7話。
空から降り注ぐ雨粒に反射して、宝石のようにきらきらと舞い落ちる光が、そっと頬を掠めた。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、インディゴライトのように透けて青く光る黒髪の悪魔が、あどけない寝顔を晒している。
眠っている間にリティシアを傷つけてしまわないよう、念入りに嵌められた肩まである手袋だけが、その無防備な姿とちぐはぐだった。
規則正しい寝息を聞き流しながら、リティシアは解けてしまったペールアクアの髪を静かに束ねる。
悪魔に心の内を透かされ、すんでのところで押し留めていた感情が、抱き締められたことで堰を切った昨日を思い出す。
瞼の重さだけで、ひどく腫れているのだと分かった。
あの後、リティシアは天界へ戻らなかった。
――もう、戻らないだろう。
漠然と、そう思う。
戻ったとしても、教えに背き罰せられた直後に外出禁止を破り、帰らなかった者を待つのは、きっと更に重い罰だ。
不意に身体が震え、自分で自分を慰めるように両肩を撫でる。
「……ふは」
乾いた笑いが零れた。
悪魔を起こさぬようそっとベッドを抜け出し、ストールを羽織って扉を開ける。
水の溜まった瓶の前にしゃがみ込む。
雨粒が落ちては波紋を広げ、凪いではまた揺れる水面に、腫れた目の自分が映っていた。
両手を差し入れる。
思ったより冷えた水に身体が僅かに震えたが、そのまま掬い上げ、一気に顔へと掛ける。
濡れたままストールに押しつけ、拭った。
玄関前の木造の階段に腰を下ろし、まだ小雨の降る、マーブル模様の空を見上げる。
此処にずっと残りたいと突然言い出しても、あの悪魔はきっと嫌な顔一つせず――寧ろ、喜んで受け入れるのだろう。
本当に変な奴だ。
一晩で随分と柔らいだ表情を、誰もいないのにわざと引き締める。
脳内でだけ、悪態をついた。
雨粒に反射する光がきらきらと降り注ぎ、それを受け止めるように揺れる花弁を、指の腹でそっと撫でる。
――リティシア?
家の中から物音がした。
ガチャン、と大きな音。
「またやっちゃった!!」
すぐに聞こえた悲壮な嘆きに、リティシアは小さく鼻で笑った。
扉を開くと、テーブル上にあった物が散乱していて、寝癖を付けた悪魔が半べそをかきながらかき集めているところだった。
「何してんの」
呆れながらリティシアは声を掛ける。
「足、引っかかっちゃったの〜……あっ、おはよう」
片足を擦りながら状況を説明した悪魔は、はたと顔を上げてリティシアの顔を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
「おはよ。……馬鹿じゃないの」
悪魔の笑う様子に少しだけたじろいだ後、誰かと朝の挨拶を交わすむず痒さを誤魔化すように悪態をついた。
リティシアの言葉に、うぅ……と口を尖らせて涙目になる悪魔に、あざとい、と思う。
そっと足元に転がる小物たちを拾い上げて悪魔に手渡し、ズレてしまったテーブルを元の位置に戻す。
「ありがとう」
悪魔が笑ったのを、リティシアは顔を背けて「別に」と言った。
◇◇◇
朝ご飯を食べ終わり、食後に飲むお茶の用意を悪魔がする。
少しむくれながらお湯を沸かす悪魔の背を見て、リティシアは小さく息を吐いた。
悪魔が朝ご飯を作ると張り切って作り出したのだが、包丁を有り得ない持ち方で持っていたり、熱くなった鉄製のフライパンにぶつかって落としかけたりと、危なっかしいのだ。
耐えかねたリティシアが、悪魔に代わって朝食を作った。
しかし、悪魔はそれが不服だったらしく、食事中も不機嫌だった。
「……まだ根に持ってんの」
下唇を出しながらお湯をポットに注ぐ悪魔の顔を、覗き込むように問いかける。
「別に?……リティシアの方が上手だったし」
わざとらしく目線を合わせない悪魔。
怒りながらも相手を褒めようとする様子に、少しだけ面白くなったリティシアは、ははっ、と声を漏らした。
その声に目を見開き、勢い付けて振り向いた悪魔に、リティシアは眉を顰めて「何」と呟く。
「初めて笑ったの見た! もっかい! もっかい笑って!」
琥珀色に輝く瞳を更に煌めかせ、先程まで拗ねていたことなど忘れたように此方へ笑顔を向ける。
その顔目掛けて、ふっ、と息を吹き付けた。
「うるさい」
不意打ちに見開いていた瞳に息が掛かり、悪魔は「わ!」と声を漏らしながら目を擦る。
リティシアはほんの少し赤くなった耳を隠すようにして、悪魔に向かって舌を出した。
「もー!」
眉を釣り上げて頬を膨らませた悪魔が、先程お湯を入れたポットからカップに茶を注ぎながら、軽くリティシアを睨んだ。
「どうぞ」
わざと少し音を立てて目の前に置かれたカップに、小さく鼻で笑いながら「助かる」と告げ、水面に息をふきかける。
「昨日もだったけど、猫舌だよね」
「そもそも熱いお茶を飲んだ事ない」
天界では、食事も飲料も必要な時に摂取するだけのただの行為だった。
大天使より上の天使達はお茶を嗜むこともあったが、下位の天使が口にすることはない。ましてや菓子と共に飲むなど――娯楽としてのティータイムなど、一度も見たことがなかった。
「そっかぁ」
悪魔はそう呟き、茶を一口含む。
初めて見る天使に興味はあるのだろう。そんな素振りは見せるのに、リティシアのことを深くは聞いてこない。
悪魔だから、欲求を察しているのだろうか。
けれど今のリティシアには、その距離感がちょうど良かった。




