第四話 世界の終わりの壁際で
地下深くへと続く錆びついた鉄階段を降りると、むせ返るような血と汗の臭いが鼻を突いた。
闘技場へ出る前、俺は薄暗い通路の隅にある賭け屋へと足を向けた。すべて『俺の勝ち』に突っ込む。
この試合までの3日間にマヌケどもから頂戴した全財産、大した額じゃないがオッズどおりの支払いなら10倍以上で返ってくる。
賭け屋の男は馬鹿にしたような顔で俺を見た。当然だ。こんなガキ、勝てるなんて思うわけがない。
「……後で吠え面かかしてやる」
重々しい音を立てて鉄柵の扉が開き、俺は闘技場の砂利の上に足を踏み入れた。
スクラップの残骸があちこちに転がるバトルエリアを、スラムの吹き溜まりから湧いて出たような数百人のクズ共が取り囲んでいる。
ざわめきは、俺の姿を認めた途端、爆発的な嘲笑へと変わった。
「おいおい! なんだあのヒョロガキは!」
「5分は持たせろよネズミ!」
怒号を無視して、俺は視線を上方――鉄柵の外側にあるVIP席へと向けた。
あの借金取りの男が葉巻を燻らせながら、ニヤニヤと下劣な笑みを浮かべて座っている。俺と目が合うと、男はわざとらしくグラスを掲げてみせた。
(初撃は貰えよ)
あいつの言葉が脳裏をよぎる。……わかっている。最初の一発だけは、かすり傷程度に受けてやる。その後で、目の前の肉塊をどう料理するかは俺の自由だ。
ズシン、ズシンと、地響きのような足音が闘技場を揺らした。
反対側のゲートから姿を現したのは、身長が二メートルは優に超える筋骨隆々の巨漢だ。顔から首にかけて無数の赤黒い傷跡が這っている。
何より異様なのは、その両腕だった。丸太のような腕には、黒ずんだ血がこびりついた巨大な鋼鉄のガントレットが装着されている。
ただの喧嘩屋じゃない。明らかに『殺し』に特化した処刑人だ。
ゴングの代わりに、天井から吊るされた錆びた鉄パイプが打ち鳴らされる。
「ヒャアアアッ!」
耳障りな奇声とともに、巨漢が砲弾のような勢いで突進してきた。闘技場の砂を蹴り立て、巨大なガントレットが俺の顔面を粉砕せんと迫り来る。
その動きに八百長の不自然さは感じられない。寧ろ殺しに来ているような――
そんな俺の疑念とは裏腹に、俺の目は巨漢の動きをハッキリと捉えていた。
このまま避けるのは容易い。だが、まずは『初撃』だ。
俺は完全に軌道を見切りながら、あえて避けられないふりをして、左肩に浅く一撃を貰うように身体の軸をわずかにズラした。致命傷にはならない。
――カチリ。
ガントレットが肩に触れる直前。極めて微小な機械音が俺の耳に届いた。
見れば、ガントレットの甲の部分から、『鋭い針』がバネの力で弾き出されるのが見えた。
軌道は俺の首筋。打撃はフェイントで、本命はこの隠し武器か。
「チッ――!」
咄嗟に上半身をのけぞらせたが、飛び出した針が頬を浅くかすめる。ギリギリで避けようとしていたのが仇になってしまった。
針を避けるために無理な体勢になった俺を、鉄の拳が襲う。ブロックしつつ、無理やり後ろへ飛んだが、殺しきれない衝撃に闘技場の砂利の上を無様に転がる。
「オラァ! どうしたガキィ!」
巨漢が下品に吠え、客席から割れんばかりの歓声と罵声が降り注ぐ。
俺は砂を掴んで立ち上がろうとした。あの巨漢の顎を蹴り砕き、その頭をこの砂利に埋めてやる。
……力が入らない。
「……あ?」
足の感覚が、まるで自分のものではないように抜け落ちていた。指先が微かに痙攣し、心臓の鼓動が異様なほど早鐘を打っている。
毒だ、あの針には毒が塗られていたに違いない。
視界がぐらりと揺れる。砂利に突っ伏したまま、かろうじてVIP席を見上げると、借金取りの男が腹を抱えてゲラゲラと笑い転げていた。
――ハメやがったな。
八百長も、初撃の指示も、すべては俺を嬲り殺しにするための嘘。
這いつくばる俺の腹に、容赦ない巨漢の蹴りが炸裂した。枯れ葉のように吹き飛ばされ、スクラップの山に激突する。
鉄の味が口内に広がる。
(……クソが)
霞む視界の中で、巨漢が再び距離を詰めてくるのが見えた。
鉛のように重い身体を引きずり、どうにか横へと転がる。直後、さっきまで俺の頭があったスクラップの山が、鋼鉄のガントレットによって紙屑のように粉砕された。
飛び散った破片が頬を切り裂くが、痛みすらひどく遠い。
「ちょろちょろと逃げるのは得意なようだな! ネズミ野郎!」
丸太のような脚が、無防備な俺の身体を蹴り上げる。
「ガハッ……!」
為す術もなく宙を舞い、再び闘技場の砂利に叩きつけられる。内臓が破裂したかと思うほどの衝撃。酸素を求めて口をパクパクとさせるが、肺が痙攣してうまく息が吸えない。
観客の熱狂は最高潮に達していた。借金まみれの無様なネズミが、圧倒的な暴力の前にすり潰されるだけの最高のショー。
毒が全身の神経を侵食していく。指先はとうに感覚を失い、視界の端がどろりと黒く欠け始めていた。
巨漢が、止めを刺すべくゆっくりと歩み寄ってくる。両腕を高く掲げ、血濡れた鋼鉄の塊を俺の頭蓋へと真っ直ぐに振り下ろそうと構えた。
VIP席の男が、グラスを片手に身を乗り出して下卑た笑いを浮かべるのが見える。
巨漢の顔に、醜悪な殺意と歓喜が張り付いていた。




