52 優理はキースヘルムを罠にかけた
キマリー国首都の関所を抜けようと思ったのが、運のつきだった。
優理は、今すぐここから逃げ出せないものだろうかと、窓の外をちらちらと見ては考えこむ。
目の前のソファには金髪に青い瞳をした、本物より王子様っぽいシンクエンがいた。
同じソファの隣には自分より背が高くて年も21才だと判明してしまった子爵家令嬢エミリアが座り、そして背後にはエミリアの弟ロルファンが立っている。
(普通、そこまでサバよめるってのが凄いわ。普通、六つも年下の弟と双子設定できるもんなのっ)
できてしまったのだから仕方がない。
背の高さ以外は全くそっくりで、しかも少年少女、どちらであっても納得できる可愛らしさがあったのだから。
「だけどさぁ、ロルファン君」
「何だよ」
「あなた、大変じゃない? 今そっくりってことは、六年後のロルファン君、エミリアちゃんそっくりになる可能性が高いってことでしょ。恋人より女の子らしかったりしたら大変よ」
「誰がだっ! そもそも俺は女に間違えられたことはないっ」
「そりゃ短い髪なんだからそうなんだろうけどぉ」
ついでにロルファンの動作には全く女性らしさがない。
男女というのはどうしても体の構造上、動きに違いが出るものだ。
だから男が女を演じる時、そして女が男を演じる場合は、仕草ばかりか歩幅や歩き方、目の動かし方や体の跳ね方、リズムまで変更するのだ。そこまで変えて性差を際立たせる。
ロルファンの動きはあまりにもきびきびとしすぎていた。
「そんなお喋りはどうでもいいよ。さて、ユーリ殿。覚悟は決まったかい?」
シンクエンが優理の前で微笑みながら、手を差し出す。
「はい、握手。ね?」
その手を取ったら地獄行きだ。
キースヘルムにも、優理が捕まったことはフレドルクから報告されるだろう。いや、それこそ報告が今、走っていっているのかもしれない。
キースヘルムを裏切って隠れ家の場所を優理が吐いたとなればどんなことになるか。
勿論、優理が知らない場所をもシンクエンの兵士達は包囲するだろうが、そうだとして優理がその情報をキマリー国に売り払ったと思わないでいてくれるだろうか。
(それこそキマリー国にシッポ振って情報を売りつけたって思われるだけじゃないのぉーっ)
優理はキースヘルムを怒らさず、更にこのシンクエン達をも怒らさない方法を考えなくてはならなかった。
「ちょっ、ちょっと待って。ここはねっ、何ごとも混乱せずに全てをスムーズに終わらせてこそだと思うのよ。だってそうじゃないと、今の王子様、血まみれの統治から始まったなんて言われちゃうっ」
優理は、まずはそうやって時間を稼ぐ。
(ふーん。ユーリちゃん、ボスの愛人じゃないと言ってたけれど、義理立てはするんだ)
そんな慌てふためく優理の顔を、エミリアは興味深そうに眺めていた。
朝早くからトントンと、誰も来ない筈の扉が叩かれた。
念の為、窓の隅から外を覗けば、とっくにここを発った筈の優理がいる。
「ボス。あのユーリって娘っ子が帰ってきましたが」
「ユーリが?」
驚いてキースヘルムが出ていくと、そこに優理が立っていた。
「どうした、ユーリ」
「どうもこうもないわ。キース、ちょっと来て」
ぐいぐいっと、キースヘルムの腕を外へと引っ張っていく。中の誰にも聞こえないよう少し離れた場所に行くと、優理はキースヘルムに向き直った。
「あなたが匿ってた貴族に密偵が紛れてたの、知らなかったわよね?」
「・・・なんだと?」
もしかして自分が恋しくて戻ってきたのかと思いきや、優理が口にした内容にキースヘルムも気色ばむ。
それまでのにやけた顔から一気に凄みを出し、低い声になった。
「私、ここの隠れ家しか知らなかったけど、他にもこの首都内に6ヶ所あるんですって?」
「ちょっと待て。何故、お前がそれを知ってる。まさかお前、その情報を・・・っ」
「痛っ」
「言えっ!」
「い、・・・痛いってばっ」
ぐいっと優理の手をねじりあげたキースヘルムである。
そこで優理が腕を押さえて地面に座りこんでしまったものだから、あまりの非力さに立ち竦んだ。
「ひ、ひどい。私、わざわざ・・・。キース、頑張ってたからって、ちゃんと交渉してきてあげたのに」
涙に潤んだ目で、地面にスカートを広げて座りこんでしまった優理が睨みつけてくる。
感情的になったその頬が朱に染まっていた。
「もういいっ。キースなんて捕まっちゃえばいいのよっ!」
「待てっ! 待てよっ、ユーリッ!」
ぽろっと涙を零して駆け去ろうとした優理の腕をキースヘルムが掴む。
遠慮なく腕を掴まれたまま蹴りを食らわそうとした優理だったが、さすがにそれは見切られていたようで、簡単に足も掴まれた。
「放してっ。転ぶじゃないのっ」
「いいから来いっ。話を聞かせろっ」
隠れ家へ優理を連れていこうとしたキースヘルムだったが、優理を肩に担いだところで制止の声が入る。
「生憎と、そんな時間を与える気はないと伝えさせていただこう。さて、ユーリ君と言ったか。交渉は決裂したのだろう? ならば全員を討伐対象とさせていただく」
「ちょっと待ってよっ。まだ交渉してないものっ。少しは待ってくれたっていいじゃないっ」
「てめえ。・・・誰だ?」
唸り声のようなキースヘルムの誰何に進み出てきたのは、筋骨たくましい騎士達だった。
「えーっと、今回の粛清対象の貴族狩りをしている騎士さん達ですって」
肩に担がれた優理がキースヘルムの耳元で説明する。
「まどろっこしい。そこのユーリ君は、君と交渉し、こちらが名前を挙げた貴族及び金貨200枚を君が払うことで、他の人間は見逃して首都からの関所を通過させるという約束をとりまとめると言った。だが、こちらとしては最初から全員を包囲して全てを処理した方が早いというものでね」
キースヘルムがざっと周囲を見渡せば、とっくに兵士達がこの隠れ家より少し離れた全ての路地に待機していた。
つまり、逃げ場所はないということだ。
キースヘルムにも緊張が走る。
「ちょっと待ってよ。だけど誰だって治安上、無血引き渡しが望ましいに決まっているじゃないの。地道に働いている善良な一般市民の皆さんにしても、ここでこっそりと必要な人だけとお金をあなた達が受け取ってこちらを見逃してくれる方が、とっても紳士的って感心してくれるってものよっ」
「そんな感心はいらん」
あっさりと騎士はそれを撥ねつけた。
「だけど私をここに寄越した以上、あなた達の上司のお方は、私にそれを任せたってことだわ。まさかそれをないがしろにする気? いつからあなた、責任者のあのお方より偉くなったって言うのっ」
「チッ」
シンクエンのことを匂わされ、その騎士は唇を歪めて舌打ちする。
「だが、その男はどうかな。ここで金貨200枚とこちらが要求する人間を差し出すよりも、最後まで戦って散りたいと思うんじゃないか?」
「勝手に決めないでよっ。そこまで馬鹿な男じゃないわ。あんた達と違って、生きて帰る責任ぐらい知ってる男よっ」
ほとんどその騎士と優理のやり取りになっていたが、キースヘルムはその騎士に向かって言った。
「とりあえずその差し出してほしい人間のリストとやらを見せてもらおうか」
「あ。これこれ」
「お前かよっ」
優理が、キースヘルムの肩の上でがさごそとスカートのポケットに手を入れたものだから、キースヘルムは小さく怒鳴りつけた。
奪うようにその紙をひったくる。
(なんてこった。7ヶ所全ての隠れ家がばれてやがる)
ざっとそれを見たキースヘルムは、そのリストに書かれている隠れ家の場所と、各場所における差し出してほしい貴族名の羅列を見て、それを悟った。
(ユーリじゃねえ。こいつはずっと監視をつけていた。変な奴と接触したりもしてねえし、情報を集める機会もなかった)
しかし何故、今ここで優理が交渉役として出てきているのか。
「おい。お前、どうしてこんなもんに係わってやがる」
「え? えーっと、関所を抜けようとしたら、そこにいた偉い人に、初恋の少年に似てるからって、捕まっちゃったの。愛人になりなさいって」
さすがにキースヘルムと、その場にいた騎士達が目を丸くする。
「男の子じゃないって言っても、そんな短い髪の女の子はいないからって信じてくれなくて、だけど二人きりになった時に服の上から触ってもらって男の子じゃない確認してもらったの。そんなことしている内に、その偉い人のところに、密偵が調べたキースの隠れ家の話が報告されたのよ。だからね、私、そういうことなら交渉役にしてって頼んだの」
「・・・誰がそんな言い分を真に受けるんだ、おい」
さすがにキースヘルムも、それは無理がある話の流れだろうと、鼻白んだ。
「分かってないのね、キース。初恋の人って特別なのよ? 私の黒髪が心に響いたみたいなの」
その場にいた騎士や兵士達が互いにそっと目配せし合う。
優理の髪は黒い。そして関所にいた偉い人、つまりシンクエンは王族だ。
王族であるシンクエンが目にする黒髪の人間なんて限られている。つまり第一王子だ。
『まさかなぁ』
『そういえばあの、今まで華やかに女性に囲まれていたお方が・・・』
『ああ。こうやって血生臭いことに手を染められたのも、よ』
『今、国を離れている間にって思われたのか』
『叶わぬ思いの為に、かよ』
『泣かせるじゃねえか』
シンクエンの叶わぬ恋を思い、そこかしこで感涙するものがある。
当事者であるシンクエンとケイファストが聞いたら、きっと心の底から否定しただろうが、どちらもその場にいなかった。
――― 今まで苦労しなくても貴婦人に囲まれるというムカつく綺麗な貴公子だと思っていたが、そういうことならば話は別だ。誰にでも情けの心はある。
尚、肝心のシンクエンはこんな場所に来ることなど許されぬ大事な体なので、安全な場所で待機中である。
エミリアとロルファンもキースヘルムの仲間達に顔が知られている為、余計な恨みを買わぬようにと立ち会っていなかった。
だから優理の嘘を止める人間はどこにもいない。
「なるほどな」
キースヘルムとて選択肢は他になかった。無駄死にするくらいなら金貨200枚払った方がいい。
優理の話とて本当か嘘かは問題ではない。
ただ、心のケリをつける時間が必要だっただけだ。
「どうやって引き渡せばいい?」
「我らは首都を騒がせることを望んではいない。大きな馬車をそれぞれの場所に行かせるから、それに乗せてくれ。出国させる目途が立ったと言えば、大人しく乗るだろう」
「分かった。で、きっちり見逃してくれて関所も通してくれるって保証は?」
「どうせそのリストにある貴族が全て捕まれば、こちらも関所を封鎖する必要はない。勝手に通って帰れ。・・・ああ、だが、その黒髪の娘は置いていってもらおう」
「何故だ?」
キースヘルムが優理を肩に担いだまま尋ねる。
「その娘は見届け役だ。我らが金と人間を受け取り、そしてお前達が関所を通過したのを確認して、それをこちらの責任者に報告してもらわねばならん。そうでなければ我らが叱責される。・・・その娘がいなければこっちも簡単に討伐できたものを」
「はん。なんとも気に入られたもんだ」
キースヘルムは優理を肩から下ろした。
「その馬車は?」
「この先の路地にある。お前も他の隠れ家全てに同行してもらおう」
「ああ。じゃあ、変にあいつらが暴れたりしないよう、建物の前に馬車はつけてくれ。そしてあんたらは姿を見せるな」
まさに騎士といった格好の人間がいたら、誰しもパニックを起こして逃げ出そうとするだろう。
「騒動になるのはごめんだ」
キースヘルムは言い捨てた。
しかしそれは騎士達も分かっていたらしい。馭者台にいるのは、普通の格好をした男達だ。
キースヘルムは隠れ家の中に戻ると、何人かの貴族達を案内して連れ出してくる。
「ええ。この馬車でとある商売人の別荘へと案内します。そこで匿ってもらい、やがて国外に案内させてもらうことになりますから」
「本当なんでしょうね。まあ、それならちゃんとした使用人もいるでしょうけど。ああ、本当に気の利く小間使いのいない生活はうんざりだったわ」
「何とも頑丈な馬車だな。しかも大きい」
「ええ。間違っても襲われたら困りますしね」
適当なことを言いながら、次々と馬車へ貴族の男女を案内していくキースヘルムだ。
そうして馬車が出発すると、騎士がキースヘルムに告げる。
「ここの建物にいる奴らを全て第2の関所へ。どこの隠れ家でもすぐに彼らを護送したら第2の関所へ向かってもらいたい。無事に通過するのを、この娘に確認してもらわないと困る。・・・ああ、そうだ。馬車に乗る直前にお前達があの貴族から金を巻き上げていたと分かったら、すぐに関所は止めるからな」
「わあったよ」
命あっての物種だ。
キースヘルムは、建物の中にいた手下達に、残りの雑魚な貴族と共に第2の関所へ向かうように言い含めた。
彼らはどうでもいい貴族なので出国させていいらしい。
ぼろいが、馬と馬車は慈悲の心だとかで、騎士達が用意してくれていた。
それに乗りきらない分は自分達でどうにかしろとのことだが。
(どうせ貴族達が馬車まで持っていった財産だってこの国が没収するんだろうによ。それでいて俺からも金貨200枚とはひでえ話だ)
しかし軍に取り囲まれて関所も閉鎖されてしまえば、分が悪いのはキースヘルムである。
まだ金貨200枚差し出せば見逃してくれるということを有り難く思うしかないのだろう。実際、破格の待遇だ。
で、そんな陸でもない話を持ってきた張本人といえば・・・・・・。
「おい、ユーリ。お前、何寝てやがる」
「ん。だって、・・・関所まで歩いて、なのに捕まって、しかも交渉して、朝一番でここに来たんだもの」
要は疲れているらしい。地面に生えている木に凭れて目を閉じている。
「しょうがねえ。ほら、来い」
一頭だけ残させた馬に跨り、キースヘルムは優理と共に次の隠れ家へと移動することにした。その間、優理はすぴすぴとお休み中である。
勿論、騎士や兵士達、そして違う馬車も一緒だ。
(こんなことならお貴族様なんぞ見捨てて逃げ出しときゃよかったぜ。欲なんてかくからよぉ)
はからずしも優理の忠告が当たったことが悔しすぎる。
そうして7ヶ所の隠れ家全てからリストにあった貴族を差し出し、第2の関所へと辿り着く頃には日も暮れていた。
「じゃあ、これで全員通過したのね、キース」
「ああ」
金貨200枚もきちんと数えた優理は、騎士達と共に残るという。
「で。その発育不良な娘を可愛がろうってか。良い趣味してんな、お宅の責任者とやらは」
その娘と若夫婦を装った男のセリフではないが、キースヘルムの面の皮は西瓜並に分厚かった。
「あ、大丈夫。私が女の子なら、全く興味ないんですって」
けらけらとキースヘルムの言葉を優理が否定すれば、その場にいた男達にも何だか複雑そうな空気が流れる。
一人だけ平和な笑顔で、優理は手を振った。
「さよなら、キース。また市場で会いましょうね」
「ああ。さっさと戻ってこい」
どうせ優理は行きに泊まった隠れ家を把握している。だからそこへとやってくるだろう。
そう思い、キースヘルムは手下達、そしてあまり金にはならないがそこそこの儲けは出してくれる残りの貴族達を引き連れて、首都を去っていった。
その晩は、もう遅かったので高級な宿屋に泊まらせてもらった。翌朝、金貨200枚を持って、優理はシンクエン達と合流する。
エミリアとロルファンも呆れ顔になっているように思えるのは気のせいではあるまい。
だが、しかし。
「あえて言うわ。金貨を笑う奴は金貨に泣くのよ、と」
尚、それについて三人は無反応だった。
やはり銅貨じゃなくては感動を呼べないのかもしれない。
「えーっと、ではこの金貨200枚は私の交渉役料金ということで頂きます」
「・・・勝手にしたまえ」
さすがのシンクエンもそうとしか言いようがなかった。
優理は、どうせ引き渡す貴族達が持っている財産はそちらで没収するのだからと、迅速に話が進むだけの情報かつ交渉に対する報酬として、前もって金貨200枚を要求したのである。
シンクエンから絶対に捕まえたい貴族の名を聞き出し、その上でエミリアやロルファンが知らなかった隠れ家の情報まで出してきたのだから、文句は言えない。
その金はキースヘルムに出させるということだったし、シンクエンやキマリー国の懐が痛むわけではないから、いいと言えばいいのだが・・・。
(この娘。その逃がし屋集団と仲良くやっておきながら、なんて業突く張りなのだ)
シンクエンとて自分の部下を一緒に行かせていた。
どうやら貴族達を逃がす商売をここでやらかしてくれた集団の元締めは、優理をかなり気に入っていたらしい。
疲れきって寝てしまった優理を自分の腕に抱いて、大切そうに運んでいたとか。
なのに肝心の娘は一芝居打って、その相手から金貨200枚を巻き上げているときたものだ。
(鬼かっ。貴様は鬼かっ)
言葉にせずとも同じ意見が、視線だけでロルファンと語り合えてしまうシンクエンだ。
そこでエミリアの顔は見たくないシンクエンでもある。そう、今のエミリアの顔は見たくない。
(ハールカ姫じゃない。絶対に違う。あの姫はこんなに図々しくも無神経でもなかった)
どんなに似ていても別人だと、シンクエンも心の底から理解した。
けれどもそこでじゃらじゃらと金貨を数えていた優理は、100枚だけ別にする。
「はい、エミリアちゃん」
そして100枚の金貨を差し出した。
「え?」
「あげる。どうせ私のお金じゃないから遠慮なく受け取って」
「だって、・・・もらう理由なんてないわよ?」
さすがにエミリアだけでなく、その場にいたシンクエンとロルファンも、まじまじと優理を見る。
「迷惑料よ。だって、エミリアちゃんち、使用人を雇う余裕もないのに、王族の人に同情してわざわざ潜入したんでしょ? そのおじい様って人も偉いわ。本当に美術品なんて国外に出てしまったら回収は難しいもの。ちゃんと物事の本質を見ていらっしゃる方よ。だけど、おじい様って呼ぶぐらいなんだから、もうお年なんでしょ。これで一人でも人を雇うだけで楽になると思うの」
「・・・ユーリちゃん」
少し時間を置いてから、エミリアはその金貨が入った革袋を押し戻した。
「もらえないわ。だってユーリちゃん、無理に連れてこられて、それでもちゃんとみんなにとって一番無理のない落としどころを考えたんでしょ? あなたはとても頑張ったわ。だからこれはユーリちゃんのお金よ」
「ううん。エミリアちゃんがいなかったら、私、適当に言いぬけて協力しなかったと思うもの。だからやっぱりこれはエミリアちゃんの報酬よ」
ここで、おいっと思ったのはシンクエンである。
だが、何も言わなかった。
遥佳もそうだったが、優理にもまた一般的とは違う、他人に影響されることのない自分のルールで動いているという印象を受けたからだ。
(ハールカ姫は大人しくおどおどとしていたが、決めたら勝手に自分のやり方を押し通すところがあった。このユーリという娘もそうだ。どちらも自分の決めたやり方で生きている)
大体、ここでその金貨200枚を自分達に奪われるとか考えないのだろうか。
シンクエンはしないが、今回同行していた騎士や兵士達に後で襲われることもあるだろう。これだけの大金を優理が手にしているのを、誰もが見ているのだから。
とりあえず優理には護衛の兵士を関所まで出しておくべきか。その方が盗賊をつけるようなもので危険だろうかと、シンクエンも悩むところだ。
「あのね、エミリアちゃん。あなたのおじい様、本の虫って言ってたけど、そういうポリシーがある生き方ってとっても筋が通ってて格好いいわ。それにロルファン君だって育ちざかりだもの。ご飯代の足しにしてちょうだい」
そう言って、優理は金貨100枚だけ荷物に入れた。
「ユーリちゃん。ギバティ王国に帰るの?」
「ううん。さすがに今戻ったらキースに白状させられちゃう。どうせ行く当てはあるし、そこに行くわ」
「一人で平気?」
「うん。驢馬だっているしね」
優理は馬小屋にいる驢馬を連れて出ていこうと、立ち上がる。
「じゃあね。さようなら、シンクエン殿下、エミリアちゃん、ロルファン君。大変だけど頑張ってね。信念があれば、人はいつしか結果を手にできるものよ」
手を振って出ていく優理を、三人は呆気にとられて見送った。
「信じられない。どうしてシンクエン様のお名前をユーリちゃんってば知っちゃったの。口止めはちゃんとしてあった筈なのに」
「それを言うなら、殿下と呼ばれて、それでも手を振るだけで出て行かれたのは私も初めてなんだが」
「どうします? どこへ抜けるか知りませんが、誰か兵士をつけますか?」
ロルファンの問いに、シンクエンが考えこむ。
シンクエン同様、ロルファンも優理が騎士や兵士達に襲われる危険性に気づいていたのだ。
「なかなか面白い子。・・・シンクエン様。今まで私、ロルファンを私の身代わりに置いておいて宮内へと入りこみ、殿下の解毒に努めてまいりました」
すると、エミリアがシンクエンの前に膝をついた。
ここでの殿下とは、第一王子ケイファストのことだ。
「それはラヴィニア妃がなさっていたのでは?」
「宮中にいる姉では手に入れることもできぬ薬草もありました。私は私として参内させたロルファンを置いておき、侍女のフリをして入りこんでいたのです」
「そうか」
本来はそんな侵入など叱責どころではない話だ。けれども何が行われていたかを思えば、感謝しかない。
この国の第一王子の体質改善には、ドモロール王国の貴族を母に持つミンザイル伯爵家の人間が深く関与していた。
「君の長く茶色い巻き毛はとても特徴的だったからね。まさかロルファン殿が影武者をしているとは思わなかった」
波打つ巻き毛が印象的な姿は、シンクエンにとっても好ましいものだった。
領地に行けば笑顔で駆けよってくる第二王子ウルティードを思い出させる髪の色だったから。
勿論、長い髪をたなびかせているのはどうかと思わないでもなかったが、その言動も何もかもが貴公子として優秀、そして紳士たる条件を全て兼ね備えていた。
だから、今の姿はあまり見たくない。
「同じ顔で同じ髪質、同じ髪色でしたから。・・・ですが、ロルファンはその為、私のしていた内容を全て分かっておりますし、ロルファンは領地において療養中となっておりますので、このまま私として過ごしていくことに全く問題はございません」
そこでロルファンが驚いたように身を乗り出す。
「なっ、何言ってんだよっ、兄上っ!」
「大丈夫。ロルファン、底上げ靴はちゃんと邸にあるし、お前ならできる」
背の高さをごまかせるシークレットブーツは、兄に扮する時のロルファン愛用品だ。
「そうじゃないだろっ」
「髪だって茶色く染め直せばいい。いやホント、ギバティ王国の髪の色を抜く薬はかなり品質が良かった」
うんうんと頷くエミリアだ。
豊かな濃茶色の巻き毛を持つとして知られていた自分だから、関所で誰も見抜けなかったのは無理もなかった。彼らが知っている自分はもっと背が高かったのだ。
ロルファンとエミリアに不信な目を向けることこそあり得なかっただろう。
シンクエンがわなわなと指を震わせる。
「まさか・・・。まさかと思うが・・・。君、ミンザイル伯爵家の跡継ぎ、王太子妃の実弟だという自覚はあるか?」
「大丈夫です。私が戻るまできっとロルファンが私として十分にその役目をやり遂げてくれることでしょう」
エミリアは立ち上がると、気持ちのいい笑顔を見せた。
「人との出会いは一期一会であり、もう二度と会うことはないなら、そのチャンスを逃すのは愚か者のすること。では、シンクエン様。どうぞお元気で。そしてロルファン、今から君はエミリールだよ」
一礼すると、エミリアは颯爽と出て行った。パタンと扉が閉まる。
ちょっと待てと、シンクエンは思った。
「その、だね。ロルファン殿。追いかけて止めなくていいのかい?」
「兄は、・・・言い出したら聞かないんです」
「なんでどいつもこいつも、・・・あの顔に惹かれるのだ?」
シンクエンとて前を見たまま、ぼやかずにはいられない。
ウルティードの「ハールカ姫賛歌」も凄かったが、彼もまた何なのか。
「てか、・・・あの、変態っ。何考えてんだっ」
あああっと、ロルファンは床に膝をついていた。
「そこは弟の君が言ったならどうにか・・・」
さっきまで優理に見せていた傲慢そうな少年の姿は、もうどこにもない。
「あんな女装を平気でやれる21才の伯爵家跡取りですよ?
しかも恥ずかしげもなく、
『私、15才の女の子なの』
とか言って、あのユーリ殿ときゃっきゃとお喋りしていた21才の男ですよっ?
弟の私が言っても、あの恥ずかしい若作りな女装を嬉々として実行してくれた21才の変態なんですよぉっ!?」
それでも第一子であり、今は王太子妃となった長姉ラヴィニアと同様、第二子エミリールは毒物や薬物の知識を叩きこまれて育っていた。
勿論、あの女装は男子禁制の場所へ入りこむために磨かれたものだと、ロルファンも分かっている。
(逃がし屋の隠れ家でいそいそと貴族夫人や令嬢の着替えを手伝ってた小間使いの娘が、まさか自分とも踊ったことのある男とは思ってなかっただろうに・・・)
ディッダス子爵家はミンザイル伯爵家の分家で、全く社交界に興味のない偏屈な大叔父が暮らしていた。
尚、使用人がいなかったのは貧乏だからではなく、二人の滞在中は使用人達を休ませていただけである。
「父上と姉上になんて言えば・・・」
ぺたっと、ロルファンは尻まで床についてしまった。
勿論、普段は全く女性らしさを感じさせないくせに、必要とあればあんなにもなりきることができるのだから、凄いと思っている。
その裏でどれだけの努力をし続けていたか、ロルファンでは到底及ばないレベルだろう。
兄は優秀だ。それは認める。けれど。
(どうしてそうあんたはいつもいつもっ、自分勝手なんだよぉーっ)
ロルファンの心を、滂沱と流れていく涙があった。
驢馬を曳きだして荷物を載せた優理は、その驢馬に跨って、とっぽとっぽと歩かせ始めた。
(金貨100枚なんて騎士や兵士にとっても大金だものね。ましてや扉の外で聞き耳たててたし)
王宮で王族の身近に仕える騎士や兵士ならば違っただろう。
だが、汚れ仕事や関所での業務に就く騎士や兵士達はお上品とは限らないし、品性だって高尚というものでもない。
(だけど暮らしていけるお給料はちゃんともらってるんだもの。同情はしないわ)
大事な驢馬だ。だから優理と驢馬の間には空気を入れて体重がかからないようにしてみた。
おかげで振動も感じずにゆったりと移動できるし、驢馬だって軽くて楽ちんだろう。
そうして優理の背後、つまり驢馬に載せた荷物の上には、大気に頼んで鎌鼬をエンドレスで実行してもらっている。背後から襟首を掴まれて引き摺り下ろされる前に、その人間の手が切り刻まれるようにと。
なるべく力を使う気はないし、そうしてこういったことも大気に頼むものではないと思いながら、自分の安全がかかってくるならば遠慮なくそのこだわりを解除する優理だ。
(全く私を誰だと思ってるのよ。躾のなってない破落戸如きの分際でっ)
誰からも、逃がし屋集団元締めの愛人にしか思われていない。
そのあたりの認識には完全に目を瞑り、優理はバラバラと行く手を遮るかのように出てきた男達を一瞥した。
「よう。そ・・・・・・・・・っ!????」
「・・・・・・!?」
「・・・!! ・・・・!??」
男達は何かを言おうとしたようだ。けれどもすぐ口をパクパクさせるだけで何も言えない状態となった。
無視して優理は通り過ぎるが、彼らの足は地面に根が生えたように動かない。
腕や顔の向きも動かせないものだから、驚愕しつつも彼らは何が起きているかも分からぬ状態だ。
――― 明日の朝まで同じ状態にお願いね。
小さな声で頼めば、了承した旨を大気が知らせてきた。
道を塞ぐように突っ立って、何を言われても動けないようにされた彼らだ。
そのうち迷惑人間として誰かに撤去されるかもしれない。
誰に何をされても同じ姿勢で動けない事態に、明日の朝まで恐怖を味わうことだろう。
(それでも命を奪わずにこの程度ですませる私って、なんて思いやり深く慈しみと寛容さに溢れているのかしら。あっちは私を殺してでもお金を盗る気だったというのに)
そうやって自分を褒めてみる。だって他に褒めてくれる人がいないから。
勿論、明日の朝まで、懐の金を持っていかれても文句も言えず、追いかけることもできず、空腹になっても食事はできず、トイレもお漏らしするしかない男達が、この状態を引き起こした張本人を知ったら別の意見もあったことだろう。
(どうせ襲ってきた男達だって事情を説明なんてできないものね。だから遠慮なく反撃できるってものよ)
何回かの似たようなことを繰り返し、また人気のない路地に差し掛かった時点で背後から襲ってくる男達もいたが、指一本動かすことなく全てを撃退した優理はトットコトットコと、驢馬を歩かせた。
エミリアと名乗っていたエミリールは、その女装姿のまま、馬を曳きだして跨った。荷物の中には野宿できる装備と男女どちらの格好も出来るだけの物を入れてある。
「さあ、行きましょうか」
優理がどちらに向かったかは分からないが、まずはどれかの関所に向かったことだろう。
だが、途中に変な男達がいた。
「どけよっ、てめえらっ」
「邪魔だろうがっ」
「なぁに突っ立ってんだっ」
通行人に罵倒されても、通路の一部を塞ぐように横一列になっている男達を、エミリールはちらりと見ながら通り過ぎた。
(同じ姿勢を維持する訓練か? 何の為に道を塞いで?)
変な人間というのはどこにでもいるものだが、ここにもいたというだけだろう。
ただ、その日はそういう変な人間が多かったらしく、何回か見かけた。
「血がっ、俺の手がっ」
「すぐ手当てすりゃいいっ。どれも浅い傷だっ」
「だけど血まみれだぁっ」
赤く染まった腕を押さえるようにした怪我人達が、慌てて治療所へと駆けていこうとする姿も見たが、一体なにがあったのか。
(何やって怪我したんだ? 自分の腕を差し出して全体的に切りつけてもらったとか?)
通りすがりにさりげなくチェックしたが、腕の表面を幾つもの切り傷が入っているものの、どれも深くはない様子だった。
しかし当分、腕は使いものにならないだろう。数多いそれに、痛みは絶え間なく続く筈だ。
(今日はおかしい人間が多いな)
そんなことを思って先を急いだエミリールは、目指す姿を見つける。
勿論、裏声は忘れずに声を掛けた。
「ユーリちゃんっ」
びくっとその声に優理が振り返る。
「エミリアちゃんっ?」
にっこりと笑って馬を少し急がせて隣につけると、エミリールは優理の顔を覗きこむようにしてその提案を持ち出した。
「ねっ、ユーリちゃん。あのね、私ね、一緒に行っちゃ駄目かしら?」
「え?」
焦げ茶色の瞳をまん丸くして優理が見返してくる。
「ほら。私ってデビューもできないままの貧乏貴族だったでしょう? デビューもできないし、勿論、貴族に相応しい持参金だって用意できないわ。だから本当はね、そのまま貴族をやめて普通の庶民生活してみようと思ってたのよ。おじい様もね、貴族の体面にこだわらなければ十分に暮らしていけるの。だから、・・・ついてっちゃ駄目? 私、これでも背が高いから男装したらそこそこ虫除けにはなると思うし、剣も使えるのよ? 貧乏生活に慣れてるから野宿も得意ね」
「だって・・・。そんなの、ロルファン君は・・・?」
「ロルファンなら大丈夫。だってもう15才だもの。おじい様くらい自分で養えるようになるって言ってたわ。それに私みたいな小姑がいない方が、可愛らしいお嫁さんも来るってもんでしょ? これでも私、けっこうお役立ちよ?」
一つ一つメリットを挙げながら微笑みかけてくるエミリールは、背が高いだけでとても女の子らしくて可愛い。
男装しても似合わなさそうだと、優理は思った。
(本気なのかな? エミリアちゃん、考えなしに言ってるわけじゃないよね?)
やっぱり一人が寂しくないわけじゃない。
だから嬉しいと思ってしまう。
半信半疑になった優理は、積極的には拒絶できずにいた。
「だって、・・・私、本気で一般庶民よ? 市場で占い師してたぐらいだし」
「占い師? 素敵ね。ユーリちゃんが占い師しているなら、私はどこかに小間使いの仕事をしに行こうかしら。そして一緒に暮らすの。二人の収入があれば十分やっていけるんじゃない? だって生活費って一人が二人になった場合、大体1.5倍の増加よね。だけど収入は普通に2倍だわ。じゃあ問題ないでしょ? ね、楽しそうじゃない?」
本当に貴族令嬢らしからぬ生活能力である。
(エミリアちゃん、実はそういう計算も得意なのかしら。普通、生活費とか経費とかって詳しくない人の方が多いんだけど)
そういえば彼女は貴族の小間使いや使用人にもなりきれるたくましさを持っていた貴族令嬢だ。
同居人としてはかなりいい物件かもしれない。
「それに・・・、私、キースの愛人じゃないけど、なんだかんだとああいう人達と繋がりはあるわよ?」
「それなら余計に私が必要でしょ? 一人だけじゃ心細いこととか、手が回らないことってあったんじゃない?」
優理は考えた。どうしても若い娘の一人旅は危険がつきまとう。
勿論、自分ならきちんとそれらにも対応できるだろうが、一人より二人の方が安全なのは確かだ。
やはり油断していたらキースヘルムやレイスに誘拐されてしまっていたように、自分は万能ではない。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「決まってるじゃない」
エミリールは邪気のないとっておきの笑顔を向けた。
「女の子同士の友情は最強で不滅なのよっ」
キースヘルム達はかなり慌ただしいことになっていた。
一気に脱出することなど考えていなかった為、隠れ家でもかなり混乱したのである。
どうにかこうにか分散させて、また普通の宿屋や野宿なども利用し、キースヘルム達は何とか移動を続けていた。
勿論、大勢の移動は不自然に映る。
あえて隠れ家に何泊か逗留させたりもした。
キースヘルムも、その宿屋であと一泊していく予定だ。
「ボス。どうしやした?」
「ああ。いや、このリストな・・・」
見るだけで忌々しい、差し出す貴族の名前を羅列してあるリストだ。
そのまま捨てたくなりながらも、何となくキースヘルムは捨てかねていた。
というのも。
(どーこかで見覚えありやがる筆跡なんだよなぁ)
勿論、キースヘルムの判断は正しかった。それは確かだ。
あの包囲された状況下、自分達に全く人的な損失は出ていない上、更に金貨200枚は取られても、十分に儲けは出ている。
これ以上ないぐらいの情けをかけられた屈辱に目を瞑れば、結果だってそう悪いものでもない。
けれども引っ掛かる。
何がというわけではないのだが、引っ掛かるのだ。
こんなにも見ているだけでムカつくリストなんぞ、どこぞに打ち捨てて忘れていきたいところだが、それでも何かが警鐘を鳴らす。
「ん・・・?」
何も書かれていないリストの裏側だが、その一番下、それこそ太陽に照らしてよくよく見ないと分からない程に、小さな文字が書かれていた。
パッと見はただの汚れにしか見えないが、目を近づければ文字だ。
「何だ? 蝋、・・・燭、炎に・・・? あ、・・・ぶれ?」
文字に見えただけかもしれないとは思ったが、よぉく目を凝らして再確認すれば、紙の斑点に見せかけていてもやはり文字である。
「蝋燭の炎に炙れ・・・?」
何のことやらとは思ったが、キースヘルムは疑問をそのままにはしなかった。
「おい。蝋燭を持ってこい」
「へい」
明るい内から持ってこさせた蝋燭の炎に、その紙を炙ってみる。
(燃やせって意味じゃねえよな。なんで干物じゃあるめえし、炙らにゃならんのだ)
自分でも愚かしいこととは思ったが、そうしていると、紙の表面に何かが焦げた感じで文字を浮かび上がらせていった。
そう、違う名前のリストが出てきたのである。
「・・・・・・・・・おい」
振り返ろう。
それは各隠れ家における、差し出す貴族のリストが書かれた紙の筈だった。
なのに今は、その隙間に様々な女性の名前が浮かび上がっている。それも、とある共通点を持つ貴婦人や侍女の名前ばかりが。
「・・・・・・・・・って」
蝋燭の炎に炙り出されて出てきた第二のリストは、逃がしてもらう際に便宜を図ってもらう見返りとしてキースヘルムに体を投げ出してきた貴婦人及び侍女達の一覧でもあった。
「・・・・・・い、いや、・・・こういうのはだな、ほら・・・」
別にその場には誰もいないのだが、つい言い訳がキースヘルムの口から出てしまう。
「そう、・・・ちょっとした、・・・・・・ああ、全くだな・・・」
自分でも何が言いたいか分からなくなっているが、こほんと咳払いで、キースヘルムは時間を稼いだ。
勿論、その場には誰もいない。
もしやと思い、その紙の裏側も炙ってみれば、出てきた文字は・・・。
『仕事をしていると信じていたのに』
『綺麗好きなんだと信じていたのに』
『昼下がりの情事を隠していただけ』
キースヘルムの動きが止まった。
気を取り直すように、またもやコホンと咳払いをする。
「そ、それは誤解なんだ・・・。いや、本当に」
ついつい、目の前でひらひらと片手を振ってしまうキースヘルムだ。
尚、繰り返して事情を語るならば、その部屋には誰もいない。
そして誤解どころか正解だ。
誰に言い訳する必要もなく、聞く人もいない。
けれども・・・。
ひらりとひっくり返し、キースヘルムは表のリストを見直した。
改めて思う。
(なんという恐ろしいぐれえの正確さなんだ)
そしてこのリストを持っていたのは・・・。
何より自分に見覚えのある筆跡なのは・・・。
(ユーリぃッ!! お前って奴はぁっ!!!)
気のせいじゃないだろう。
脳裏で、あっかんべーとしている優理の顔が浮かび上がった。
(しょうがねえだろっ! 据え膳なんだぞっ!?)
勿論、あの潔癖なファザコン娘には通じない言い訳だろう。
そんなのは分かっている。だから隠し通したというのに、何故ばれたのか。
(奴らにも、絶対にユーリにゃばれねえようにと、言い聞かせてあったってのに)
どすんっと椅子の背に凭れてしまうぐらい、キースヘルムはダメージを受けた。
「あのな、ほら、・・・こういうこたぁよ、上流ってされる方が乱れてやがんだよ、な?」
明後日の方向を見ながら、つい呟いてしまう。
勿論、返事はない。何故なら部屋には誰もいないからだ。
その辺りについて適当に言い逃れてごまかしておきたい相手は、あの関所で別れたきりだ。
(ここで惚れ直させる筈がぁーっ!)
頭を抱えてのたうちまわりたくなるキースヘルムだ。
何の為に連れてきたのか分からなくなっているではないか。
キースヘルムはとても大きく深い溜め息をついた。
(なんであいつはこう俺の思い通りにいかねえんだっ!)
まだそこで、こっちを責め詰ってくれれば、キスして抱きしめて誤魔化し、そのままおねだりされたものを買い与えてご機嫌をとれたものを。
時限爆弾的なものを投下されてしまったキースヘルムは、本気で自分が狙った通りに動かない優理に苛立たずにはいられない。
(言えよっ、その場でっ! なんつー陰険な真似をしてくれやがるっ!!)
こうなるとあの金貨200枚だって、その内の幾らが優理の取り分だったことやら。
渡した金貨十枚分の買い物をしてしまい、さほど所持金がない筈の優理が、どうして帰りの旅費を心配していなかったのか。
あんな小娘にしてやられたなど、絶対に手下達には言えない。
「フッ。さすがは俺が見込んだだけはある娘だ。やってくれっじゃねえか」
そうカッコつけて呟いてはみたが、・・・キースヘルムの背中には哀愁が漂っていた。




