8話。
静かな空間に、カップがソーサーに触れる微かな音と、茶を飲み込む喉の音だけが、そっと広がる。
それは沈黙ではない。
どこかやわらかな空気だった。
ほんの少しだけ残る気まずい空気の中、目の前の不格好な焼き菓子を見つめたまま、リティシアは視線を上げずに口を開く。
「……こ、今後は、何か作りたい時は言えばいい。……一緒に作る」
耳まで熱くなるのを感じながら、伏せていた顔をさらにわずかに下げた。
悪魔は驚いたように目を見開き、それからゆるく細めてリティシアを見る。
「うん! 一緒に作ろう」
不機嫌だった顔は歓喜に染まり、両手を胸の前で弾ませるように笑う。その無邪気さに、胸の奥がくすぐったくなった。
「声が大きい」
照れを隠すように悪態をつく。
わざとらしく耳を塞ぐ仕草をしながら、リティシアはほんの少しだけ笑った。
◇◇◇
お茶と菓子が残り少なくなった頃、悪魔が突然「お花の世話に一緒に行こう」と言い出し、手袋を嵌めたままリティシアの手を取った。
手当は受けたとはいえ、まだ鈍い痛みの残る身体は重い。難色を示すリティシアをよそに、「適度な運動は大事だよ!」と半ば強引に連れ出されたのだった。
いつの間にか雨は止み、残された雫が植物の上で光を弾き、瞬いていた。
パーゴラドームの下に腰を下ろし、リティシアは空を見上げる。
いつもより、ほんの少し魔界の紫が多く溶け込んだ、マーブル模様の空。
決まった時間にしか訪れたことがなく、天界だと思い込んでいたこの庭園は、真っ暗にはならずとも、時間によって空の色が変わるらしい。
天界では空模様は変わらない。
毎日、正しさを象徴するかのように、同じ空が続いていた。
紫が、またひとつ混ざろうとする。
昨日から、初めて知ることばかりだ。
天界仕込みの思考が、無意識に“正しさ”を探してしまう。
それに当てはめられないものを、どこかで警戒している。
――あの悪魔だって、そうだ。
悪魔なのに、どこか違う。
リティシアは、一度だけ悪魔と話したことがあった。
人間の欲に触れ、恐怖を植え付けた悪魔。
その結果、多くの人間の天の迎えを早めたとして、天使に捕らえられた存在。
天界で、処罰を待つ檻の中。
興味本位で近づいたリティシアに向けられたのは、露骨な嫌悪だった。
問いかけには下卑た笑みで戯言を返す。
最後には檻の隙間から手を伸ばし、油断した首元を掴もうとしながら、
『俺らは楽しい事をすんだよ』
と、嗤った。
あの顔は、今も脳裏に焼き付いている。
だからこそ。
昨日、目の前の彼女を“悪魔”だと認識した瞬間、死を覚悟した。
けれど悪魔は、手を出すどころか心配した。
白を纏い、見ず知らずのリティシアを慈しむように触れた。
まだ出会って間もない。
それでも――あの天界の天使たちより、よほど天使らしく見えた。
欲に触れ、傾ける存在。
それが悪魔だと、知っている。
紫がまた一筋、空に混ざる。
少し離れた場所から、悪魔の口ずさむ歌が風に乗って届いた。
何を歌っているのかは分からない。
――まだ、分からないことだらけだ。
それでも。
悪魔のことを、もっと知りたいと思った。




