第二話 最初の接触
何が起きたのか理解するより早く――俺の頭の上には恐ろしく上等な革靴の底が乗せられていた。
「アレックスは死んだ」
すでに過ぎ去った事実であるかのように、その男はひどく冷たい声で告げた。
不思議と、反論する気力は湧いてこなかった。圧倒的な力の差だった。
それなのに。
俺の両手は無意識に、頭を踏みつけている男の足首を掴んでいた。
(無駄だ)
俺の頭など、こいつにとっては蟻を潰すより容易く踏み潰せる。
俺は両手に渾身の力を込めた。だが、乗せられた足は微動だにしない。
(無駄だ)
相手はただ、足元の虫がもがくのを遊んで見下ろしているだけだ。
俺は首をもたげようと全身の筋肉を軋ませる。だが、足は定位置から変わらない。
(無駄だ、もう抵抗する意味なんて――)
頭では完全に諦めているのに、細胞が、本能が、強烈に拒絶していた。
ギリリ、と不快な音が脳内に響く。
俺は歯を食いしばり過ぎて自らの奥歯を砕き、鼻血を吹き出しながら、それでもなお、男の靴底を押し返そうと足掻き続けていた。
「生きるつもりか」
こいつは一体、何を言っているんだ。ごく当たり前の事が、そんなに不思議だってのか!
「当たり前だッ!」
腹の底から、叫びが漏れた。
すると、頭に乗っていた重みが唐突に消え、男は言った。
「アレックスは死んだ。お前はアルトラだ」
「……アルトラ?」
呆然と呟く俺の首筋に、男は手を伸ばした。
「生きてみせろ」
ブツン、と何かが突き刺さった音。不思議と痛みはない。
「何を――?」
俺の問いかけなど聞こえなかったように、男は歩み去っていく。
何者かは分からない。なぜ俺を選んだのかも。ただ、あの男に迷いは一切なかった。
その後ろ姿を見送った、直後。
「ひぎいいいいいいいいいいいいいい!! あああああああああああああやあああめえええええ!!!!」
今まで受けてきた暴行が、愛撫されていたと錯覚するほどの激痛が全身を駆け巡った。
身体のありとあらゆる部分、体毛の一本に至るまで痛みに支配されている。
痛みで体が痙攣し、痙攣が痛みを生み出す。再生産され続ける激痛に視界が明滅する。
死ぬ! 死んでしまう! いや! 死なせてくれ! 早く! この痛みから解放されるなら!
あれほど生きたいと願った自分が、嘘のように死を乞うほどの痛み。
嘔吐し、糞尿を漏らした。涙、鼻水、よだれ、およそあらゆる体液を全身から撒き散らしのたうち回った。
遠巻きに様子を窺っていたスラムの住人たちも、あまりの惨状に誰一人として近づこうとはしなかった。
地獄の時間は永久に続くかのように感じられた。
※
ひどい悪臭で目が覚めた。どれくらい意識がなかったのだろうか?
俺は自分の撒き散らした、嘔吐物や排泄物の中で倒れていた。臭さのあまり吐きそうになるが、もう胃には何も残っていない。
ふらつく足で立ち上がり、近くの古井戸へと向かった。頭から水を被り、こびりついた汚れを洗い流す。服は濡れたままだが、乾くのを待つ時間がもったいない。水を滴らせながら、自分の寝床へ戻ることにした。
不思議なほど足取りは軽く、息も上がらない。むしろ、かつてないほど体の調子が良い。
アジトに近づくにつれ、建物の外まで響き渡る、あの聞き慣れた濁声が耳に届いた。
「ああ!? 死体がないだと!? 誰かに先をこされたってのか?」
建物の隙間から中の様子を窺うと、ロッソがガキどもに怒鳴り散らしていた。
どうやらあのクズは、死んだと思い込んだ俺の死体を回収させようとしていたらしい。死体でも買い取り手がいるのがスラムという所だ。闇医者に死体を売り飛ばす腹だったのかもしれない。底なしの強欲さに、思わず冷たい笑みがこぼれた。
かつての俺なら、あの怒声を聞くだけで恐怖に縛り付けられ、足がすくんでいただろう。
だが今の俺には、餌箱を漁る豚のけたたましい鳴き声にしか聞こえなかった。あの底辺を這いつくばっていた『アレックス』は、もう死んだのだ。恐怖は、欠片ほども湧いてこない。
ギイ、とひどく軋む立て付けの悪い扉を押し開け、俺は堂々と中へと足を踏み入れた。
「……あ?」
ロッソが鬱陶しそうにこちらを振り返る。入り口に立つ俺の姿を認めた瞬間、その醜く太った顔が驚愕に引きつり、次いで限界まで赤黒く染まった。
「テメェ……アレックス!? 生きてやがったのか、このゴミが! 俺の手を煩わせやがって!!」
死に損ないが戻ってきたことへの安堵など微塵もない。あるのは、自分の思い通りにならなかったことへの身勝手な怒りだけだ。
ロッソは唾を飛ばしながら、俺の頭を叩き割るつもりで、あの丸太のように太く巨大な右拳を振りかぶった。
いつもなら、恐怖で身がすくみ、避けることなど絶対にできない。目をつむって激痛に耐えるしかなかった、あの理不尽な暴力の象徴。
(……なんだ、これ)
俺の目は、ロッソの巨大な拳が空気を裂いて迫ってくる軌道を、ハッキリと捉えていた。
遅い。あまりにも遅すぎる。まるで引き伸ばされた時間の中を俺は動いているようだった。俺はただ、ゆっくりと迫るその拳の軌道から、ほんのわずかに首をズラした。
「なっ――!?」
ロッソの拳が空を切り、顔の横を通り過ぎる。たたらを踏んだロッソの無防備な姿が、俺の目に晒された。
考えるより先に、俺の肘が奴の鼻面を捉えていた。
メキッ、と硬い軟骨が砕ける不快な感触が、ほんの一瞬遅れて俺の脳に伝わってくる。
「いぎっ」
潰れた鼻から大量の血を吹き出し、ロッソの巨体が尻もちをついた。
反撃されるなんて夢にも思っていなかったのだろう。ロッソは暫く何が起こったのかわからない様子で、俺を見上げていた。
大きく腫れ上がったその鼻は、本当にブタのようだった。
そのマヌケな様子に、思わず笑ってしまう。なんだ、俺はこんなものに怯えていたのか。
「……っ、こ、のガキがあああ!!」
俺が笑ったのが気に触ったのか、ロッソは怒りの形相で立ち上がると、懐から大振りのナイフを取り出した。
右手に握られた刃。昔は恐ろしく見えたものだが、今の俺にはちゃちな玩具にしか感じられない。
「死ねえッ!」
体重を乗せて突き出された右手のナイフ。俺は、その手首を下から強烈に跳ね上げた。
すっぽ抜けた刃が宙を舞い、前のめりになったロッソの体勢が大きく崩れる。学習しないやつだ。
がら空きになった股下へ向け、つま先でやつの金玉を蹴り上げた。




