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39 イスマルクとヴィゴラスは飛んでいった


 大神殿は、王族や貴族、軍隊とは違った意味での権力や富が集まる場所だ。

 そこには歴然とした階級制度(ヒエラルキー)が存在した。

 勿論、世の中は不公平なものだと分かっている。だから無能力者が家柄だけで出世するということだってあるだろうと、イスマルクも思っていた。


(だからってなんでここまで迷走してんだろう、大神殿)


 イスマルクの手首と足首には長い鎖のついた手枷と足枷がつけられている。それは罪人の証だ。

 が、しかし。

 彼は大神殿の奥にあるその場所で、若きエリート神官達の講義を受け持たされていた。


講義名 『神子姫様好みの男になる方法』


 いや、正式な名称は違ったと思うが、まあ、ぶっちゃけて言えばそういうことだ。

 二人の神子姫が傍においた神官はイスマルク一人。

 神子姫達はまさに咲き初めの乙女であった。そしてイスマルクは若い独身男性だった。

 つまり、そういう意味で気に入られていたのではないかと、誰かが発言したのである。


『あり得ません』


 勿論、イスマルクは否定した。


『周囲の老若男女の誰もが愛さずにはいられなかった、そしていつだって笑顔で周囲を幸せにしてくださっていた純粋無垢なお二方を、そんな下衆(げす)勘繰(かんぐ)りで侮辱しないでいただきたい』


 そう大きく強い声で主張した。

 しかし、高位神官とてやはり神官職にある若い息子や孫息子がいる。


――― もしも、自分の息子(または、孫息子)が神子姫様の恋人(または、夫)になれたなら・・・!


 その妄想の前にイスマルクの主張はなかったことにされ、あれよあれよという間に、

「事実検証を行う」

ということで、イスマルクが神子の傍で行っていた内容を全て彼らに伝えよと、つまり同じ技能を身につかせろと命令されたわけである。

 

(耐えろ、俺。そうだ、そういうことで優秀な若き神官が増えるならいいことじゃないか)


 イスマルクは自分にそう言い聞かせた。

 罪人の証である手枷と足枷をつけられた状態で、イスマルクは神子の好みがどこまで幅広いか分からないと、数才から40才程度までの独身神官を前に講義するときたものだ。

 尚、その為に離婚した神官もいるとかいないとか・・・。

 

「では、薬草の採取ですが、各地で採れる薬草にも違いがあります。その際、気を付けるべきことは薬草と毒草との違いですが・・・」

「はい」

「質問でしょうか、どうぞ?」

「薬草などどうでもいい。時間の無駄だ。それより、神子姫様にはどんな会話をお好みになるかを訊きたい」

「・・・・・・今、そういう講義はしておりません」

「罪人風情(ふぜい)が口答えするな」


 耐えろ、耐えるんだ、イスマルク。


「神子姫様は、

『神官だからこそ山に分け入って薬草を採取する技能があるのですね』

と、感じ入ってくださいました。

『そうして薬師としても人々の健康を支えているのですね」

とも。まさか他の神官ができないなどとは思ってもおられませんでしょう」


 わざわざ尋ねなくても、ここに集ったエリート神官達がそういった薬草採取などといった肉体労働をしていない日々であることが分からぬイスマルクではない。

 勿論、誰もが便利な立地にある神殿に所属しているのだから、薬草など購入した方が安上がりで早いといった事情もあるだろう。

 けれども何なんだろう、このふつふつと湧いてくる不公平感は。



 本当の真琴は、

『ねーねー、神官ってこうやってお金が浮いたらヘソクリ貯めるもんなの? それとも神官ってやっぱりお給料安いの?』

と、こまっしゃくれた少年らしい質問をしてきていた。

 けれどもそんなこと、言えない。


『訊くなよ、そんなこと。世の中、金なんて寄付でほいほい集まる神殿もありゃ、基本金額しかこなくて神官が内職しないとやってられない神殿もあるんだ』


 真琴のことは男の子だと信じていたから、「内緒だぞ」と、世間の厳しさを教えておいてやろうと、いつかお前もそんな不条理な社会の中で働かなきゃいけないんだぞと、イスマルクは人生の先達としての威厳をみせたものである。


『へー。じゃあ、イスマルクは内職しないとやってられない神殿にいたんだ?』

『そんなことはない』


 イスマルクは力強く言いきった。


『神官の給料とは別にきっちり稼がないと、俺や見習い達の家事をしてくれる人達の給料が出せない神殿にいたんだ』

『・・・もっとひどいじゃん』

『神官の仕事をしていれば、身の回りのことも(おろそ)かになるから家政婦を雇うしかない。その家政婦の給料を出すべく更に稼がなきゃならんのは仕方ないだろう』


 貯蓄は貯蓄として、イスマルクは雇用促進にも自分の稼ぎで励んでいた神殿長だった。


『んー。だけどイスマルク、カッコいいんだし、それこそ若いお嬢さんが安く働いてくれたんじゃないの?』

『アホか。そんなの、体があまり動かなくて雇ってくれる場所もない、そのままじゃ飢え死にしてしまうって年寄りを雇うに決まってるだろ』

 

 そんなことを話しながら、山で一緒に薬草を採り、小川の水を汲んで茶を沸かし、持ってきたおやつを食べて、自分達は兄弟のような絆を深めていったのだと、イスマルクは思い返す。

 勿論、真琴は自分から遥佳を奪ったイスマルクの弱みを探ろうとしていたわけだが、基本的に嫌がらせなんて人としてできないと思ってしまう真琴では無駄な努力に終わっていたのは言うまでもない。


(食欲のない年寄りに煎じてあげるんだと、大事そうに袋に入れて持って帰っていたマーコットとこいつらじゃ雲泥の違いだな)


 そんな食欲を増す為の薬草は、イスマルクが目を離した隙に真琴が、

『うーん。多い方がもっと効くに違いないよねっ』

と、勝手に量を増やして入れてしまい、気づいた時には薄めるしかなく、そうしたら何人分が出来上がってしまったやらと、そんなことになったのも懐かしい。

 ごめんなさいと、小さくなって謝る真琴はいじらしかった。


『イスマルクの先生。(わし)の為にしてくれたんだ。飲むよ、全部飲むからマーコット君を叱らないでやっておくんなせえ』

『いえ、まだ叱ってないんですけど。ついでに多く飲めばいいってわけじゃありません』


 結局は怒る顔すら保てなかった。

 ・・・あれ? そういえば結局、自分はあの子を叱っただろうか?

 なんにせよ、山に生えている甘い果実は、採ったら一日で傷んでしまうものもある。そんな採りたての実を食べさせてやればとても嬉しそうに笑ったものだと、イスマルクは思い返した。



 そんなイスマルクの美しい回想をよそに、大神殿内で行われている講義は続く。


「ですが、大神殿であれば、神子姫様やその周りに侍る神官が山に行くこともないでしょう。そんなことよりも、神子姫様はどういう色合いのお召し物が好きなのか、お好きな花は何なのか、どういった会話を喜ぶのかをお尋ねしたい」

「・・・・・・(はべ)るって」


 耐えろ、耐えるしかない、耐えるのが試練だ、イスマルク。

 遥佳は売られている服を自分で手直ししてしまうし、誰からもらった花でも喜んだし、会話よりも黙って傍にいて穏やかな時間を過ごすことを好んだ。

 真琴は動きやすく汚れにくい服を着たものだったし、食べられる甘い花々を喜んだし、知らないことを教えてもらえば目を輝かせて聞き入ったものだ。


(安心しろよ、てめえらじゃ全く喜ばせられねえよっ)


 そんな思いがイスマルクの心を荒れ狂ったのは仕方がなかったのかもしれない。

 そう、今のイスマルクの心にはヒュウウウウーッと唸り声をあげて吹く風がある。

 自分や見習い神官達と同い年ぐらいでありながら、この隔絶した何かを持つことができる存在に対する、冷たい突風が。

 その何かとは、「お育ちの違い」もしくは「親のコネ」だろうか。


「特にどういうお召し物がお好きということはございませんでした。どんな服を着ていてもお似合いでしたし、花壇で咲くような大ぶりな花から野山に咲く小さな雑草の花まで全てを愛され、たどたどしい病人の話にも相槌を打つお優しさをお持ちでございました」

「そんなことを言って自分だけが取り入ったのであろう。既に貴様の足取りは調べがついているっ。神子姫様方の為に可愛らしい服を買いあさっていたと。つまり、治療院で粗末な衣服をお召しになられていた神子姫様方は、本当はひらひらしたドレスをお好みになるということだっ」

「・・・・・・いや、あれは」


 神官として優等生な答えをしたつもりが、忘れていた方向からの攻撃を受けてイスマルクは黙りこんだ。

 

(あれは、俺が似合うだろうと思って買っただけのものだったんだが)


 だから遥佳や真琴の好みというよりも、イスマルクの好みである。

 ヴィゴラスは何かと遥佳にジャラジャラつけていたが、あれでは肩こりがしてしまうだけだ。やはり遥佳や真琴にはひらひらとした綺麗な軽い服を着せてあげたい、と。


(俺の神子姫様に着せたい好みを知ってどーすんだ、おい)


 イスマルクはそっと溜め息を隠し、話を続けようとした。


「衣服の好みは年齢と共に変わってまいりますし、そんなことよりもまずは・・・」

「大事なことだろうっ。お前が神子姫様方とどんな時間を共に過ごしていたかを話せと言っているっ」

「ですから・・・」


 イスマルクは、なんだかやりきれなくなる。真面目に僻地の第25神殿で働いていた自分が、何故か悲しくなる。

 自分は何を求めて神官になったのだろう。


「私が神子姫様と一緒にいらした時間とは、共に患者への食事を調理していたり、配膳を行ったり、畑の野菜を引っこ抜いたり、そういったものだったのでございます。では、大量の食事を作る際の注意点でも・・・」

「そんなのはどうでもいいっ」


 なら、何が聞きたいんだよっ。ありもしなかった口説き文句を言えというのかっ。

 イスマルクは、こんな奴らが高位神官になることを約束されたエリートだという事実に眩暈を起こさずにはいられなかった。






 さすがに優理もイスマルクに同情していた。

 大神殿での馬鹿馬鹿しい講義がすめば、

「てめえらと一緒にすんじゃねえっ。どこまで俗っぽいことしか考えやがらねえんだっ」

と、イスマルクはブツブツ荒れまくっている

 呆れるしかない授業内容はともかく、いずれイスマルクはその講義の一環で外へと出されるだろう。

 それが決行日だ。

 優理は大神殿におけるイスマルクの状況を探りながら、そう考えていた。


(どこも同じね。人を利用して自分の利益を追求する)


 今回、自分はどのくらい眠っていたのだろう。

 イスマルクの状況はともかく、それを指示した神官達の様子を探っていたらかなり疲れきってしまった優理だ。

 着替えてから寝室を出ていくと、優理の起きる気配に気づいていたヴィゴラスがポットから茶を淹れて差し出してきた。

 

「ありがとう。・・・ところで、どうしてこの人がいるのかしら」

「同居してた仲だと本人が主張していたが?」


 自分が留守にしていた間、優理と暮らしていた人間の一人だからいいのだろうとヴィゴラスは考えたらしい。

 テーブルに置かれている、食べ終えてしまった大魚の丸焼きが理由ではないと、優理は信じたい。


(どんな大きなオーブンで焼いたのかしら。う、羨ましくなんかないけどっ。だけどこれだけ大きな魚が焼けるオーブンがあるなら一気に・・・っ)


 どうやらドレイクとヴィゴラスは向かい合わせに座って、そうしてヴィゴラスだけが魚を食べていたのだろう。ドレイクの瞳には、それを一人で平らげたヴィゴラスに対しての畏怖がありありと浮かんでいた。


「念の為、この部屋からは出さんようにしておいた」

「ありがとう」

「なぁに可愛いないことぬかしとんねん。わっざわざこん俺が差し入れ持ってきたったっちゅーに」


 ドレイクが苦々しげに唇を歪める。

 前からよく寝込む小娘だと思っていたが、今回は長いようだったからそれなりに心配もしていたのだ。言ってやるつもりはないが。


「差し入れ?」


 優理が視線を移せば、大きな艶々とした桃が幾つか調理スペースに置かれていた。


「どうしたの、これ。毒入り?」

「もうええ。食べんでよろし」


 さすがにドレイクの目が氷点下の冷たさを帯びる。


「あ、食べます食べます。わあ、とっても嬉しい。美味しそうだわ、ありがとう」


 慌てて優理が棒読みながら喜んでみせると、ドレイクは、

「なんやコイツ。ほんま(むな)しゅうなってくっわ」

と、ぼやいた。


「こんな大きな桃、高かったでしょ? 今月のお小遣い、なくなっちゃったんじゃないの?」

「お前ん中で、俺はどないな甲斐性なしになっとんのや」


 早速なので桃に切りこみを入れてから種を外し、切り分けてから皮を剥く。そして三人分の皿に分けた。せっかくの大きな桃だ。ヴィゴラスに剥かせたら潰しかねない。ドレイクも論外だった。

 ついでに冷凍室からアイスクリームとカステラもどきを取り出して盛り付ける。


「はい、お待たせ。だけどドレイクが一人で来るなんて珍しいわね。レイスいないのに」

「どあほう。せやから来たんや。あいつ今仕事行っとんねん。たまぁにお前の様子みといてくれ言うから来たったんや」

「あ、あらそうなの。ごめんなさい」

「ほんまよう寝込む()っちゃな。ほれ、クルンも後で齧っとき」

「あ、ども。これも持ってきてくれたのね」


 三人で食べれば、もしかして見舞いで持ってきてくれたのかと思いつき、優理はまじまじと向かいに座るドレイクを見た。


「なんや、惚れるんならもっと胸膨らましてからにしぃや」

「そこまで趣味悪くないけど、ところで訊きたいことあったのよ」

「なんや」

「なんで私、あんたの弟ってことになってんの?」


 いつの間にかドレイクと兄弟設定が自分についていたことをキースヘルムから聞いた優理だ。その内に会ったら訊こうと思っていたのを思い出して尋ねる。


「レイスんボケが」

「レイスが?」

「お前んとこ()(びた)っとったからどんな存在や皆に訊かれたんや。そしたらあいつ、俺ン妹や言い放ちよった」

「へー」

「同じ髪と目ぇしとるさかい、信じた阿呆が続出してな。やけどこの家やってきた奴がお前のニセ乳つけとらん格好を見てもて、なんや男か言うたんや。で、俺ん弟っちゅーことになったんやな」

「・・・・・・うっ」


 外に行く時は胸パッドを入れているが、たしかに家の中ではつけていない優理だ。そりゃシャツもまっ平らな状態だったから、そう思われてしまったのも仕方がないのかもしれない。

 だが、どうして全てにおいてドレイクは否定しなかったのか。

 その気持ちは言わずとも通じたのだろう。ドレイクは面白くなさそうな顔になって言った。


「別に否定せなあかん理由もないやろ」

「・・・私に惚れたならそう正直に言っていいのよ」

「アホぬかすなや。()うんもめんどい(おも)ただけや」


 つまらなそうに言い捨てられたが、もしかして自分は守られていたのだろうか。

 優理はどうしていいか分からず、次の言葉を探しあぐねた。

 そんな矢先にクイッとドレイクに顎を持ち上げられる。


「まあ顔色は悪うないな。・・・キースヘルムに限らんと、下ん(もん)がおる奴ぁ、いかに好き勝手しようが完全に下を無視はでけん。キースヘルム(あいつ)から逃げよ思たら、キースヘルムの手下(あいつんとこ)がお前を毛嫌いしとる今ん内にレイスんモンってはっきりさせとき」

「・・・なんで」

「いくら俺ん弟や妹言おうが、本気になられてからじゃどうしようもでけん。キースヘルムを諦めさせんと。誰しも筋っつぅのはあんのや」


 自分のことをあれ程嫌っておいて、一体何があったのだろう。

 やはり餌付けしたのがよかったのだろうか。

 そんなことを逃避するかのように思って視線を彷徨わせれば、ドレイクは椅子から立ち上がった。


「よう考えとき。キースヘルムん女になられてしもたらレイスとてどうにもでけん」


 興味なさ気にしていたヴィゴラスだが、ドレイクが出ていくと口を開いた。


「全員殺そうか?」

「それはやめて」


 こういう時、迷わずにはいられなくなる。

 自分には分からないから。そういう感情が。


「五日後、イスマルクは外に出されるわ。遥佳や真琴がどういう時にどういう言葉を発し、どういった仕草をしていたか、笑顔を見せるのはどんな時か、それをこのギバティールにある治療院や山やお店とかで再現させられるの」

「何の為に?」

「遥佳や真琴がどういう男の人を好きか調べて、それに合致する神官を育成する為よ」


 ヴィゴラスはしばし沈黙した。

 そうして愁いを帯びた面持ちで頷く。


「やはり宝を眺めずにいると精神(こころ)を病むのだな。戻ってきたら磨かせてやろう。グリフォンにも情けはある」

「お願いだから彼を哀れな人扱いするのだけはやめたげて」


 講義後、牢に戻されたイスマルクが何を呟きながら荒れているかを知っている優理は、そう言うしかなかった。






 何かが間違っている。

 イスマルクはそう思わずにはいられない。

 だが、自分の人生は思い起こせばそんなことばかりだった。


(やるか、普通っ。わざわざ治療院の患者をよそに移してまで、こんな講義やるかっ!?)


 ここは近くに山もある治療院である。つまりドリエータでの状況に、そこそこ近い環境だ。

 患者役は、高齢神官がやっている。

 なぜ本物の患者相手にやらないのかと言えば、イスマルクの講義を聞かれては困るからだ。


(んなアホな講義するだなんて誰も知りたくねえだろうよ。ああ、情けない)


 大神殿と違うこの場所ではイスマルク以外は現地集合で、建物の入口で神官のメダルを見せることで通されている。親が高位神官という彼らは、第10等から始まるイスマルク達と違い、最初から第7等から始めることができるのだ。


(この若さでどいつもこいつも第7等以上かよ。ふざけてやがる)


 自分だって若い身空で第5等の位を持っていたイスマルクなのだが、やさぐれずにはいられない。

 自分は仕方ないのだ。出世した位を持たないと、第1等神官の使い走りはできなかったのだから。


(あ。なんだか泣きたくなってきた)


 しかも第5等といっても僻地の、人間より牛の数が多いような村における神殿長だ。サイドビジネスに励んでまで行き倒れていた年寄りを雇用していた自分の仕事ぶりは、誰がどう見ても第9等でしかなかっただろう。


(何故だろう。のどの奥が()っぱいんだ)


 切なさとはこういう味なんだなと、それを飲みくだしたイスマルクは患者役の神官に向き直り、居並ぶ彼らの前で講義をし始めた。


「今日の具合はどうですか? 日差しが明るい分、気温も高いですし、体も動かしやすいでしょう」

「ふんっ。どうせ俺の体はもう動かねえよっ」


 患者役の神官が、わざとそういう動かぬ体にイラついている言動をとってみせる。

 そこでイスマルクは若いエリート神官達の方を向く。


「さて、こういう場合に、皆さんはどういう態度をとられますか?」


 それぞれが手をあげてから言葉を発する。


「投げやりにならず一緒に頑張りましょうと、声を掛けますね」

「努力次第で、少しずつ体も良い方向へと向かいます。そう寄り添う言葉を掛けます」


 なるほどと、イスマルクは頷いた。


「そうですね。その通りです。神子姫様の場合、そういう患者に対し、何かを言うことはございませんでした。元々が大人しくて物静かなお方ですので、黙って何かをしていくだけですが、いつの間にか神子姫様がいらっしゃるのを、患者が目で追いかけるようになっていたものです」


 そこで、質問が飛ぶ。


「それは美人ということですか?」

「どちらかというとお可愛らしい感じのお方です。しかし、それは関係ないことでしょう」

「なら、スタイルがいいということですか?」

「そういう意味でもありません」


 なんでこいつら、こういう質問が出てくるんだよと、イスマルクは椅子を投げつけたくなった。

 そんな汚れた目で見るだなんてこと自体が許せない。


「なら、どうして目で追いかけたというのでしょう?」

「そうですね。その存在があるだけで落ち着く、そういった気分になっていったからだと思います。神子姫様は人見知りも激しく、お喋りもあまりなさいませんでしたが、黙って座っているだけでいいと、それだけで心が落ち着くのだと、そういう患者が多かったことを覚えております。それはまさに、澄みきった空気のように儚くも好ましいものを感じさせるお人柄ゆえでありましょう」


 そこでひそひそと、

「それはつまらない娘だという意味か?」

「地味だという意味だろ?」

と、そんな会話がされていたのをイスマルクは聞き逃さなかった。


(この寝台、あいつらに投げつけてやりてえっ)


 しかし、たとえ在任時の自分がいかに第5等だか第3等だかだったとしても、所詮、今の自分は神官の位を剥奪された身。


「では、次にこういった患者に出す食事ですが、裏の畑に参りましょう」


 ぞろぞろと治療院の裏にある畑に行けば、色々な野菜が植えられている。


「神子姫様は緑の手をお持ちで、見事な作物を実らせてくださいました。ですがそれを自慢するでもなく、常にせっせと野菜や果実を収穫なさり、調理してくださったものです」


 そこで、一つの質問が飛ぶ。


「お尋ねしますが、現在イスマルク殿は神官の地位もない状態でいらっしゃる。こうやって神子姫様の話をなさっておられますが、あなたの忠誠は神子姫様と大神殿、どちらにあるのでしょう?」


 ざわっと、その場の空気が揺れた。

 というのも、彼らは高位神官の息子達だが、イスマルクが審議されていた会議は一定年齢以上の高位神官ばかりで構成されていた為、出席などできようはずもない。

 そんな質問は、あまりにも(きわ)どすぎた。

 神子姫をこのギバティ王国から失わせることになった大罪人として、今も手枷や足枷をつけられているイスマルクだが、それでも神子姫の傍にいた唯一の元神官だ。

 さすがに周囲にいた見張りの神官達も血相を変えた。


「その質問には心の底から真実を答えましょう。神官の位などどうでもいいことです。私は、女神シアラスティネル様に忠誠を誓い、その神子姫様方こそを至高と考える身。大神殿など、女神シアラスティネル様及び神子姫様方とは、比べる価値もありません」


 イスマルクは、その空気を読まない質問をしてきた神官がつけているメダルを見た。それは第5等を表すのだから、十代でかなりのエリートということになる。

 そう、それが本物の神官であるなら。


「これだけの神官を前にして、大神殿や神官などどうでもいいとおっしゃるのですか?」

「その通りです」


 イスマルクはまっすぐ、その焦げ茶色の瞳を見て答えた。

 さすがに周囲の誰もがざわざわと囁き合う。


「では、何故、ここでそんなにも神子姫様の話をなさるのです? それは神子姫様への裏切りでは?」

「どうせこの程度のことはドリエータに行けば誰もが知れること。それに、私の身が神子姫様の足枷になるようなことがあれば、即座に命を絶つつもりでおりました」

「ならば、なぜ今まで自害をなさらなかったのです?」


 かなりひどい質問だと言えるだろう。けれどもイスマルクには迷うこともない答えがある。


「それを知れば、あのお優しい方々が心を痛めるでしょうから。だから・・・」


 泣かせたくなかったのだと、その言葉は言わなくても通じるのだろうか。

 イスマルクの傍へ、その質問をした少年が近寄ってくる。

 少年がつけている第5等のメダルに、周囲の誰もが、

「まさか第1等神官の身内か?」

「あの若さで・・・」

と、囁き合った。


「神官の位を剥奪されたなら、あなたは神殿にとってもう不要な存在ということでしょう。神官イスマルクではない、ただのイスマルク殿」

「なんでしょう?」


 見下ろすようにすれば、どんなに似ていても真琴ではないと、それが分かる。


「じゃあ、あなたは私達のものです」

「はっ?」


 そこへ凄まじい風を切る音がして、突っ込んできた存在がその前脚で二人をそれぞれ掴み取る。


「うわぁっ!」


 いきなり空へと舞いあがられたものだから、イスマルクは悲鳴をあげた。

 同じくグリフォンによって空へと連れ攫われた少年は眼下に向かって宣言する。


「それではもらっていきます。まだまだ役立ってもらいたいので」


 まさかいきなりグリフォンが現れるとは思っていなかった神官達が空を見上げて指差し合う。


「どうしてグリフォンがっ」

「待てっ。それこそ神子姫様はグリフォンによって姿を隠されたとっ」

「じゃあ、あれがっ!?」

「まさかあの神官っ」

「あれはもしやっ、マジュネル大陸に行かれたという神子姫様っ?」

「いや、マジュネル大陸にはまだお着きになっていない筈っ」

「待つんだっ。あれこそマーコット様ではっ?」

「ならばあれこそがっ!?」


 にこにことして優理が手を振れば、ヴィゴラスは更に上昇し、天を駆けていく。

 なんて派手なことをと、イスマルクは隣で同じようにグリフォンの爪で掴まれている優理に話しかけた。


「なんと申せばいいのか分かりませんが・・・」

「助けるのが遅くなってごめんなさい。出てきてくれて助かったわ。あなたが無事に解放されないと、遥佳が泣いちゃうのよ」

「そんなつもりでは・・・」


 優理の言葉に、イスマルクは遥佳を思った。


「あ、マーコットは、いえ、マーコット様はマジュネル行きの船でこの国を離れられました」

「知ってるわ。ありがとう、見送ってくれて」

 

 真琴と同じ顔、同じ声、同じような髪型をしているが、全く雰囲気は異なる。

 三つ子といっても、三人それぞれ個性があるんだなと、改めてイスマルクは思った。

 やがてヴィゴラスはとある山中に舞い降りる。そこには、大きな箱が用意されていた。


「あの、・・・これは?」

「えっとね、この箱はちゃんと断熱もされているから。で、毛布も入れてあるわ。そしてお金もね。あと、入れてある資料は現地で使ってちょうだい。あ、それからこのパンとか食料はお弁当だから。調理道具も用意してあるわ」

「あ、はい」

 

 優理はとてもテキパキしていた。ヴィゴラスが、その(くちばし)でイスマルクの手枷と足枷を壊す。


「ありがとな、ヴィゴラス」

「グルルル」


 不機嫌そうなのは、イスマルクにつけられた手枷が気に食わなかったからだろうか。


(そうか。お前も俺のこと心配してたんだな。・・・いいんだ、そんなに怒ってくれなくても)


 感謝をこめてイスマルクがヴィゴラスの首筋を撫でようとしたら、一枚の紙がひらりと目前に提示された。


『宝石に枠。約束は守れ』

「そっちかよっ」

 

 感動が霧散する瞬間。

 それをイスマルクは知った。


「さ、早く乗って。彼が運んでくれるから。あ、そうだ。このメダル、返すわね。あなたが遥佳に預けておいたものよ」


 誰かに見つかる前にと、優理が箱の中へ入るようにと指差す。

 イスマルクが乗りこめば、パタンと蓋が閉められた。


「じゃあね。遥佳によろしく」


 なんだかアッサリしすぎじゃないのかと思ったイスマルクだが、箱はそれなりに快適に作られているようだ。一応、頑丈そうな小さなガラス窓もついているし、空気穴もついている。

 そうしてイスマルクを入れた箱は、大空へと飛び去った。

 





 断熱というのが何かよく分からなかったのだが、イスマルクはすぐにその意味を知ることができた。


(空気穴から入ってくる空気が冷たい。外はそれだけ冷えているということだ。この毛布があってくれて助かった。羽毛のクッションまであるとは)


 高度が上がる程、空気は冷たくなる。そんな原理は分からなくても、窓から下を見れば怖くなるだけなので、イスマルクは箱の中に入っていた資料とやらをその窓から入ってくる光に照らして見ていた。


(何だ、こりゃ。豚の丸焼き用及び牛の丸焼き用の(かまど)の作り方? 炭焼きの仕組み? 焼き肉用七輪(しちりん)の作り方? 上水道と排水溝の作り方? なんだ、この構造は。初めて見る金具だな)


 わけ分からんと、イスマルクは思う。

 資料と言っても一つではなかった。


(こっちは、料理のレシピか? 煮干しの作り方? 煮干しって何だ? 昆布の干し方? 昆布って何だ? オレンジカスタード、アップルパイ、ベイクドポテト、カボチャの蒸し焼き、・・・何と言うか、俺が知っているのと味付けや切り方がちょっと違うような? しかもこのレシピ、上段は普通の文字で書かれているが、下段は知らぬ言語で書かれている)


 恐らく料理のこれは遥佳に渡すものなのだろう。その数だけでかなりある。下段で使われている文字も遥佳や真琴ならば読めるのに違いないと、イスマルクは思った。


(だが、どうして豚の丸焼きが8つも積んであるんだ。ヴィゴラス、お前はどんだけ食べる気だ)


 生野菜も入っているが、乾燥野菜、干し肉、干し茸は水で戻し、スープにしたりして食べるようにということなのだろう。やはり空を飛べる幻獣とて、そうすぐには遠い第7神殿へは辿りつけまい。

 そこでガタンッと音がして、箱が開けられる。


「着いたのか? ・・・ここ、どこだ? まあ、そろそろ腹も減ったから休憩は有り難い」

「クルルルッ、クルルッ」


 イスマルクが箱から出ると、ヴィゴラスが上機嫌で豚の丸焼きを爪で指差す。


「ああ、何だ。それが食いたいんだな。分かった。切り分けてやるからちょっと待て。どうせなら(たきぎ)を拾ってきてスープも作ろう。いくら丸焼きされているとはいえ、食べる前には軽く炙った方が香りもたって美味いからな」


 それを聞いて、ヴィゴラスも少し待つ気になったようだ。近くにあった枯れ木をバキバキッと倒して適当な長さにしてしまう。

 イスマルクもすぐ傍の川から水を汲んできて、鍋で沸かし始めた。

 

「お前、俺がせっかく作ってやった首飾りはどうしたんだ。だけど目立つからつけてないのはしょうがないか。あんなのつけてたら確実に人と関わりがあるって分かるしな。ほら、スープが出来上がる間に、炙った肉をこのパンに挟んでやるよ。そうしたら脂が浸みこんでパンも美味くなるんだぞ」


 ついでに川べりで摘んできたハーブも、イスマルクは一緒に挟む。そうすると爽やかさが出るのだ。


「キュイッ」


 パクッと一口で食べたヴィゴラスは気に入ったらしく、満足そうに鳴いた。


「ん。気に入ったか? じゃあ、後は皿の上にパンを置いておいて、その上に炙り終わった肉を置いてってやる。そうして最後に脂の浸みこんだパンを食うんだが、そこにスープを流しこんでもいい」

「キュルッ」


 言葉は通じなくても、意思疎通はできる。

 イスマルクは自分も一緒に食べながら、次々とヴィゴラスの前に置いた大皿に炙りなおした肉を置いていく。


(口うるさいのはアレだが、やはりイスマルク(こいつ)は世話係に向いている)


 ヴィゴラスにとってはちまちましたペースとしか言いようがなかったが、たしかに冷えた状態で食べるよりも美味しかったので、そこは妥協した。刻み野菜と豆が入ったスープがつくのも悪くない。

 ぶつくさと文句は多いが、イスマルクは基本的に面倒見のいい男だった。


「熱いと驚いてひっくり返しちゃうからな。先にボウルに入れておいてやるから冷めてから飲めよ」

「キュイッ」

「ってお前っ、返事したそばから何を一気飲みしてやがるっ! このトリ頭グリフォンッ!! ・・・まあ、むせないならいいよ、もう」


 遥佳の前でお行儀よくスープを飲む姿しか知らなかったイスマルクである。だから注意したのだが、ヴィゴラスはイスマルクの前でまで猫をかぶる必要性を見出さないグリフォンだった。

 そうして食べ終えてしまえば、豚の残りを見てイスマルクは悩んだ。

 

「さすがに頭とか骨はな・・・。いいスープが取れるんだが、次の休憩時点でダシにするか。しかし、そんな時間を取る方が無駄か。迷うな。・・・・・・とりあえず小用を足してくる」


 いくら幻獣といえどもその前でトイレする気はない。そういうわけで少し離れた場所まで行ってきたイスマルクだが、戻ってきた時には豚の頭と骨は忽然と消えていた。


「まさかお前、食ったのか?」

「キュルッ?」


 小首を傾げてみせるヴィゴラスはまるで、

「え? 何? 僕、知らないよ。誰か盗っていったんじゃないの?」

と、言っているかのようだ。

 けれどもこの肉食の幻獣を前にして寄ってくる獣がいる筈もない。


「お前な・・・。ハールカの前じゃ骨なんて食べませんってツラしといて」


 がっくりとイスマルクは項垂れた。

 次の休憩時には、こいつ用のスープ鍋は別にして、そっちに骨から何からをそのまま放りこんでやろうと決意しながら。






 留守にしていたそうだが、ふらりとレイスは優理の家に現れた。

 

「あら。誰かと思ったわ。そういうカッコしてると、なんか学校の先生みたい」

「そっちもできるな」

「そう」


 深く意味は考えないのだ。

 その日、優理はレイスから鍵をもらった。


「何これ。どこの鍵?」

「ミザンガにある俺の隠れ家だ。住所はこれだな」


 テーブルに置かれた紙片。それには分かりやすく住所と特徴が書かれている。(いわ)く、建物の色は茶色、扉の色は焦げ茶色で水晶玉の絵が描かれているそうだ。


「なんでこんなの・・・」

「もしも何かあったらそこに行けばいい。隣国だから移動はさほど難しくない。勝手に中のものは使ってかまわん」


 何度か何かを言おうとして、だけど言葉にならず、優理は開けかけた唇を閉じた。

 俯いてしまった後で、どうにか言葉を絞り出す。


「私、そこまでされても何も返せないけど?」

「人は、見返りなしには動かないものだと?」


 質問で答えられてしまえば、何も言えなくなった。

 そんな優理の頭に、テーブルの向こう側からレイスの手が載せられる。


「安心しろ。ちゃんと体で返してもらう。ザンガってのはなかなかぼんやりが多くてな。宿代としてあいつらの監督をさせてやる」

「なんかとっても嫌な予感がするわ」

「そうでもない。楽しいお仕事さ。ピーチクパーチク(さえず)るブタ共を躾け直し、尻を蹴飛ばして働かせるだけ。全く人がこっちにかかずらってると思いやがって、どいつもこいつもサボってくれやがる」


 なんだか少し(すさ)んだ雰囲気があるのだが、何があったのだろう。


(そういえば何の仕事に行ってたのかしら。・・・知りたくもないわね)


 優理は、とりあえず出しておいた人参の(キャロット)カップケーキを食べるよう勧め、自分もティーカップを口元に運んで表情を隠した。

 イスマルクを逃がしたばかりなので、目をつけられぬよう、ここずっと市場には行かずに家で閉じこもっていた優理だが、やってきたレイスは相変わらずクルンの実持参である。


「なんだかんだ言っても、私、レイスに全く協力してないわよね」

「気にするな。その内、俺が殺されそうになった時には全力で俺を庇い通してくれればいい」

「私の知らないところで死にかけられてもどうしようもないわよ」

「なるべくお前の前でぶっ倒れるようにしておこう」


 よく分からない男だと思う。

 

「レイスは男も女も子供も好きになれない妖精オタクだけど、人を好きになる気持ちって分かる?」

「前から思ってたが、その妖精オタクというのは何なんだ」


 少し優理は考えた。


「オタクというのは、特定のものに執着して愛好する人のことよ。つまり、同性も異性も幼女も好きになれないレイスは、妖精みたいな人間の気配がない存在に執着してそれにしか愛情を抱けないのよね?」


 その説明に、レイスは少ししてから口を開く。


「別に妖精なんぞ目の前に現れてくれても好きになれるかどうかは怪しいもんだ。そうだな、俺の仕事に対して協力してくれてそれが役立つなら愛情ぐらい持ってやってもいい」


 なかなか傲慢な言い草だった。


「相手を利用することしか考えられないのは愛じゃないわ」

「それを言うならお前の言い分の方がおかしい。たとえばそこに異性愛者がいて、そいつが、

『男は好きになれない』

と、言ったら、お前はその異性愛者は女なら誰でも好きになれるだろうと、そう言い放ったようなものだ。俺は妖精という種族全体に何らかの執着を抱く必要性を見出したことはない」

「あら? だけど私のことを気に入ったのよね?」

「ああ」


 はっきり言われてしまうと、自分で訊いたことなのに優理の方が赤くなる。


「なんだ。誰か好きな奴ができたか?」

「それはないけど・・・。だけど、どうやって人は自分が誰かを好きになっているっていうのを知ることができるの?」

「お前は理屈で考え過ぎるんだ」


 ひょいっとキャロットケーキを手で割ってそれを自分の口に放りこんだレイスは、残った分を更に割って優理の口元に差し出した。

 何となく食べなきゃいけない気がしてしまった優理がそれをもぐっと食べると、その指が自分の唇から離れていく。


「誰かと一緒にいたかったり、誰かと過ごす時間が気持ちよかったりしたら、人はそいつとの時間を特別なものだと看做して、好きと言い出すだけのことだろ。だけどお前はそっちの感情をあえて考えないようにしているからおかしくなるんだ」


 レイスの目に、自分はおかしいと映っているのだろうか。

 別に自分が間違っているとは思わない。だけど真琴にも遥佳にも置いてけぼりにされてしまったような、なんとなく取り残されてしまったような気になるのは何故なのだろう。

 自分で選んだことなのに・・・。


「ここんところ、ずっと休んでるそうだが、やはり具合が悪いのか?」

「ううん。単に外に出ないようにしてるだけ。ちょっと人と会いたくなくて」


 いくら印象が違うとはいえ、神殿関係者に会うのはやばすぎる。


「ユーリ。ちょっとこっちに来い」


 何だろうと思い、優理はテーブルの向こうに座るレイスの所へ近寄った。

 レイスは優理を自分の膝の上に乗せて、その頭を自分の胸へともたれさせた。


「お前、心が疲れてるんだ。疲労ってのは体だけじゃない。時には心が弱ることだって人はあるんだぞ」

「そうなのかな」

 

 レイスの片手が優理の瞼を覆うようにして何も見えないようにする。もう片方の手が背中を撫でる。


「ああ。お前、疲れてるだろ?」


 改めて訊かれれば目の前が見えないこともあり、素直に「うん」と、優理は頷いてしまった。


(そっか。私、疲れてたんだ)


 だって自分は・・・。


「少しは休め。お前は頑張った」

「・・・・・・」


 何にも知らないくせに。

 だけどどうしてその言葉が胸にすんなりと入ってくるのだろう。


「・・・ふぇっ」


 そんなつもりはなかったのに、優理の目から涙が溢れた。

 気づかぬ筈がなかっただろうに、レイスは動揺すらしない。同じ調子で背中を撫で続けているし、優理の瞼も覆ったままだ。

 気づかぬふりをし続けてくれるから・・・。


「ほっ、ほんとは、嫌だったの」

「・・・ああ」

「だけどっ、・・・だけど私がっ」

「ああ」


 レイスには何のことかも分からないだろう。


「だって私しかっ、しょうが・・・っ」

「そうだな。お前は自分にできる範囲で精一杯頑張ったんだろう?」


 なのに、どうして欲しい言葉を言ってくれるのか。


「うん」

「・・・よくやった」


 その手が作り出す闇は、とても温かかった。

 


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