48 番外編 優しい幽霊とプロポーズ
海に囲まれたディリライト島。
潮の満ち引きが、この島を包みこむ。
それはずっと昔から今に至るまで変わらない。
ザアァー、ザザザッ、シャワワーッと、潮騒が遠くなり近くなり耳へと届く。
海辺の塔で、私は優しい夢を見るの。
= - = - ☆ - = - =
その朝、修理から戻ってきた黄金の額飾りと半手甲、そして脚絆を眺めて、タイガはぼやいた。
「またどれもキラキラになってきちゃって。さっさと俺に死ねってか」
何かと荒っぽく使うものだから、外側に使用してある黄金なんて弱い金属だけにすぐ修理に出すことになるのだ。けれども海水でも錆びず、何より太陽の光を浴びて輝くので、修理費はちゃんと維持費として予算に組みこまれている。
黒く大きな石が嵌めこまれ、細かい彫りがほどこされた黄金の半手甲をタイガは両腕に装着した。手首部分から肘にかけての途中までを覆うそれは、幅の広い豪華な腕輪にしか見えないだろう。
そして足首から脹脛までを覆う金属の脚絆も取り付ける。
その黄金に輝く腕と足は目立ちすぎるので、ぴったりとした長袖シャツと長ズボンで隠した。
(たまに俺、実はみんなに憎まれてる指名手配犯じゃねえのかって思うんだがなぁ。心が強くねえとやってけないな)
そうして大きな赤い宝石が中央に嵌められ、更に幾つかの宝石も入った半冠タイプの額飾りを、革を編みこんだ布ベルトで頭に装着すれば身支度は終わりだ。
ちらりと見遣った窓の外には美しい海と空、そして点在する島々が広がっている。
「さ、朝飯行くか」
物見の塔と呼ばれるそこは、ディリライトの跡継ぎが暮らす塔だ。
最上階の部屋から下階へと彼は下りていった。
ディリライト諸島はとても豊かな島だ。活気があり、様々な産業が存在している。
ジンネル大陸に暮らす人々は、
「はっ。所詮は鄙びた島ではないか。王もいないとは」
と、せせら笑うが、一度でもディリライトを訪れようものならば、
「なんと。このような場所に王がいないとは勿体ない。我が国が治めてやらねばな」
と、言い出すのが常だった。
そういった各国の野望を打ち砕いてきたのが、13もの島々に配置されたディリライト一族である。
ディリライト諸島に国王というものはいないが、ディリライト一族は領主一族だった。
農産物や海産物の取り引きでも騙されたりする者が出ないよう管理し、外国との貿易にも税金をかけ、領主もしくは国主としての仕事を行いながら、敵に対して戦う指揮を執る。
ディリライト諸島で流通している貨幣はかなり質がよかった。それゆえに外国人がディリライト島内で金銭のやり取りをしようと思ったらまず貨幣交換所に行かねばならないが、そこでも悪質な貨幣を持ちこんだら撥ねつけられる。
混ぜ物がひどい貨幣など受け付けないのだ。
ジンネル大陸にも様々な島があるが、どこも近隣の国王に治められているというのに、ディリライト諸島だけは独立不羈を貫いていた。
「おっはよー、タイガ兄。可愛い弟のお帰りだぞっ」
「やっと戻ってきたか、イナミ。待ちくたびれたぞ。怪我はないか?」
「そんな間抜けしねえって」
へらへらと笑うイナミは、タイガの下の弟だ。塔の「食堂」兼「会議室」兼「たまり場」で、皆とガツガツ朝食をとっている。
その数をざっと見てとったタイガは、
「誰も欠けてないな」
と、微笑んだ。
そうしてタイガも席に座れば、塔の厨房で作られた朝食が運ばれてくる。
朝から分厚いステーキを頬張る彼らに、胃弱という言葉は無縁だ。
「タイガ様。どうやらルベリス王宮に出入りしている貿易商が絡んでるようです。兵を出したのはゴーラ領主の独断としたいようで、ロッカやフィーリが潜入の努力中です」
ロッカ、そしてフィーリは外国人の血を引いていた。だから赤銅色の肌に黒髪、焦げ茶色の瞳といったディリライト人の特徴を持たない。何かと潜入工作で重宝されている。
「つまり捨て駒か?」
「かもしれませんが、どうします?」
「一度でも見逃したら、更に仕掛けられる。どれも叩きのめすさ。当たり前だろ? イナミ、そういえばシュナンはどうした? 父上に報告に行ったか?」
「シュナン兄ならランザ叔父さんに軍船ねだりに行った。親父への報告はタイガ兄によろしくって」
「よろしくって、行ってきたのはお前らだろうが」
「えー。どうせやるこた決まってるしさぁ。ははっ、またタイガ兄の赤い魔王伝説が増えちゃうなっ」
けらけら笑うイナミは、期待を瞳にこめてタイガを見た。
「言ってろ。捨て駒なら他の場所に兵を集めてるだろう。ゴーラ領主を攻めこんだ隙にディリライトを攻める気か。イナミ、お前、ゴーラ領攻めやってみたいか?」
「もっちろーん。シュナン兄もってさ。タイガ兄がいると俺らの見せ場なくなるだろ? ランザ叔父さんと一緒に遠征するする」
「ランザ叔父上も口説いてくる気か。シュナンも要領いい奴だ」
「へへっ」
シュナンとイナミはランザが率いる造船業の跡継ぎを狙っている。ここでいいところを見せたいというものらしい。
「ではタイガ様。ディリライト全島民に?」
「ああ。ディリライトの海で迎え討つ。イナミ、ゴーラ領は大がかりに攻めていいぞ。サイル、外国人をこの十日間で退去させろ。ディリライトに手を出そうとした愚かさを後悔させてやれ」
「はい」
そこにディリライト首長の許可は必要ない。
何故ならばディリライト首長の跡継ぎこそがディリライト水軍を司るからだ。
「一応、顔出しはしとかなきゃまずいか。今日はちゃっちゃと島巡りだな」
各島にいる責任者達はタイガよりも年上のディリライト一族である。
部下を行かせておけばいいというものでもない。やはり顔を合わせておくことは大事だ。
全部回ってくるしかないかと、タイガは最後のパンを咀嚼した。
= - = - ☆ - = - =
ふんわりとした風に頬を撫でられて、私は目を覚ました。
(あら? 私ったら居眠りしちゃってたのね。今は朝かしら、お昼かしら)
ゆらゆらと揺れるロッキングチェアから体を起こせば、なんだかパキパキだわ。
ふわあぁっと欠伸して、それから「んみゅうーっ」と体を伸ばしてから辺りを見回してみる。
「あら?」
いつの間にやってきたのかしら。
同じ部屋の長椅子ではカシマが、違うロッキングチェアではウルティードがダラーっと手足を投げ出して、くーかーくーかー、スピスピと寝ていた。
テーブルの上には冷たいお茶が入ったピッチャー、そして飲み終わったグラスと未使用のグラス。
(私の分も持ってきてくれて、だけど私が起きるのを待ってる内に寝ちゃったのね。今日はどこまで漕いでいったのかしら)
この塔は大きいし、その気になればかなりの人数が生活できる。だからカシマやウルティードは邸ではなくこの塔で体を洗っていったりもする。空いている部屋に着替えも置いていた。
(むむっ。どんどん浸食されてるぞ、この塔。なんとゆーことでしょう。彼らは少しずつ浸食しながら塔の乗っ取りを企んでいるのです。そんな悪い子さん達なんて、悪い塔の魔女が実験台にしてしまいましょう)
私が一人暮らししてる塔だから夜はやってこないけど、昼間はどこまでも自由勝手に使っている。
どうせなら二人に何か持ってきてあげようと、私は厨房へ行ってみた。
(イナミ叔父さんがステーキの合間にぱくぱく食べてたのって、お漬物と貝の干物とを薄いパン生地で包んだものよね)
漬物といっても、ピクルスとは違うし、浅漬けや高菜漬けみたいなものとも違う。けれども私は、お父さんもよく食べていたそれを夢で知り、試作してみた。
それはかつてディリライトで食べられていた、けれどもいつの間にか作られなくなったお漬物。
きっと風で乾燥させる手順が失敗しやすいからだと思う。気温の高いディリライトでは乾燥と発酵がうまくいかず、腐敗させてしまうから食中毒の危険性があったのかも。
それを乾燥した空気に手伝ってもらって再現させてみた私は、地味に凄いのです。褒めてちょうだい、お父さん。
(えーっと、お漬物を薄切りにして水にさらしてよく絞る。それから貝の干物も刻んで混ぜてしばらくおいてしんなりさせる、と)
たしかイナミ叔父さんは牛肉ステーキと一緒に食べていた。ステーキを少し甘めのソースで食べるからこそ、ちょうどいい箸休めになるみたい。
だけどお父さんや他の人は、そういう食べ方をしない。
ご飯のおかずにしているイナミ叔父さんは、ちょっと変な人だったらしい。
(邸でお肉をもらってきましょ。二人が塔にいるなら厨房も分かってくれてるだろうし)
そうしてもらってきた牛肉をサイコロステーキにして、フライドガーリックと少し甘めのソースを添えて部屋に持っていけば、その食欲を誘う香りで二人の鼻がひくひく動き、かっと目を覚ました。
「肉だなっ」
「肉だっ」
恐るべし、その食欲。
「はい。おやつよ、二人共。私はお菓子だけど」
サイコロステーキをおやつと呼ぶ日が来るとは思わなかったけど、男の子の食欲って凄い。
一日にどれだけ食べるのかしら。
「やったぁっ、肉っ肉っ。腹減ってたんだ。ありがとな、ハールカ」
「いつの間に目ぇ覚めたんだ、ハールカ? 来たら寝てたからウルティードが鼻つまんでたぞ」
「してねえよっ。カシマがやろうとしたのを俺が止めたんじゃねえかっ」
がつがつと食べながら喧嘩する二人は仲がいい。
「へえ? これ、小さなパンかと思ったらなんか酒の肴に良さそうだな。肉によく合う。カシマ、食べないならくれよ」
「俺のを狙うんじゃねえよっ。・・・あ、ホント。これ、お前が作ったのか、ハールカ?」
「うん。見よう見まねだけど。やっぱりお肉に合う? 味見してみたけどちょっとピリッとして塩気もあって辛かったわ。それに二人も、起き抜けにステーキ食べられる人なのね」
ウルティードだけじゃなくカシマも気に入ったようで、分厚いステーキと交互に食べ始めた。
良かったね、イナミ叔父さん。みんなに、
「そんな食い方ありかよ」
って言われてたけど、大丈夫、ここにあなたの味方はいるわ。
「へえ。やっぱりギバティの料理なのか? ディリライトじゃねえよな」
「なんでここでギバティが出てくんだよ、カシマ」
カシマが首を傾げれば、私をディリライト生まれのディリライト育ちと信じているウルティードが突っこむ。
「あのね、とっておきの秘密よ? これはね、この塔に住む幽霊が教えてくれたお料理なの。他の人は知らないんだから」
顔も見たことのない叔父イナミの好物だ。
私は偉そうな態度で教えてあげた。
何と言っても今や絶滅したお漬物なのである。
(他の人はそのお漬物、ちびりちびりとお酒を飲みながらつまむだけなのよね。イナミ叔父さんは薄いパン生地に包んで食べるのが好きなんだけど。そして貝の干物を混ぜるのもイナミ叔父さんのリクエストで始まったんだけど)
きっとイナミ叔父さんも、何代も未来の血族が同じ食べ方をするだなんて思わなかったわよね。
それに全く血縁がないのに、こんなにも賛同してくれる王族がいるなんて予想もしなかったに違いない。
「あのな、ハールカ。とても大事なことを教えてやる。幽霊は飯、食わねえ」
「いいじゃないか、カシマ。きっとこの塔には料理上手な幽霊が暮らしてんだ」
カシマが脱力しても、ウルティードはいつものように目を細めた。
「ふふ。幽霊って言っても、二人と何も変わらないわ。誰もが一生懸命に生きていたの」
呆れられても私は気にしないのだ。
だってこの塔に残っているのは、ディリライトを愛していた人達の日々なのだから。
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ディリライト諸島の中で一番小さい島はロリン島だ。
ロリン島内を管理するディリライト一族のセタナの所へやってきたタイガは、異国の娘がいるという話を聞いた。
「へえ。外国人がこの島まで来るのは珍しいな」
「だろう? 観光でこれからのんびり全島を回るつもりだそうだ。気に入って永住してくれてもいいんだが」
「ってセタナおじ上。既にお喋りした仲かよ」
「勿論だ。うきうきそわそわ、いきなりしゃれっ気が出始めた小僧が多いとあってはな。きちんと目を光らせるのが俺の仕事というものだろう」
「要は美人ってことですね」
タイガはズバッと切りこんだ。
「その通りだ。この島は美人がよく似合う」
セタナは、きりっとした眼差しで大きく頷く。
「おば上に言いつけよう」
「それはやめてくれよぅ、タイガ。あれ程おじちゃん遊んでやったじゃないかぁ」
いきなり弱々しくも情けないセタナだが、人を見る目はあるのだ。
「幼児の恩を持ち出されても。けどなあ、戦の後じゃまだみんな血が昂ぶってるだろ。保護しといた方がいいんじゃないか、おじ上」
「うーん。さっきもパッタリ会ったからそれとなく勧めたんだが断られてなあ。実際、手を出そうとした奴が痛い目を見ちゃいるんだ」
「は? ・・・手を出そうとした男が痛い目見たなら、その女、普通じゃないってことだろ? 俺は治安を嘆くべきなのか? それとも怪しい女に甘いおじ上を嘆くべきなのか?」
「いいか、タイガ」
けれどもセタナは重々しく言った。
「綺麗な娘は世界の宝だ」
「・・・うわぁ」
とはいえ、そういうこととなれば顔を見たくなるのが人情である。
赤い石を嵌めこんだ額飾りはとても目立つ。間者ならば食いついてくることだろう。
散策しながら土産物を買ったり、浜辺で波と戯れていると聞き、タイガはその娘を見に行ってみることにした。
ロリン島でも波が強く打ち寄せる岸壁は、鋭く尖った岩ばかりだ。舟もつけられないその場所で、淡い金髪にも銀髪にも見える白い肌の娘は平然と立っていた。
大きな波が岩に押し寄せては大破して白いしぶきを撒き散らす。その中にあって、今にも海に引き摺りこまれそうだ。
「おいっ、危ないだろうっ。波の力を甘く見るなっ」
見惚れたのは一瞬。
タイガは、あまり波がぶつからない岩の隙間を縫って娘へと近寄ろうとした。
「あら。今度は違う人が来たの? ここなら静かに海を見ていられると思ったのに」
タイガよりも年若い娘なのに、まるでやんちゃな子供に手を焼いているかのような口調である。
(まるで夕焼けに照らされた真珠のような娘だ。なんて愛らしくも気高いんだろう)
その言葉を発した夕焼け色の瞳の持ち主に、タイガは心臓を射抜かれたような気がした。
「い、いいからっ。本当にそこは危ないんだっ。滑っても、岩で切ってもとんでもないことになるっ。早くこっちに来いっ」
「しょうがないわねぇ」
タイガが伸ばした腕に掴まることもなく、娘は濡れた岩場で滑ることもなく、更には尖った岩で手を切ることもなく、安全な場所へと戻り始める。
「はいはい、あなたもそこにいたら危ないわよ」
タイガの横をするっと通り抜ける際に、ふわりと花の香りがタイガの鼻孔を掠めていった。
そうして草が生えている地面までやってくると、タイガを先導するかのように歩いていた娘は振り返る。
「さ、これでいいでしょ? もう危なくないわ。だから心配しないでおうちへお帰りなさい」
「いや、危ないのはあなただろう。こんな人気のない場所で一人だなんて、誰かに襲われたらどうするんだ。それとも自殺でもするつもりか」
悲鳴をあげたところで誰も気づかない場所だ。
波が静かな浜辺ならばともかく、こんな場所で襲われて海に放りこまれでもしたらと、タイガの言葉も説教くさくなった。
「あら、襲われるってあなたに?」
「心外だ。ところで、どちらから?」
からかうような声をもっと聞いていたいと思い、ついタイガは話を続ける。
見惚れたのはその美しさより、表情の中に見え隠れする彼女の内面だったかもしれない。
「どこからでもないわ。私は、旅から旅へと流れる雲の放浪者なの」
風になびく髪はオレンジ色のリボンでまとめられていた。太陽の光を受けて淡い金や銀の輪が浮かび上がるものだから、かなり手入れがされていると分かる。
ディリライトならではのフード付きワンピースドレスは、白地に大胆な赤い花が描かれていた。
「俺はタイガ。ディリライト島に住んでる。名前を教えてくれるかい?」
「シアよ。ディリライト島なら最後に行くつもりだったわ。縁があればまた会えるかもしれないわね」
そのまま立ち去ろうとして立ち止まる。
風に飛ばされてきた蝶を、そっと服の袖で保護してあげた彼女の動きをタイガは見逃さなかった。
「これでも島には詳しい。観光なら俺が案内するけど?」
しなやかな動きで、タイガはシアと名乗った娘の斜め前へと移動する。
「そう言って物陰や家の中に連れこもうとされた件数、聞きたい? 正直、男の下心には飽き飽きしてるの」
「・・・すまない。そんなことがあったとは。いくら美人でも、いや、それに関係なくあってはならないことだ。申し訳なかった」
タイガは潔く謝った。
「あなたが謝ることじゃないわ」
「いや。・・・もし、男が恐ろしくなったというのであれば、明るく楽しい女性を案内につけよう。お詫びの気持ちとして」
「必要ないわよ。それに恐ろしくもなかったわ」
やはり間者だろうか。けれども腕に覚えがあるようにはとても見えない細い腕、華奢な体つきだ。
タイガがそんなことを考えている間に、シアと名乗った娘は去ろうとする。
そこで見失ったら二度と会えないような気がした。
「待ってくれっ」
「・・・なあに?」
振り返る夕焼け色の瞳を、ずっと見ていたい。
「シア。俺はどうやら君に一目惚れしたようだ。ここで別れたくないって、この心が叫んでる。きっと君を見失ったら俺の残りの人生、全てが後悔で真っ黒に埋め尽くされるだろう。
だから頼む。もし、君に俺を哀れだと思う気持ちが少しでも、そう、砂の一粒程もあるなら、せめてこの島を案内させてくれないか?
絶対に無体な真似はしないし、誰にもさせない。この世界を育んでおられる愛の女神シアラスティネル様に誓おう。君だって愛を司る女神様を信仰する民の一人。愛の海で溺れかけている哀れな男の命を、君は愛の信者として助ける義務があると思うんだ」
「・・・そう来るとは。なんて斬新なアプローチ」
何だかなぁという顔で、シアの瞳が泳いだ。
尚、愛を司る女神の姿は誰も知らない。神殿にあるご神体というものが、女神様の愛を表していると伝えられていた。
「しょうがないわね。なら、この島の観光案内をお願いするわ」
「やったっ」
苦笑したシアの見上げてくるオレンジの瞳に胸を高鳴らせたタイガは、感動のあまりに抱きしめる。
そして腹に一発ドスンッと、いいパンチを食らった。
= - = - ☆ - = - =
寂しがり屋で優しいヴィゴラス。グリフォンという種族の彼は、私に懐いてしまった可愛い男の子だ。
そんなヴィゴラスの為に、歪んだ真珠と金の粒に糸を通して素敵な暖簾を作ってあげようとしたら、制作途中でぽてっと寝てしまっていた。
暖簾を説明しきれず壁飾りとなっていたりもするけど、これはなかなかの大作なのです。
ヴィゴラス、きっとクルルル、キュルルルって、嬉しくなって鳴いちゃうわね。
(お父さん。出会いの時からお母さんに負けてたのね。ついでにお父さん、愛の海で溺死する前にお母さんまで引き摺りこんでない?)
眠い目をこすって欠伸をすれば、もうすぐ日が沈みそう。
となると、そろそろディリライト邸にご飯を食べに行く用意をしなくては。
出しっぱなしだった針を箱の中に仕舞い、私はお湯を浴びることにした。
気温の高いディリライトだけに、朝と夕方に入浴の準備がされる。ご飯の前に汗を流し、さっぱりした気分で食卓につく方が美味しいのだ。
「ハールカ様、入浴の準備ができました。さあ、先にレモン入りのお水を飲んでくださいな。思ったよりも汗はかくものですもの。カナンが、いつもより短い袖の方がいいんじゃないかって言ってたのですわ」
「今日はまだ気温が高いですもの。涼しい服の方がいいと思いません? ただ、またウルティード様に引っ張られてお星様を見に行くようなら、少し長袖がいいでしょうけど」
今日のお世話係はメイラさんとカナンさんらしい。
二人は、開きっぱなしの扉からひょいっと顔を出した。
「今日はちょっと暑いもの。お湯を沸かすのも大変だったでしょ。ウルティードはね、今夜はカシマとカードゲームする予定の筈よ」
「まあ、ハールカ様ったら。かえってこちらの塔はお一人だけですからそうでもありませんのよ。本邸なんて人が多いから沸かす熱気も凄いんですもの」
「そうですわ。だけどそれならハールカ様もお部屋でカードゲームに引っ張りこまれそうですわね。胸元があまり開いていないものにしますわ。男はみんな野獣ですのよ。気をつけてくださいませね」
「ふふ、そうね」
そこで私は、カナンさんの耳に輝く青みを帯びた真珠に気づく。
耳に沿う形で掛けられている銀のイヤーフック。そこに小さな鎖でとりつけられた青っぽい真珠がゆらゆらしていた。
なんかとっても照れ屋さんな耳飾り。
「素敵な真珠。もしかして恋人に贈ってもらったの? なんだか愛がこもってる」
「あ、あら。え、そんなんじゃなくて、ただ、ちょっとしたお礼にもらったんです。これなら派手じゃありませんし」
真っ赤になるカナンさんを横目で確認したメイラさんが、くすっと笑った。
おお。どうやらメイラさんはカナンさんの背中を押したいようだ。
「ずっとトーカイったらカナンのこと好きだったのに、なかなか告白しませんでしたの。だけどやっと想いが通じたみたいですわ」
「そんなんじゃないったらっ」
「まあ、素敵ね。本当は愛を告げる赤みを帯びた真珠を贈りたかったのに、だけど受け取ってもらえなかったらどうしよう、断られたら切ないって悩みに悩んで、赤みを帯びた真珠を薄い青色で染めてもらったなんて。
薄い青を帯びた真珠は『あなたのことを尊敬してます』よね?
だけどそう見せかけて実は『あなたを愛してます』なんだわ」
照れ屋でなかなか自分の気持ちを伝えられないトーカイさんの不器用さを、なんと悪辣な私は暴露してしまったのです。
お母さん、見てください。私ってばこんなにも愛の女神の娘として成長したのです。
あ。あらあらまあまあと、メイラさんが目をにんまりさせている。
きっとこれは、後でかなりからかわれちゃうぞ、カナンさん。
うふふふふ。今夜はトーカイさんのこと、少しは考えてあげてね。だってカナンさん、トーカイさんのこと、嫌いじゃないでしょ?
(うーん。トーカイさんの悩みに悩んだ小細工ぶりと、
『これっ、似合うと思ったしっ。こないだ、うちの手伝いしてもらった礼だっ』
な、ツンツンぶり。だけど男の人なんてそんなものよね。誰だってストレートに言うの、勇気がいるんだわ。・・・なのにどうしてお父さん、初対面から直球勝負なの)
耳まで赤くなったカナンさんを残し、私はてくてくと浴室へ向かうのです。
だけどカナンさん。仕返し代わりにちょっと胸元の開いた服を用意するのはやめてほしいの。
= - = - ☆ - = - =
ディリライト諸島の中でも一番小さなロリン島。
タイガは日暮れまで、シアと名乗った娘にロリン島の綺麗な景色やちょっと変わった現地の味覚を案内した。
「なっ、何これ。黒くてグログロ。絡まった髪の毛?」
「凄いだろ? 海藻なんだが、この味つけがロリン島ならではなのさ。勇気を出して食べてごらん」
よく水死体の髪と間違えられたりもするんだけどねと、続けるタイガにデリカシーはない。
「ん。・・・あら、甘い」
「ね? この甘さってのが、ロリン島に咲く花を集めるミツバチしか作れない味なんだ。よそだともっとくどい甘さになる。それもそれで俺は嫌いじゃないんだが、ロリンの奴らはこの繊細な味はここだけだって豪語するんだ」
「まあ」
タイガが連れていった店はどれもロリン島では美味しいと評判の店ばかりだった。
「女の子の一人旅だからさ、ここが一番かと思って。よく客が目ぇつけた客室襲うってある話だし」
「大丈夫よ。うち、そこはしっかりしてるもの。安心して泊まってちょうだいね、お嬢さん」
「お世話になります」
セタナの姉が経営している宿をシアに紹介して送り届けた後は、物見の塔に戻って皆の報告を聞き、その後、タイガは一人で舟を使ってロリン島へと上陸する。
そうして宿から少し離れた野原で、タイガは持ってきた30弦竪琴を爪弾き始めた。
シャーラララ、サララ、ラーララリン、ファラララ、リーン、ラリリリーラ、・・・。
風の中に混じる程度にしか、竪琴の音は聞こえないだろう。
幅広い音域を出せて膝の上にのるサイズだから、タイガはこの竪琴を愛用していた。
(なかなかの奏者ね。さすがディリライトの若君というべきかしら。眠りに誘うような小さな音だけど、これは聴く価値がありそう)
少し開けた窓から入りこんでくる美しい音色。
宿まで紹介されてしまっては聖地へ帰るに帰れなかったシアだが、せっかくだからと窓辺に座って楽しむことにする。
(困ったわ。一目惚れされるのは初めてじゃないけど。だけど普通は何かしてあげたら、ある程度の好意のお返しを期待するのに、全く期待してないわね。・・・しかし約束だけはしっかり取り付けるところがたくましいこと)
愛の女神は恋愛の女神という意味ではないのだが、なんというおねだり文句なのか。
――― 君だって愛を司る女神様を信仰する民の一人。愛の海で溺れかけている哀れな男の命を、君は愛の信者として助ける義務があると思うんだ。
思い出せば噴き出してしまう。
シアは風で掠れる筈の音色をまっすぐ窓まで届けさせ、タイガが心安らぐものをと選んだ曲を聴いていた。
ディリライト邸内の海辺にある物見の塔はとても高く、かなり遠くまで見える。
各島から上がる狼煙を見て、タイガは攻めてくる船の方角を知った。
物見の塔の近くにある隠し港へと向かえば、そこには頑丈な軍船が二隻控えている。
「おいっ、砥石貸してくれっ」
「そっちの戦斧の方がいい感じじゃねえ?」
「チッ、糸が切れたっ。誰か縫ってくれよっ」
「おーい、誰の仕事だあっ。これ、油が浸みこんでねえじゃねえかっ」
「なぁに言ってんだ。船を壊すなら、こっちの戦鎚よ」
「そっちのロープ、もっと舟に積めっ」
頑丈な実用性重視の鎧や手甲等を身につけた島民達が、何度も武器の確認をしては武者震いをしているようだ。
「あ、タイガ様だ」
「おい。タイガ様、来られたぞ」
彼らの目が、煌めく宝石が嵌めこまれた黄金の額飾りをつけたタイガへと向けられた。
「よっ、景気はどうだ?」
派手な額飾りばかりか、黄金の半手甲や脚絆、更には鱗状金具の鎧といった黄金尽くしのタイガは荘厳もしくは壮麗としか言いようのない美丈夫だが、右手を軽く挙げて口を開けばそんなものだ。
「ぶっ」
「ぶふぉっ」
「ははっ」
一気に皆の緊張が抜けて、どっと笑いが起こった。
鬼気迫る様相で最終確認していた彼らもゲラゲラ笑い出さずにはいられない。
「そりゃあ勿論っ、上々ですよっ」
「ははっ、タイガ様は相変わらずだなぁ」
「ここは格好良く決めてくれなきゃよお」
「景気はどうだはないでしょうよ」
ブーイングが起きても気にしないのがタイガだ。
どわっはっはっはと、大笑する彼らの中にあって右手を軽く挙げたままというちょっと情けない格好でも、にっと笑って皆を見渡した。
「さあ、行くぞっ!! ここで派手にぶちかましたら、またうちの儲けが増えるっ! 安心しろっ、敵の注目は俺が引きつけてやるからなっ! ディリライトの富を誰が野良犬共にくれてやるかっ!!」
「おおーっ」
「そうだぁーっ」
「おおうっ」
わあああっと、歓声が上がる。
カンカンカンカンと、銅鑼の音が響き、皆が所定の位置に、そしてタイガも一番大きな船の甲板へと向かった。
「タイガ様。どうやらルベリス・フィオサ連合軍のようです。予想の倍は来ているかと」
思ったよりも敵船の数が多いことに皆にも緊張が走っているようだが、軍船はこれだけではない。他の島にも待機している。
だからタイガは不敵に笑った。
「つまり数ヶ国に渡って俺達に惨敗したことが報告されるわけだ。・・・さあ、行くぞっ! ディリライトはディリライトのものだっ!!」
「「「おおうっ!!!」」」
一番派手な軍船に乗るとはいえ、タイガが乗る船は決して見栄えだけではない。
戦場で一番目立ち、輝き、それでいて不敗でなくてはならないのだから。
(だけど俺、ほとんど囮なんだよなぁ。いっけどさ。さて、これからの風は荒れる。このディリライト水軍をディリライトで相手にする意味を思い知らせてやろう)
そんなことをタイガは思った。
= - = - ☆ - = - =
チュンチュンッ、ピピピピッ、ピーヒョロロ、チチチッと、様々な鳥の声。
いくら朝だからって、今日はどうしてこんなに鳥さん、元気なのかしら。
ああ、私、窓を開けっぱなしで寝ちゃってたのね。
(お父さん。外国人は全員強制退去させといて、お母さんは構いませんよって、思いっきり駄目じゃない。だから真琴が自分の感情優先でルールを破る子になっちゃったのよ。しかもそれに協力してるディリライト一族って美人に弱いの? それってハニートラップに引っ掛かる一族ってこと? お母さん、さりげなく強制退去組に入ろうとしてたのに入れなかったのね)
普通の人間を装っていたが為に足止めされてしまったお母さん。
お父さんの贔屓っぷりが凄まじすぎる。
寝汗を浴室で洗い流し、サマードレスに着替えてディリライト邸まで行けば、ケイファスト王子と一緒に貸別荘へと移った筈のウルティードがいた。
「おはよう、ウルティード。もしかしてカシマの所に泊まってたの?」
「おはよ、ハールカ。じゃなくてさ、早朝訓練に参加してきたんだよ。あー、腹減った。カシマってばひどいんだぜ。魚の卵、まずいのを俺に食わそうとしたんだ」
「結局それ、ウルティードが俺のと勝手に交換してたじゃねえかっ。おかげで俺、あんなまずい卵、食う羽目になったんだからなっ。陰険ウルティードッ」
「黙って美味い方を食おうとしてたお前が悪いんだろっ。腹黒カシマッ」
「ウルティード、あれに参加したの? よくお兄さんが許したわね、危険なのに。だけどそういう現地でご飯を確保するのも大事なのよね。大丈夫よ、二人共。きっと美味しい鶏さんの卵が今から出てくると思うの。やっぱりゆで卵かしら。それとも炒め卵かしら」
そこへタイキとケイトがやってくる。
タイキなんて濡れた髪を拭きながらだ。お行儀悪いけど、きっとタイキもお腹ペコペコなのね。
「おはよう、ハールカ。そこの二人は放っといていい。もう生存確保訓練どころか、二人まとめて海に放りこみたかったぐらいだ」
「本当にね。おはよう、ハールカ。今度からこの二人は陽動用の囮に使おうって、タイキ兄様とも話してたのよ。全くもう」
「おはよう、タイキ、ケイト。だけどちゃんとお魚捕まえられたんでしょ? 凄いわ。私なんてお魚に気づいたと思ったらもういなくなってるもの」
私、早朝訓練は丁重に辞退させていただいたのだ。
全力で辞退させていただいたのだ。
完全辞退させていただいたのだ。
だって海の生き物って、不気味で怖いのが多いし。
ディリライト諸島では定期的に軍事訓練が行われる。島民全てが参加するのだ。
観光客や病人は免除されるらしいが、これだから戦う島民なのだと思う。
(良かった。私、お魚さんの生血とか飲まされたりしたらとっても悲しくなってたわ)
ほっとしてたら、ニヤッとカシマが意地悪く笑った。
「な、何なの」
これは絶対変なこと考えてる。
とても勘のいい私は後ずさった。
「ふっふっふ。訓練を逃げやがったハールカにはお土産だぁっ! ウミガメ肉っ。さあ、水槽に入れた小さくて可愛いカメ達を見ながらカメ料理を昼には食わせてやるからなっ。安心しろっ。俺の捌き方説明付きだっ」
「いやああーっ。カシマのいじめっ子ぉっ」
ディリライト島に来て、牛さんや豚さんが吊るされているのを見ながら平気で買い物できるようになったと思ったらカシマはこんなことを言い出す。
(もう、カシマには美味しいお菓子出したげないっ)
慌ててタイキの後ろに逃げたけど、今日のお昼にはおじ様の傍にいよう。
「ハールカを苛めるなよ、カシマ。大丈夫だ、ハールカ。そんなら今日の昼は市場に食いに行こうぜ」
「うん。だけどウルティード。お兄さん、待ってるんじゃないかしら」
「兄上も連れてきゃいいだろ。あの黒髪ウジャウジャ海藻、兄上にも食べさせてやりたいしさ」
「そう、ね?」
キマリー国の王太子であるケイファスト王子は、王宮で育ったお上品な王子だ。あんな場所でそれを口にする勇気があるだろうか。
ちらっと見れば、ケイトが馬鹿にした表情で首を横に振っている。
(もしかしたら私がキマリー国の貸別荘に行ってお昼をご馳走になった方がいいのかも)
黒髪がウジャウジャしてるようにしか見えないモノを食べるなんて、誰だって躊躇うと思う。私だって、初めて見た時は、ゴミが小鉢に盛られてるってびっくりしたぐらいだもの。
ウルティードはケイファスト王子が大好きみたいだけど、相互理解は全く進んでない気がする。
= - = - ☆ - = - =
普通の国において、兵士と一般市民とは別の存在だ。
けれどもディリライト諸島では違う。島に住む女性達ですら、海に潜り、肺活量も鍛えられているのだ。
何より戦において負けたらどんな日々が待つのかを十分に教育されていた。
ゆえにディリライト諸島において、少年少女から老爺老婆に至るまでそれなりの軍事訓練はされている。
日頃はのんびりとした穏やかな島民でありながら、有事の際には誰もが武器を持って戦うのだ。
「シーネちゃんっ。ちゃんと笛は持ってるかいっ?」
「任せて、小母さんっ。トカイ達との見回り、ちゃんと五人以上で行くからっ」
「外国人を見つけたらすぐに吹くんだよっ! 長く一回だからねっ」
「はーいっ」
男達が船に乗って戦いへと出向こうとも、島には女達という見回り兵が存在した。
そして肺活量に自信がある者達は、敵船の船首や船尾の真下といった部分に取りつき、そこに穴を開けて油を浸みこませた縄などを先に仕込むのだ。それは夜になってから一気に燃え盛ることとなる。
『ちょうど食事時らしいわ。かなり人が減った様子よ』
『なら、船首像のあたりにも仕込んどこうぜ』
『先にあっちに潜っていって、引っ掛けておくわね』
『横腹なんざがら空きじゃねえか。ついでに打ちこんどくか』
勿論、船首や船尾の真下は傾斜がある為に気づかれにくいからなのだが、ディリライトの民はたくましい。気づかれないと思えば、しれっと他の部分にも油を浸みこませた縄を設置して回った。
『ちょっとあの樽、細工してくらぁ』
『見つかるなよ』
『んなヘマするかい』
ディリライト諸島周辺の満潮や干潮、時間ごとによって変わる潮の流れを知っていればこそである。
潮流や季節ごとの風といった情報もディリライト邸では全て管理されており、ゆえに無敗を誇っていた。
「そろそろ風が変わる。第1から第5は左翼に広がってあの横っ腹を引っ叩いてやれ。第9と第10はそれを待ち受けて軽い挨拶だ」
「はい」
タイガの指揮を受けて、それぞれの船が広がっていく。このディリライト諸島で、上手に風を読んで帆船を操る手腕はディリライト水軍ならではだ。
けれどもタイガの額に輝いていたのは、今まで使っていた赤い大きな宝石が嵌めこまれた額飾りではない。
夕焼けを思わせる橙色の宝石が嵌めこまれた、黄金の額飾りだった。
ディリライト邸の敷地内にある、海辺に立つ塔。
そこに案内されたシアは、最上階の部屋からの眺めに感心する。
今日の彼女は、紺色の地に白い模様が入ったサマードレスを身につけていた。長い髪を編みこんで一つにまとめているものだから、とても落ち着いて見える。
「本当にここからだとよく見えるのね。名前のない無人島にしても、ここから見れば十分に意味があるって分かるわ。天然の要塞ってこのことかしら。浅瀬と岩石がうまく組み合わさっている。何より素敵なのはこの景色だけど」
大きな窓からの風を受けて、シアはその景色に感心した。
ここからだと海の深さが、青の濃淡でよく分かるのだ。
「へえ? それに気づくなんて、やっぱりシアは賢いな。だけどこの長い階段を上がった甲斐があっただろ? この景色だけはどこにも負けない。まあ、いつでも俺が抱きかかえるつもりはあったけどね」
「なんだか放してくれなくなりそうだから遠慮しておくわ」
疲れた声になるシアだが、タイガはとてもご機嫌だ。
彼の私室でもあるその最上階はきちんと片づけられ、様々な本が棚に並んでいる。壁にはあちこちの地図が貼られ、海流図までそこにはあった。
「あのね、タイガ。こういうところに他人を連れこむものじゃないわ。こういうのが流出したらどうする気なの」
「他人を連れこんだ覚えはないけど?」
「私がこういうのを持ち出してどこかの国に渡したらどうなると思う?」
「ディリライトが火の海になるかもね」
さらりと異国の娘を連れこんだディリライト人は言いきる。
そして人好きのする笑顔でシアの頬に手を当てた。
「だけど君はしないよ。そうだろう?」
「そう思った相手に裏切られて、どれだけの人達が死んでいったかしら」
「さあ。不幸な事例だったね。だけど君は、君の物を火の海にはしないさ」
タイガは机の引き出しから円環タイプの額飾りを取り出した。その中央には大きな赤い宝石が嵌められている。
「シア。これを受け取ってほしい。この額飾りは、この塔の主人が持つものなんだ。大丈夫、君の頭の大きさに合わせて作り直したから」
「タイガ。さりげなく人の頭のサイズを測り終えてるところが怖いんだけど」
タイガはそっと黄金づくりの額飾りをシアの頭に載せた。
「やっぱりよく似合う。ねえ、シア。俺はこのディリライトを守る為、いつだって戦わなければならない。だけど君に危険なんて近づけさせない。それは約束する。だからその額飾りをつけてこの島で俺を待っていてくれないか?
たとえあのフレイムという男だろうが誰だろうが、どれだけの男達が君の美しさに血迷ったとしても、俺はその全てを打ち負かしてみせる。君が俺を待っててくれるなら」
「タイガ。あのフレイムは本当に恋人じゃなくて、・・・親戚のお兄さんなんだけど」
ディリライトの聖地からシアを迎えに来てくれた赤の守り人。シアは彼を火炎と呼んでいた。
『いい加減に外泊続きが過ぎるだろう。この不良娘』
『帰れなかっただけなのよ。だけどフレイム。私を迎えに来たの? お酒を買いに来たの?』
『酒だが? あまりにも口うるさい親は嫌われるからな』
けれどもタイガは、彼とシアとが一緒に仲良く買い物をしていたのを見て以来、ライバル視が激しすぎる。
「いや、彼の瞳には君への愛があった」
「そりゃ愛はあるでしょうけど、家族愛なのよ」
タイガの嫉妬を知って以来、フレイムは面白がって挑発しまくりだ。
「そういうことにしておいてもいいけど。それを受け取ってくれたら信じるよ」
「タイガ」
「シア。その額飾りをつけた君ごと、俺はこのディリライトを守りたい。ディリライトの男達は真珠に託して愛を告げる。だけど俺は真珠ではなく、南の海に浮かぶ真珠とも譬えられるディリライトを君に贈ろう。愛の証に、俺が守るこのディリライトという名の真珠を受け取ってくれ」
「大きすぎるんだけど。愛の贈り物ならせいぜい真珠一粒で良かったわ、私。・・・だけどタイガ。受け取れないの。気持ちは嬉しいけれど」
「どうして?」
互いに惹かれているのは分かっていた。
いい加減に別れを告げなくてはと思いながらも、ずるずると会い続けていたけれど。
「私は、・・・ここにはずっといられないから」
「じゃあ、どこならいられるんだ?」
「私は雲の放浪者なのよ、タイガ」
「その雲が休む塔はここにあるよ、シア」
シアを優しく抱きしめてくるタイガは、彼女が何を言おうと受け入れる気なのだろう。
だから言えない。
「タイガ」
「君を愛してるんだ。全てはそれだけなんだよ」
その心を知っているから、何も言えないのに。
= - = - ☆ - = - =
頭を撫でられている感触で目を覚ましたら、そこにはウルティードとケイトがいた。
「良かった。熱はないな、ハールカ」
ほっとしたような顔のウルティードは、今も私の病弱設定を信じている。
ああ、お母さん。私にも分かってしまいました。人間、一度、嘘をついてしまったらなかなか訂正できなくなるものなんですね。
お母さんがお父さんに普通の人間を装った後、訂正できずにずるずる深みにはまっていった気持ちがよく分かります。
「なんか少し寝苦しそうだったけど。今日は別に気温も高くもなければ低くもないし・・・。食べ過ぎちゃったの、ハールカ?」
「んー。なんか、これから壮大な追いかけっこが始まりますって夢を見ちゃったの」
「壮大な追いかけっこ?」
ケイトが不思議そうに訊き返してくる。
「そうなの。鬼ごっこの鬼をタッチして、さようならーって、手の届かない所へ逃げたと思ってたら、全ての障害を乗り越えて追いかけてくる鬼が生まれるのよ。鬼を鬼にしちゃいけなかったのよ」
「うーん。ハールカが魘されていたわけだわ。走るの苦手だものね。大丈夫よ、ハールカ。走る練習したら、いずれ自信も生まれるわ」
「・・・それは嫌」
ケイト達のかけっこ訓練に参加したらお腹痛くなっちゃうし、次の日は筋肉痛だし、とても苦しくて痛いだけなんだもの。
「大丈夫さ、ハールカ。ケイト姫がいりゃあハールカ一人、十分に守ってもらえるって。めっちゃ凄かった。俺、カシマにけっこう鍛えられたつもりだったけど瞬殺されるかと思ったぜ」
「ふふ。そこでケイトに負けたって清々しく言えるのってウルティードくらいよね。普通の人なら女性に負けたって、かえってケイトを罵りそうなのに」
「なんでケイト姫を俺が罵らにゃならんのさ。尊敬はすっけどな。さ、ハールカ。今日は蝶を見に行く約束だ。行こうぜ」
「うん」
ウルティードは良くも悪くも正直だ。
当たり前のことを口にしただけで、今も別にケイトを褒めたつもりはない。何故ならその為にケイトがどれだけ努力してきたかを分かっているから。
その手に自分の手を重ねて立ち上がれば、ウルティードの手から優しい気持ちが流れこんできた。
(ごめんなさい、ウルティード。私がお兄さんからの求婚、断ったの聞いちゃったのね。体の弱い私が身を恥じて引いたことになっちゃってるけど)
それでも彼の態度は変わらない。
だから私もいつもみたいに笑ってみせる。
ああ、お父さん。私も男を惑わせる悪女になってしまいました。
= - = - ☆ - = - =
ディリライト首長レキサは、淡い金髪をした異国の娘が兄を連れて面会に訪れたと聞き、二人を待たせてあるという部屋に向かった。
念の為、妻であるアベリアも同行させる。
何故なら女を見抜くならやはり女の目が必要だからだ。
「あなた。その娘なんでしょう? タイガが入れこんでいるとかいう外国人。兄を同伴って言うけれど、本当に兄妹かしら。一体どんな仲なの。ほとんど恋人同士にしか見えないって聞いたけど。何よりどこの国の出身かすら明かしていないと聞いたわ」
「ああ。タイガも全く何を考えておるのか。結婚もしていない娘にあの額飾りをくれてやったとは」
長男であるタイガがいきなり一人の娘を追いかけはじめた。それは、次男であるシュナン、三男のイナミも驚くしかない惚れこみようだったという。
だが、その娘と会った他のディリライト一族によると、身元不明なこと以外はなかなか楽しく賢い娘だったそうだ。
けれども家宝と言ってもいい額飾りを、まだ恋人でしかない相手に与えたとあっては、あまりの愚かさに親として怒髪、天を衝く事態だ。
そうして待たせてある部屋に入れば、その娘は下座に用意された席に座ることなく、窓辺に立って外を見ていた。
寄り添う兄とやらもかなり筋骨たくましい。
(なんと。これは男が惚れそうな男だな。赤や金が混じった橙色の髪、不思議な黒の瞳。何より、こいつは強そうだ。覇気が凄まじい)
二人が立っている様子は、恋人同士にしか見えなかった。
「待たせたようだな。ディリライトで首長をしている。そして妻のアベリアだ」
「シアと呼んでくれます? 彼はフレイム。今日はちょっと用があって参りましたの」
金にも銀にも見えるその淡い髪は、複雑に結い上げられている。
娘が身につけているドレスは異国的だった。だが、様々な国の衣装を見知っているレキサにも見覚えはない。
フレイムとシアは、見たこともないシルクの衣裳を身につけていたのだ。
体に沿っているかのような前ボタン式の赤い上着は太腿あたりまで。その下のスカートやズボンは純白で、お揃いな格好だけに兄妹というよりも恋人同士にしか見えない。
「用とは? まあ、座りたまえ」
「用事はすぐすみますわ。これを息子さんに返しておいてください。お父様からなら諦めて受け取ってくれるでしょう?」
レキサ、そしてアベリアの前にある机に置かれたのは、女物へと作り直されたディリライトの家宝。赤い宝石が嵌めこまれた額飾りだった。
それは代々のディリライト首長の跡継ぎが身につけてきたものだ。
「これを返すと?」
「ええ。ディリライト首長の妻にはなれないから返すと、彼にそう伝えてください。タイガにはちゃんと言ったのですけど、聞く耳を持ってくれなくて。ついでにさようならと。それでは失礼しますわね」
この額飾りがどこの馬の骨とも知れぬ娘に贈られたと聞いて憤っていたレキサとアベリアだが、こうもあっさりと返しに来られるとさすがに面食らう。
「いや、ちょっと待ってくれ。何故、ディリライト首長の妻になれないというのだ。そりゃ君はどこの誰かも分からないという話だったが、ここはディリライトだ。他の国とは違う。何より別れを告げるならば本人同士で行うべきだろう。それとも、そこの彼が恋人なのかね?」
「そうよ、あなた。たしかシアさんというお名前なのよね? この額飾りはともかく、いきなりいなくなられても困るわ。それこそ私達があなたをどこかに追いやったと思われるじゃないの。何か息子のことで気に入らないことがあったの? そりゃ、そこの方が恋人なら仕方ないけど」
ここでいきなりタイガが贈った額飾りが戻されて、そして贈られた娘が姿を消そうものなら、タイガに疑われるのは親の自分達だ。
殺したのではないかと長男に疑われた日にはどうなることか。
レキサとアベリアも蒼白になる。
何故ならタイガが子供の頃に拾ってきた犬らしき動物があまりにも危険だったものだから捨てに行ったのだが、勝手に捨てられたと知ったタイガは、レキサが大切にしていた思い出の品とアベリアが一番気に入っていた首飾りを壊したのだ。しかもそれは誰もタイガが壊すところなど見ていない。
タイガを怒らせると、彼は警告なしに動くのである。
「おいおい。俺が恋人って? それもいいか。なあ、シア?」
「引っ掻き回さないでちょうだい、フレイム。あなた、ずっと面白がってるでしょ」
「なんの。俺の存在を見るや否や、こんなの贈って求婚したとあってはな。なかなか情熱的な坊やじゃないか。ここは言ってみるべきかねえ。うちの娘が欲しけりゃ俺を倒してけって」
「そんなこと言ってたら永遠に私、独身じゃないのよ」
そんなことを小さく言い合っている二人はとても仲がいいようだが、レキサは何故他のディリライト一族がこの娘に好意的だったかを悟った。
(そうだ。この娘、全く媚びておらぬ。さっきから椅子に座らぬのも、我らの下座に着く必要はないと判断したからだ。それが身についている娘。一体、その素性は・・・)
たしかに飾りこそつけていないが、この二人の衣装はかなり上質なものだ。
いや、ディリライト諸島で観光していた時は、そこらの島民と同じような衣服だったと聞く。
けれども・・・。
ちらりと横のアベリアを見れば、小さく頷く。
「シア殿。この額飾りは代々のディリライトの跡継ぎが身につけていたものだ。そしてディリライトを守る防衛の塔の主人を意味する。・・・拙速な判断を下さず、考えてみてもいいのではないかな?」
「父親ならば怪しげな女に引っ掛かった息子を叱り飛ばすべきですわ。ねえ、フレイム?」
「さてな。まあ、見る目はある若僧だろう。自分が持っている中で一番価値があると思ったものを差し出してきたのは合格か。だが、これでシアをディリライトに縛りつけられると思ったところは甘かった。若い者はなかなかに気恥ずかしい。青春だな」
面白そうに笑うフレイムにとってはどこまでも娯楽でしかないようだ。
「もういいわ。あなたに期待した私が馬鹿だったのよ。言っておくけどタイガはタイガなりにちゃんと考えて渡してきたの。その気持ちまでは否定しないでちょうだい。・・・ディリライトの首長殿。私はこの島だけではなく誰にも嫁ぐことなどできないわ。タイガにそう伝えてください。そして本当に好きになれる相手と新しい恋をするようにと」
そこで迷いながらもアベリアが口を開いた。
「あの、・・・シアさん? もしかしてあなた、どこかの王女様だったりするのかしら? 女王になるとかいうのなら、それも納得できるのだけど」
ぷっとフレイムが噴き出す。
「女の勘は鋭いもんだ。中らずと雖も遠からずだな」
「引っ掻き回さないでって言ったでしょ、フレイム」
「だがなあ、そこの首長夫妻の身にもなってやれよ、シア。あれだけ恋に狂った息子だぞ? はっきりした理由も分からずに求婚した相手に去られたら、誰かに害されて海に放りこまれたんじゃないかと、騒動を引き起こすことは想像に難くない。男の恋心を諦めさせたいなら完膚なきまでに潰してやらんと」
「もうっ。・・・しょうがないわね」
けれどもそれはもう分かっていたことだった。
タイガは諦めない。シアにも分かっている。
「首長殿。私、あなたより年上なのです」
「は?」
「このフレイムもそうですけど、私達、人間じゃありません。それで理由になるかしら?」
そこでアベリアが夫に向かって尋ねた。
「それなら、・・・あの子も納得するかしら」
「するわけなかろう。タイガだぞ? 自分より年上? それでもこの若々しさだ。つまりタイガが年老いて死ぬ時にも若く美しいままではないか。それのどこがあいつにとって障害になるというのだ。気にする息子か」
レキサの言葉に、フレイムはぷーっと噴き出す。
「だとよ。良かったな、シア。自分の祖母さんより年上でも気にしないそうだ」
「うるさいわね、黙っててちょうだい」
あまりにも純粋な、恋焦がれる瞳。だから絆されてこの日々を重ねていたけれど。
それでも別れた方がいいのだと、シアは言うしかなかった。
「仕方がないわ。私は世界をただ放浪していただけ。誰とも係わるつもりはなかったの。ディリライト首長。私の名前を告げればその意味が分かるかしら? 私の名はシアラスティネル。首長夫人になんてなれないわ」
その場が静まり返る。
「帰るわよ、フレイム」
「ああ。じゃあな」
フレイムの体がいきなり燃える大きな虎のような姿に変化した。
「まっ、待ってくださ・・・っ」
「おっ、お待ちを・・・っ」
レキサとアベリアの言葉を待たず、その燃え上がるかのような大きな虎に跨った美女は窓から飛び去ったのである。
緊急会議は、外側からも内側からも鍵がないと開けられない部屋で行われた。
帰宅するや否や、ディリライト邸に連行されたタイガである。
残された額飾りとシアの正体を両親に聞かされ、一度は表情をなくした。
ディリライト一家が緊急会議として部屋にこもれば、家族の誰もが無言で椅子に座って悩むしかない。
弟であるシュナン、イナミも驚きのあまり顔を見合わせるしかなかった。
「となると、このディリライトの跡継ぎを飾ってきたコレは、俺が女神様に贈り損ねたというケチがついてしまったわけだ。父上。こういう場合は、どうすればいいんだ?」
机の上に置かれていた女性用の額飾りを持ち上げ、タイガは愛しい面影を捜そうとする。
(シア。君は永遠に一人で放浪し続けるのか? それが俺にはとても切ない)
どうして自分に君の正体を伝えてくれなかったのか。
それは直接言うのが辛かったからだと信じていいのだろうか。
同じ景色を見て、自分が演奏した曲に君が歌って、・・・あの時に重なった心は嘘じゃないだろう?
「何を暢気なことをっ。タイガッ、どうして気づかなかったのだっ」
「そういう父上こそ自分を省みて恥じたらどうです? お前は女を見る目がないだの、どこのディリライトを狙った女間者かもしれないだの、考えなしだのと。俺ってばかなり見る目はあったと思うんですが。世界で最高の女性だったってことじゃないですか」
「むぐぐぐっ」
しょうがないと、タイガは夕焼け色の宝石を嵌めこんだ額飾りを外した。
「ほら、シュナン」
「へ?」
弟のシュナンへと、その額飾りを放り投げる。
そうして立ち上がった。
「父上。俺はもうシア以外愛せない。女神だからここに留まれないというのなら、俺は彼女についていく従者でいい。というわけで、俺は今、病死しました」
「ちょっと待てっ、兄上っ」
「タイガ兄っ、本気かっ!?」
シュナンとイナミが慌てて椅子から立ち上がる。
「今からお前がディリライトの跡継ぎだ、シュナン。頑張れよ」
「おっ、落ち着けっ、兄上っ」
「そうだよっ、タイガ兄っ。短気は損気だっ」
赤い額飾りは机の上に戻し、橙色の額飾りを弟に押しつけたタイガは爽やかな顔をしていた。
「俺はもうディリライトの跡継ぎじゃない。ただの愛に生きる無名の男だ。では父上、母上、シュナン、イナミ。今までありがとうございました。そしてディリライトをよろしくお願いします」
あっけにとられた家族を置いて部屋を出ていく。そしてガチャッと、外から鍵を掛けた。
「ちょっと待てっ、兄上っ」
「そうだよっ。一度は女神様に渡した物を置いてかれても困るだろっ、タイガ兄っ」
「なんという奴だ、タイガッ。鍵まで持っていきおってっ」
「ああ、あなた。どうしましょう」
それなりに行動力のあるタイガだ。鍵を掛けると、人払いをしていた使用人達にも重ねて注意する。
『あちらにはまだしばらく近づかないように』
『かしこまりました、タイガ様』
我に返った残された家族が、ドンドンと扉を叩いて使用人達に気づいてもらうまで、そして合鍵を持ってきてもらうまでにはかなりの時間を要することとなった。
その間にもうタイガは姿を消していたのである。どこへ去ったかも分からない。
「いや、どうしろってんだよ。兄上、頭が冷えたら戻ってくるのか?」
「シュナン兄。恋の病に効く薬を取り寄せなきゃ無理じゃね?」
弟達とて、いきなり兄の代わりなどできるものではなかった。皆にどう説明しろというのか。
だからタイガの失踪と共に赤い魔王伝説は終わりを告げる。
それでもディリライトの無敗は変わらなかった。
そうして、
「女神様に仕えて生きることにしたから最後の挨拶に」
と、姿を現した時に、タイガへとそれらの額飾りを押し付けることになるのだが、なんにしてもタイガはそこでディリライトを捨て、愛に生きることを選択したのだった。
= - = - ☆ - = - =
海に囲まれたディリライト島。
潮の満ち引きが、この島を包みこむ。
それはずっと昔から今に至るまで変わらない。
ザアァー、ザザザッ、シャワワーッと、潮騒が遠くなり近くなり耳へと届く。
海辺の塔で優しい夢を見た私は、こうして現実へと飛び立つの。
あのね、ウルティード。
この島に来て、私、かなり成長したわ。
心だけじゃない、この体もそうなのね。
人を好きになるとか、恋をするとか、子供だった私にはよく分からなかったの。
だけどあなたが私を好きになってくれたから、私もそんな感情を知ることができた。
これから私がプロポーズという言葉で思い出すのは、あなたの心だわ。
『ディリライトのハールカ姫。あなたを愛しています。だからどうかキマリーに来て私の正妃になってください。
君がディリライト首長の姪姫でなくても気にしない。身分で好きになったわけじゃないから。
君が女性じゃなかったとしても大丈夫。だって俺はハールカだから好きになったんだ。男だろうが女だろうが、そんな性別なんて障害、十分に乗り越えていける。
だからずっと俺の傍にいてくれないか。俺はずっと君を見ていたい。そして君が俺を見ててくれるなら、俺はいつだって立ち上がって歩きだせるんだ』
私に、人を好きになるということを教えてくれたウルティード。
あなたに会えてよかった。




