第三話 地獄で見る夢
俺はつま先で、やつの金玉を蹴り上げた。
「――ッ!!??」
声にならない絶叫とともに、白目を剥いたロッソが前のめりに崩れ落ち、泥とゲロにまみれた地面に這いつくばる。
俺は全体重を込めて、ロッソの後頭部を踏みにじった。
ゴリッという音が鳴り、足の下でロッソの体が屠殺されたブタのように震えたのを見た時、凍りついていた血が沸騰し、ドス黒い歓喜が全身を突き抜けた。
俺達の関係は完全に入れ替わった。最高の気分だ。
「ア、アレック……」
ロッソが言い切る前に、再び後頭部を全力で踏み直す。ゴンという鈍い音と、グチャリと軟骨が潰れる感触が足裏に伝わってきた。
「俺はアルトラだ」
『踏みつける側』の圧倒的な愉悦。脳がスパークし、優越感が溢れ出す。体に残っていた痛みが今は微塵も感じられない。
足元で虫のようにうずくまる男を見下ろし、俺は全身を突き抜ける歓喜に酔っていた。まるで全能の神にでもなった気分だった。
――視界の端が、ぐにゃりと歪むまでは。
「ガ、アッ……!?」
唐突に、脳髄を直接焼け火箸で掻き回されるような激痛が走った。
視界が明滅し、平衡感覚が狂う。あの時、ドブ川で目を覚ます前に味わった地獄のような苦しみほどではない。それでも油断すれば、そのまま意識を刈り取られそうなほどの強烈な痛みだった。
あの男が何かした副作用か、それとも急激に体を動かした反動か。
激しい耳鳴りに顔をしかめながら、俺は足元に転がっていたロッソのナイフを拾い上げた。
「ヒッ、あ、アレ……」
足元で顔面を血と泥にまみれさせたロッソが、命乞いのような声を漏らす。
そんな態度にも、俺の心に慈悲など微塵も湧かなかった。震える手でナイフを逆手に握り直し、一切の躊躇なく、そのブタの太い首筋へと刃を突き立てる。
ブツッ、と分厚い脂肪と気管を裂く嫌な感触。
プシュッと汚い血が吹き出し、ロッソの巨体はビクンと一度大きく痙攣して、それきり完全に動かなくなった。スラムの孤児たちを恐怖で支配していた男の、あっけない最期だった。
周囲の壁際では、騒ぎに気づいた他の孤児たちが、俺とロッソの死体を見てガタガタと震え上がっている。今の俺にはそいつらに関まっている余裕はない。
荒い息を吐きながら血まみれのナイフを片手に、俺はふらつく足取りでアジトを出て、自分の寝床へと向かった。
朽ちかけた物置を再利用したそこには、ボロ布を丸めただけのカビ臭い寝床がある。そこに倒れ込んだ瞬間、いよいよ限界を迎えた。
体を丸めると、気絶するように眠りについた。
翌日。
目を覚ました時、あの脳髄を焼くような激痛は嘘のように引いていた。
完全ではない。体の奥底に鈍い熱が燻っている感覚はあるが動くのに支障はない。
カビ臭い寝床からゆっくりと身を起こし、ロッソを殺したアジトへと向かった。
部屋の中にはロッソの死体はすでに無く、床も掃除されている。
「ようやく来たか野良犬」
不意に声が響く。
見れば、部屋の奥――いつもロッソが偉そうにふんぞり返っていた椅子に、見知らぬ男が座っていた。
「……お前は?」
手元にあった血まみれのナイフを握り直し、俺は低く警戒した。
男はタバコを床に投げ捨て、靴の裏でグリグリと踏み消す。
「あのブタはウチに多額の借金をしていてな。利子も払えなくなったんで、そろそろ臓器でも抜いて回収しようかと思って来てみれば……肝心のブタは屠殺済みと来た」
そういうと男は薄気味悪い笑みを浮かべた。
「このまま金が回収できないとなると、お前を含めたここらのガキはバラされるか、好事家に売られるだろうなあ。可哀想に」
俺は鼻で笑った。ロッソの野郎、死んでまでクソみたいな面倒を残しやがった。
「やってみろよ。俺の肉を切り刻む前に、お前の手足が千切れるのが先だろうがな」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「……あのブタがどうやって首の肉を裂かれたか、お前もその身で直接味わってみるか?」
その言葉と眼差しに込められた本物の殺意に、男の薄気味悪い笑みが凍りつく。
「お、おっと、ここで俺を殺したとしても、別のが来るだけだ。そして、そいつは俺ほど優しくは無いだろうな」
余裕ぶった姿勢を取り繕ってはいるが、声に緊張の色が見られた。
「なら純粋なビジネスの話をしよう。お前、なかなかやるじゃないか。あのブタは喧嘩の腕はそこそこあった。並みのガキがどうにかできる相手じゃない。――闘技場に出ないか?」
「闘技場?」
「東区のもぐりの闘技場だ。お前みたいなヒョロガキがリングに上がれば、オッズは嫌でも対戦相手に偏る。そこで俺たちが大穴に賭けて、お前が勝つ。……簡単な八百長だ」
「なるほどな。俺に大穴のオッズを背負わせて、一攫千金を狙うってわけか」
「飲み込みが早くて助かるぜ。一晩でブタの借金分は楽に回収できるって寸法だ」
俺が話しに乗ったせいか、男は当初の余裕を取り戻しつつあった。
「俺が自分に賭けてもいいのか?」
「まあ、そこは好きにしろよ」
男は肩をすくめた。
俺は黙って証文を受け取り、内容を確認する。試合が終われば借金は完全に帳消し。
タダで借金がチャラになるなど、スラムでは虫が良すぎる話だ。断られないと最初から分かっていたのか。
いや、違う。こいつの計画に乗るフリをして、俺はこの底辺から這い上がるための踏み台にしてやる。今の俺には、それだけの力がある。
「三日後の夜だ。場所はそこに書いてある」
男は出がけに振り返り、薄気味悪い笑みを浮かべた。
「ああ、それと」
「何だ」
「八百長とはいえ、不自然になりすぎても困る。初撃は貰えよ」
そう言い残し去っていく男の背中に向けて、俺は皮肉な笑みを浮かべて呟いた。
「……初撃はくれてやる。その代わり、二撃目で試合が終わっても文句は言うなよ」




