第20話 【外】竜の巣
斥候の仕事は、見ることだ。
見えないときは、どうするか。
知らない。
教わっていない。
見えないところへ行かされる斥候なんて、いないはずだった。
ここに一人いる。
*
四十いくつかの段を半歩ずつ降りきると、下は泥だった。
足首まで、ぬるりと沈んだ。
温かい。
冬の入りだというのに、地面の底が温かい。
気味が悪い。
真っ暗だった。
上の坑道のほうが、まだ明るかった。
ここには、あの緑の光も届かない。
背後で、兜の鳴る音がした。
ぺた、ぺた、ぺた。
ごん。
「きゅる!」
竜の子が、まだついてきている。
*
俺は、壁ぎわを手探りで進んだ。
指の先に、穴が触れた。
壁に、ぽっかり穴があいている。
膝くらいの高さで、腕を入れると奥まで続いている。
迷っている暇はなかった。
後ろから、ぺたぺたが近づいてくる。
俺は穴に頭から突っこんだ。
せまかった。
四つん這いでも背中がこすれる。
肘で這って、ようやく進める。
どう考えても、人間の通る穴じゃない。
もっと小さい何かが、何度も通って広げた穴だ。
たとえば、膝の高さくらいの竜とか。
*
そこから先のことは、あまり思い出したくない。
穴は、中で分かれていた。
右、左、上、下。
どこを選んでも、また分かれる。
ときどき行き止まりになる。
ときどき、さっき通ったところに出る。
後ろから、ぺたぺたが来る。
右の穴に逃げこむと、前から「きゅる!」と顔が出る。
左に逃げると、上から「きゅる!」と降ってくる。
竜の子は、この穴をすべて知っている。
俺は、ひとつも知らない。
勝てるわけがなかった。
*
どれくらい這ったか分からない。
狭い穴の途中で、竜の子に追いつかれた。
俺は身を固くした。
竜の子は、俺の腰のあたりに鼻を突っこんだ。
ふんふんと嗅いで、何かをくわえて、引っぱった。
ぶちっと、紐が切れた。
「きゅあー!」
竜の子は、それをくわえたまま、横の穴へ消えていった。
腰を探った。
火口の袋が、なかった。
火打ち石は、まだある。
火打ち金も、ある。
火口だけが、ない。
火花は出せる。
でも、燃えうつるものがない。
光を取られた。
竜の子は、たぶん遊んでいただけだ。
たぶん、というのは今日四回目だ。
そして、たぶん当たっている。
あいつは最初から最後まで、ずっと楽しそうだった。
*
竜の子がいなくなると、急に静かになった。
上へ帰ったのかもしれない。
竜の子が帰る先には、竜の親がいる。
そう言われている。
俺は穴の中で、火打ち石を打った。
かち。
一瞬だけ、橙色の火花が散った。
一瞬だけ、目の前の壁が見えた。
土の壁だった。
小さな手の跡が、びっしりついていた。
竜の子の前足の跡だ。
かち。
右に、また穴があった。
かち。
左にも、あった。
この穴は、巣だ。
竜の子のために掘られた巣だ。
竜の子が遊び、隠れ、走り回るためだけの、子ども用の迷路だ。
人間が入れば、這うしかない。
竜を育てる砦の、いちばん奥に、竜の子の巣がある。
筋は通っている。
通っていてほしくなかった。
*
腹が減った。
穴を這い出たところの壁に、古い木の根が出ていた。
指で触ると、ぐにゃりとしたものが並んでいる。
かち、と火花で照らすと、細長いキノコだった。
びっしり生えている。
食えるのか、これは。
地面の底に生えるキノコは毒だ。
そう言われている。
また「言われている」だ。
俺はもう、それを信じないと決めていたはずだった。
でも、確かめる方法が一つしかなかった。
食って、死ぬか、死なないか。
斥候は、生きて帰って報告するのが仕事だ。
食べなかった。
のども渇いた。
壁は湿っている。
なめてみた。
泥の味しかしなかった。
当たり前だった。
*
夕方か夜か、分からない。
穴を出て、手探りで歩いていたら、足もとが急に変わった。
泥が、硬い。
いや、柔らかい。
ゆっくり踏むと、足が沈む。
なのに、転びかけて強く踏みこんだら、床が俺を突き上げた。
ぼよん。
宙に浮いた。
背中から落ちた。
床が、また俺を跳ね返した。
ぼよん。
どさっ。
痛くない。
痛くないのが、いちばん怖かった。
起き上がろうとして、慌てて手をついた。
ぼよん。
何度やっても、同じだった。
慌てるほど、跳ね返される。
この床の上では、急いだ者から転ぶ。
俺は、這うのをやめて、床の上でじっとした。
じっとしていると、床はゆっくり俺を受け止めた。
温かかった。
それがまた、腹が立った。
*
そのとき、上から、声が聞こえた。
ずっと上のほうだ。
段のほうから、かすかに降りてくる。
「……十一本あります。四人です」
男の声だった。
のんびりした声だった。
「……割れません」
「……割れませぬな」
もう一つの声は、硬かった。
あの騎士の声だ。
四人。
十一本。
割れない。
俺は、息をひそめた。
上では、軍議が開かれている。
兵糧か、兵か、槍か。
何かを四つに分ける相談をしている。
「割れません」の意味は分からない。
分からないが、あののんびりした声が、この砦の主のものなのは、たぶん間違いない。
五回目の「たぶん」だった。
「……変な泥だなあ」
のんびりした声が、そう言った。
俺は、床の上で固まった。
聞こえていたのか。
俺が跳ねる音が。
聞こえていて、それを「泥」と言ったのか。
この床の上で、俺がどれだけ跳ねようと、泥が跳ねているのと変わらない。
そういう意味か。
上の男は、俺を探しにも来ない。
探す必要がないからだ。
ここにいる限り、俺は何もできない。
背中に、冷たいものが流れた。
床は、温かいままだった。
*
その夜は、穴の中で寝た。
ほとんど寝られなかった。
夜中に一回、寝返りを打って床へ転がり出てしまい、ぼよん、と鳴った。
自分で鳴らして、自分で飛び起きた。
斥候として、いちばんやってはいけない音だった。
*
朝になった、と思う。
理由は、光だ。
跳ねる床の、ずっと向こうの壁に、ぽつん、ぽつんと、緑の点が灯っていた。
夜のうちには、なかった。
いや、あったのかもしれない。
弱すぎて、今まで見えなかったのかもしれない。
上で見た、あの緑の光と同じ色だった。
目が慣れてくると、その光で、この場所の形がうっすら見えた。
床のふちに、低い土の囲い。
その囲いの奥の壁に、一か所だけ、口があいていた。
大人が両腕を広げたくらいの幅の口だ。
口の向こうは、ここよりもっと暗かった。
そして、口には、柵が立っていた。
*
腰の高さもない、低い柵だった。
あの口の向こうが、この砦の本当の奥だ。
竜の親がいるなら、あそこだ。
出口があるとしても、あそこだ。
上には、戻れない。
戻れば、あののんびりした声の主がいる。
なら、前に進むしかない。
あんな柵、またげば終わりだ。
俺は、跳ねる床をゆっくり渡った。
急がなければ、床は沈むだけだ。
昨日一日で、それだけは覚えた。
柵の前に立った。
手を置いた。
ぬるりと、指が滑った。
*
泥だった。
柵の全部に、泥が厚く塗ってある。
手をかけようとすると、滑る。
爪を立てても、滑る。
つかむところが、どこにもない。
なら、足だ。
片足を上げて、柵の上に乗せた。
靴底が、つるりと滑って落ちた。
立っているほうの足が、ゆっくり床に沈んでいく。
体が傾く。
あわてて踏んばった。
ぼよん。
床が、俺を突き上げた。
柵とは反対のほうへ、放り投げられた。
背中から、囲いのそばに落ちた。
ぼよん、と、また跳ねた。
*
二度目は、助走をつけた。
跳ぶ床なら、跳ぶ力に使えばいい。
俺だって、ザカリアの兵だ。
馬鹿じゃない。
たぶん。
六回目だった。
思いきり床を蹴った。
床は、思っていたよりずっと強く、俺を跳ね上げた。
高すぎた。
向きも違った。
柵の上ではなく、柵の真正面に、顔から突っこんだ。
ぼよん。
柵が、俺を跳ね返した。
床が、俺を跳ね返した。
囲いの土に、背中がぶつかって止まった。
痛くない。
どこも、痛くない。
ただ、自分が何度跳ねたのか、もう数えられなかった。
*
三度目は、下を掘ろうとした。
柵の足もとに指を突っこんだ。
泥が、指のあいだから逃げていった。
すくっても、すくっても、穴にならない。
四度目は、肩からぶつかった。
いちばん遠くまで飛ばされた。
五度目の前に、腰の短剣に手をやった。
刃を突き立てれば、手がかりになるかもしれない。
柄を握って、止まった。
抜いたら、俺はもう、見るだけの人間じゃなくなる。
ここで刃物を抜いた兵隊が、生きて帰ったという話は聞かない。
言われている、ですらない。
ただの、俺の勘だ。
俺は、柄から手を離した。
*
床の上に、大の字になった。
ゆっくり倒れたので、床はゆっくり沈んで、俺を受け止めた。
温かかった。
腹が減っていた。
のどが渇いていた。
丸一日、這って、跳ねて、跳ね返されていた。
壁の緑の点が、にじんで見えた。
目を閉じかけたとき、段のほうから、光が降りてきた。
*
ゆっくりした光だった。
ひと段ごとに、止まる。
また一段、降りる。
また止まる。
荒い息の音がした。
人間の息だ。
それも、ものすごく苦しそうな息だった。
光が、段の下まで来た。
皿のようなものの上で、緑の苔が光っていた。
その皿を、口にくわえているやつがいた。
犬だった。
銀灰色の、眉毛の立派な、年寄りの犬だった。
その横に、男が立っていた。
片腕を土で固めて、脇腹を押さえて、肩で息をしている。
あの騎士だった。
騎士は、泥の床の上の俺を見た。
それから、跳ねる床の上に転がっている俺と、柵とを、交互に見た。
「……やはり、ここにおったか」
犬が、皿をくわえたまま、ふん、と鼻を鳴らした。
俺の目が、勝手に閉じていった。
竜の次は、犬か。
この砦には、あと何がいるんだ。
考えるのをやめた。




