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死に急ぐ奴らの街

 俺は全体重を込めて、ロッソの後頭部を踏みにじった。


 ゴリッという音が鳴り、足の下でロッソの体が屠殺を待つブタのように震えたのを見た時、ドス黒い歓喜が全身を突き抜けた。


 俺達の関係は完全に入れ替わった。最高の気分だ。


 今のこの快感を味わうためだったと思えば、あの踏みつけにされた屈辱の日々を、耐え忍んだ甲斐があったってもんだ。


 ――すべては、あの男との出会いから始まった。



 ――

 


 すえた匂いが染み付いた、薄汚れたスラム街の路地裏にある、古びた建物。

 そこにはいつも、ドブの悪臭と鉄錆、そして安酒と嘔吐物が混ざったようなロッソの体臭が漂っていた。


 ロッソは、身寄りのない孤児どもをかき集め、雨風をしのげるだけの『ねぐら』と、家畜の餌のような僅かな残飯を与える代わりに、稼ぎのすべてを巻き上げるクズだった。


 俺たちの稼ぎをはねては安い酒を飲み、機嫌が悪ければ俺たちを憂さ晴らしのサンドバッグにする。それがロッソという男の日常だ。


 背は俺より低いが、腹は突き出ており動きは鈍重だ。だが、『拳』と『足』だけが異様にでかく、丸太のようにごつごつと硬い。

 栄養失調で骨と皮だけになり、まともに発育していない俺たち孤児は、その巨大な拳が振り上げられるたびに、ただ首をすくめて震えるしかなかった。


 外の世界に逃げ出した所で居場所はない。数日後には死体となるのがオチだ。だから俺たちは、この理不尽な暴力の檻の中で、息を潜めて従うしかなかった。


 その日の稼ぎは決して悪くなかった。廃工場の奥底まで潜り、まだ使えそうな部品をいくつか見つけてきた。

 それを換金した銅貨を、俺はロッソの前に差し出した。

 いつもなら、これで今日の分の残飯にはありつけるはずだった。


 しかし、泥酔していたロッソの血走った濁った目は、差し出された金ではなく、俺の『顔』に向けられていた。


「……オイ、アレックス。テメェ、なんだその見下ろすような目は!」


 酒焼けした濁声とともに、ロッソの顔にどす黒い怒りが急激に沸き立つのが見えた。

 当時の俺はガリガリの痩せっぽちだったが、背だけはロッソよりわずかに高かった。ただそれだけのことが、この酔っ払いの矮小な自尊心をひどく逆撫でしたのだ。


「違っ……」


 言い訳をする暇すらなかった。巨大な拳が、空気を裂いて俺の鳩尾へ深く突き刺さった。


「ガ、はッ……!」


 肺からすべての空気が強制的に吐き出され、視界が真っ白に飛んだ。強烈な吐き気が込み上げ、俺は無様にゴミが散乱する地面へと倒れ込む。


「ヒョロヒョロと背ばかり伸びやがって、目障りなんだよ! 見下ろしてんじゃねえぞ、ゴミが!」


 喚きながら、ロッソの異常にデカい靴の底が、うずくまる俺の背中や後頭部へと容赦なく振り下ろされる。


 ドス、ドスと肋骨が軋むような重い蹴り。泥が顔に跳ね、容赦なく口の中へ入り込んでくる。鉄の味がした。自分の口の中が切れているのだと、遅れて理解した。


 周囲のガキ共は自分に火の粉が降りかかるのを恐れ、ただ震えて見ているだけだった。誰も助けてはくれない。それがこのスラムの絶対のルールだ。弱者は、強者に踏みにじられるだけの存在だ。

 

 反撃などできるわけがない。ただ、じっと耐え続けるしかない。


 俺は絶対に悲鳴を上げなかった。

 喉の奥まで込み上げた血と泥の味をゴクリと飲み込み、前髪の隙間から、ロッソのでかい足を睨み続けていた。


 いつ終わるともしれない暴力は突然止んだ。気が済んだのか、ただ疲れただけか。

 ともかく、その日の折檻は終わり、ロッソは再び酒を飲みに出掛けていった。


 痛む体を引きずり、寝床へと向かう。

 古い物置小屋を再利用したそこは、雨漏り、隙間風と酷いものだが。何も無いよりかはマシだった。床に敷かれたボロ布に横たわり、震える体を抱えると気絶するように眠りについた。


 ――


 翌日、俺を含む数人の孤児たちは道端に並ばされ、ロッソの怒声を浴びていた。


「おい! アレックス! とっとと動け、この役立たずのゴミ共が! 今日のノルマが終わるまで餌は抜きだからな!」


(なら、仕事の邪魔をするな)

 言葉にならない苛立ち。だが口に出せばまた蹴りが飛んでくる。グッと奥歯を噛み締めた、その時だった。


 ロッソの怒声が、不自然にピタリと止んだ。


 見れば、ロッソの赤ら顔がみるみるうちに青ざめ、脂汗を浮かべている。彼が凝視する路地の入り口に、"それ"は立っていた。


 言葉のひとつも発していないにも関わらず、周囲の空気がそこだけ凍りついたような、圧倒的な存在感を纏っている。


 齢は30~40歳くらいに見えるが、髪は真っ白。それに揃えたかのように、スラムの煤煙や泥跳ねすら一切寄せ付けない、染み1つない真っ白な服。

 首元に巻かれたスカーフだけが血のように赤い。


 こんな掃き溜めに似つかわしくない、高級な身なり。明らかに只者ではない雰囲気を漂わせた謎の男を前にして、俺たちの恐怖の象徴だったはずのロッソが、慌てて体を丸めた。


「こ、これは……わざわざこんな場所まで、ようこそおいで下すった。いやはや、申し訳ねえ、うちのガキがとろくて……」


 男は何も答えない。ただ冷たい視線を向けるだけだ。それに耐えきれなくなったのか、ロッソは「ひっ」と短い悲鳴のような息を漏らし、脱兎のごとくその場から走り去ってしまった。


 残された他のガキ共も、ただならぬ空気を察して路地の奥へとクモの子を散らすように逃げていく。

 足がすくんで動けず、取り残された俺は、その白い男と二人きりになってしまった。


 男の視線が、ゆっくりと俺に降りてくると共に、とてつもないプレッシャーが襲いかかって来る。


 ――殺される。


 恐怖が極限に達し、俺の中で何かが弾けた。


「ああああッ!!」


 無我夢中だった。体の痛みなど忘れ、獣のような叫び声を上げて男に掴みかかろうと地を蹴った。


 刹那――視界が反転した。男がどう動いたのかすら、まったく見えなかった。


 激しい衝撃と共に、背中が地面に叩きつけられる。肺から空気が抜け、一瞬、呼吸が止まる。


 何が起きたのか理解するより早く――俺の頭の上には、恐ろしく上等な革靴の底が乗せられていた。

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