんな不相応な夢を描くだけ無駄だって。そんなことよりも砂漠化を止める方法の金をどうやって捻出するかだ。金儲けはなかなかに難しい」
「全くですね。だから押しつけられたんですよ、我が王」
「どいつもこいつも、勝手すぎるんだよ」
ディッパは国王にしては全く威厳のない、大の字になって寝転んだ姿でぼやいた。
様々な国の思惑はともかくとして、肝心の神子姫は、第7神殿であれこれと荷物を見比べていた。
引っ越しの荷物は、優先順位を決めるのが大事だ。
だから様々な物を床に広げて、遥佳はそれらを選んでは籠に詰めている。
それをヴィゴラスは背後でウロウロしながら見ていた。手伝いたいのは山々なのだが、こういうのは片付けながら自分で選んでいくので、手伝う方が邪魔になってしまうのだ。
「イスマルクが用意してくれてるおうちにどれだけ入るか分からないもの。やっぱり最低限がいいわよね」
(足りなかったら、また戻ってきて運べばいいのだ。俺は全くかまわないぞっ)
そうしたら二人っきりのデートだ。ヴィゴラスにしてみれば、足りない物は多くて困らない。
第7神殿とゲヨネル大陸を二人で往復し続けるだなんて、邪魔も入らないし良いこと尽くめだと思う。
「んもうっ。だから少しは様子を見てきてって言ってるのに」
しかし遥佳の方はそう思っていなかった。
家のスペースが分かればいいだけなのだ。なのにいくら頼んでも、ヴィゴラスはプイッと大鷲の頭を横に背けて絶対に行こうとしない。
(嫌だ。ハルカは俺がいなくても平気なのかっ)
「なんでそう甘えっこなの。・・・きゃーっ、後ろから乗らないのっ」
重さは全く感じないが、それはちゃんと翼を使っているからだろう。
床に座ってシャツやスカートを畳んでいた遥佳は、ヴィゴラスが上からかぶさってきたものだから前が見えなくなって悲鳴をあげる。
(ひどいぞっ。ハルカは俺といるよりイスマルクといたいんだなっ)
「ちょっと待ちなさい。なんでここでイスマルクと張り合うの? ヴィゴラスだってイスマルク好きでしょ?」
(好きじゃないっ)
「嘘ばっかり。ほら、ヴィゴラス。ちゃんとどいてくれないと畳めないでしょ」
(ハルカは俺に対して冷たい。俺はこんなにハルカを愛しているのに)
「冷たいって、それだけはないと思うのよ」
最近では遥佳がちょっと畑に行く時でも、前脚を遥佳の両脇の下を通して抱え込み、飛んで行こうとするのだ。
前からそうだったが、更に独占欲が激しくなりすぎていないだろうか。
これだけ一緒にいるというのに、どうしてこんなに不安行動が激しいのだろう?
その理由を知ろうと思って心を探り始めた途端、自分に対する感情がどっさり向かってきたので、すぐに取りやめた遥佳だった。
(愛情が重すぎるのよ、ヴィゴラス)
あんな中から理由を探すのは赤面モノでしかない。
「困った子ね。一体どうしちゃったの?」
(だってイスマルクの所に行ったら、ハルカは浮気する)
遥佳のことを思うのならゲヨネル大陸で暮らした方がいい。心を読めるなら尚更のことだ。
そう思うヴィゴラスだったが、本当に行くとなると、やはり不安も増してくる。
何故ならゲヨネル大陸には他のグリフォンもいるが、他にも様々な種族の幻獣がいるのだ。
心を読めるからこそ人と触れ合うのをあまり好まない遥佳だが、ゲヨネル大陸に暮らす幻獣や妖精は神子というだけで好意的だし、害意を抱くことはない。
ならば遥佳にとって、自分のように信頼できる幻獣や妖精だらけということではないか。
――― む。まずい。まずすぎる・・・。
遥佳の幸せライフを思えばゲヨネル大陸なのだが、自分のライバル続出と考えると行きたくなくて、だから遥佳が休んでいる間に色々なジンネル大陸の観光情報をチェックしてあちこち連れて行っていたヴィゴラスだが、さすがにネタも尽きてきている。
遥佳も、そろそろイスマルクの所へ行かなくちゃねと、旅支度を始めているときたものだ。
「浮気って、・・・どこで覚えてくるのかしら、そういうのを」
遥佳は小さく吐息を漏らした。
これでは真琴2号だ。
どうして自分はいつも浮気だの何だのと責められるのだろう。
(しょうがないわね。真琴と一緒のケースなら、イスマルクに頼んでヴィゴラス、お散歩に連れ出してもらえばいいのかしら。たしか真琴も「浮気したー」とかうるさかった時、イスマルクに山へ連れて行ってもらってたら、段々落ち着いていったもの)
けれども真琴と違い、空を飛べるヴィゴラスだ。イスマルクが、
「ほら、ヴィゴラス。散歩に行こう」
と、誘っても、
(イヤだ。俺はハルカと一緒にいるのだ)
で終わりかねない。
(しょうがないわ。3才だもの)
グリフォンはいつになったら親離れするのだろうかと、そこらへんが疑問な遥佳だが、そう自分に言い聞かせて我慢する。
「えーっと、これで最初に持っていく荷物がこれで、次がこれ、ちゃんと順番に並べてあるから、もしもあっちに行って、置けるスペースがあるようならこれらを順番に運んでいきましょうね」
(分かった。だが、別にこれなら3つぐらいまとめて持っていける)
「駄目よ。あまり沢山だとヴィゴラスが疲れちゃうでしょ。こういうのは焦らずに何回にも分けて運んでいけばいいの。出費に思えても現地で買った方がいいのよ」
(やっぱりハルカは俺のことが一番心配だなっ)
途端に機嫌を直すヴィゴラスにも慣れた。
深く考えていたら話が進まない。
「どちらかというと一番心配なのは、その言葉に頷いたら何が起こるのか、なんだけど」
今の遥佳は、そんな苦情じみた溜め息だってつけるようになった。
(それは内緒なのだっ)
「絶対とんでもないことだと確信したわよ、ヴィゴラス」
それでも少しずつ持っていく荷物は片付いていく。
(ここはここで必要だもの。優理だって真琴だって使うだろうし。だからなるべく残しておかなくちゃ)
だから自分がよく使う物以外は置いていく遥佳だ。
そうして、旅支度が調えられた。
「本当に大丈夫なの? 重くない?」
(大丈夫だっ。イスマルクが入った箱はもっと重かった)
やがて荷物と現地で買い物をしなくて済むようにと、一週間分の食料が入った籠を前脚で持ち、遥佳を背に乗せてヴィゴラスが出発する。
(なんかおかしいわね。どこまで飛んでいくのかしら、ヴィゴラスったら)
勿論、遥佳は途中でそう気づいた。
いくらギバティ王国でお尋ね者となったとしても、さすがに2日間飛んでも着かないというのは誰だっておかしいと思うだろう。
「ところで、ヴィゴラス。どうしてさっきから海の上を飛んでいるの?」
(こっちが近道なのだ)
しかも2日目から陸地を離れて海の上をヴィゴラスは飛ぶようになっている。
「海の上じゃ休憩できないわよ?」
(もう少し行ったら島があるから大丈夫だ)
「そう。島があるのね」
尚、ジンネル大陸周辺に人が住める島がないわけではない。しかし、それらはこんなに遠くない筈だ。
そうなると遥佳も悟らずにはいられない。
(ごめんなさいぃっ、イスマルク。まさか他の大陸で待ってるとは思わなかったのよーっ)
行き先がどっちの大陸なのか、尋ねる気にもならない。
というより、その時点で誰もが悟るだろう。
目的地はゲヨネル大陸だと。
(お友達って言葉に騙されるんじゃなかったわ。ヴィゴラス、あなたって子は・・・)
はあぁっと項垂れてしまうのは、イスマルクに対して申し訳なさすぎるからだ。
赤い夕焼けが目に眩しい遥佳だった。
基本的に遥佳は体力がない。だから長く飛ぶと分かっている時には、ヴィゴラスに鞍を取りつけて飛んでもらう。そうすれば居眠りしても落ちないからだ。
イスマルクが手配した鞍は、ちゃんと落ちないよう、遥佳を固定する為のベルトもついている。
その鞍から降りて、遥佳はいつまでも取りつけたままでは窮屈だろうと、すぐにそのベルトを外しながら尋ねた。
「だけど疲れてない? ヴィゴラス、無理はしないのよ」
(大丈夫だっ。こういった無人島はそれなりに点在しているし、ゲヨネル大陸に入ってものんびり観光していけばいいのだからなっ)
「待ってるイスマルクの身にもなって考えなさい。慣れない場所で、どんな思いでいると思ってるの」
めっと遥佳が軽く叱りつければ、ヴィゴラスはまるで、
(え? 分かんない。だってそんなこと考えたこともないし。僕、小鳥だからしょうがないよね?)
と言わんばかりに、遥佳が怒ってる意味が分からないような風情で小首を傾げてみせる。
「可愛くしても反省してないのは分かってるのよ、ヴィゴラス。あなた、イスマルクに全く悪いと思ってないでしょ」
最近は遥佳も強くなってきている。ちゃんとヴィゴラスを怒ることを覚えたのだ。
ディリライト島での経験が遥佳を強くしていた。
(だが、どうせイスマルクは神殿のお尋ね者だ。ゲヨネル大陸ならそんなこともなく、伸び伸びと暮らせているだろう)
「・・・・・・そりゃそうなんだけど」
それを言われると、遥佳も何も言えなくなる。
イスマルクは自分達の為に神殿から追われる身となったのだから。
(そんなことよりも、枯れ枝を集めてくるのだ。そうして魚も獲ってくるのだ。だからハルカは休んでいていいのだ)
怒られそうになったら、ささっと逃げるヴィゴラスはどこまでも要領がいい。
結局、戻ってきたら褒めてもらえると分かっている。
見晴らしのいい野原に遥佳を置いて、さっさと飛んでいった。
「全くもう・・・っ」
仕方なく、そこよりも木が生い茂る場所に行き、遥佳は周囲の地面に頼む。
「ここに小さな地下水を引き上げた泉を作ってちょうだい。そしてね、できれば、あっち側に小さな温泉も欲しいの」
その周囲に生えていた雑草も見る見るうちに姿を消し、木陰には涼やかな水を湛えた小さな泉が出来上がる。
少し離れた場所には、地底の熱を利用した温泉も湧きだした。
(だけど、どうしてヴィゴラスは尋ねないのかしら)
こうして無人島で野宿をする度に、その近くに泉も温泉も湧き出ているという不自然さを。
それとも単に野宿を決めた場所の近くにそういったものがあるのは、そういうものだと思いこんでいるだけなのか。
まだ子供だし、そしてグリフォンはそこまでの環境など全く必要としないから分からないだけなのかもしれない。
(知りたくないのは、・・・私が臆病だからなのね)
一言、尋ねればいいだけだ。
自分が母の子供だと知っているのかと。
だけど、知っていると答えられたらどうすればいいのだろう。
(ヴィゴラス。あなたは・・・)
自分が母の子供でなければ、何とも思わずにとっくに立ち去っていたのではないかと・・・。
訊きたくて、その答えを聞きたくない。
遥佳は、ヴィゴラスが飛び去った空を見上げた。
「明日は雨が降るのね。だけどヴィゴラスが飛ぶ経路では曇りにしてちょうだい。あの子には打ちつけないで。できれば追い風を吹かせてくれないかしら」
空気が優しく自分を包んでいくのを感じる。空が、了解した旨を伝えてくる。
(早く海を抜けた方がいいわ。私と荷物があるんだもの)
いくら体力のあるヴィゴラスでも、この重さは負担になっている筈だ。
ゲヨネル大陸に入りさえすれば、ゆっくり休んでもらえるだろうが。
(イスマルク、待たせてごめんなさい。もうすぐ着くと思うから許して)
その元凶は全てにおいてヴィゴラスなのだが、訊かなかった自分も悪いのだ。
自分が見つけて名付けた、大きくて強くて優しくて、それでも甘えん坊なグリフォン。
きっと今回のことだって、あの躾に厳しいイスマルクがいなければ甘え放題だと思っただけに違いない。
(思えば毎日甘えられてた気がしてならないわ。ヴィゴラス、あなたって子は)
だから自分は目を閉じる。
この優しい時間をまだ享受したくて。
結局そんな自分は弱虫のままなのだと、遥佳は自嘲した。




