第29話【意味が分かると怖い】仮装していない男【怖いショート】
人事異動の掲示の前に、人だかりができていた。
『課長昇進 森 拓也』
花束を抱えた森が、照れくさそうに笑っている。
同期の野口も、その輪の中で拍手をしていた。
「おめでとう。お前なら当然だよ」
森は、野口の肩をたたいた。
ハロウィンの夜、渋谷の通りには、血の付いた制服や魔女の帽子があふれていた。
その間を、普通のスーツを着た男が歩いていた。
「おじさん、仮装してないじゃん」
若者が笑いかけたが、男は答えなかった。
翌朝、会社のグループチャットに動画が届いた。
『渋谷で酔ったサラリーマンが女性を突き飛ばす』
揺れる映像の中で、スーツの男が振り返った。
森の顔だった。
再生数は三百万を超えていた。
『特定した。○○商事の森拓也』
『顔、はっきり映ってるじゃん』
『会社に電話しよう』
会社のホームページに載っていた森の写真が、動画の横に並べられていた。
「俺じゃない。あの晩は、ずっと家にいたんだ」
森は何度もそう言った。
独り暮らしの部屋に、訪ねてきた人はいなかった。
会社の電話は鳴りやまず、取引先からも説明を求められた。
翌週、森の机は空になっていた。
残された名札を、野口は指先でまっすぐに直した。
「森は退職だ。……野口、後任を頼めるか」
上司に呼ばれ、野口は顔を上げた。
口元に、わずかな笑みが浮かんでいた。
その夜、帰宅した野口は、クローゼットにスーツを掛けた。
足元の箱には、海外からの送り状が貼ってある箱が転がっている。
スーツの隣で、森の顔に笑みが浮かんだ。
【解説】
クローゼットにある箱の中身は「森の顔」
森本人ではなく、彼の顔を再現したマスクです。
野口は、このマスクで森になりすまして騒ぎを起こし、動画が広まることで森が会社にいられなくなるよう仕向けた、と読み取れます。森が退職した後に野口が後任を任され、わずかに笑う場面も、その目的につながっています。最初の祝福の言葉を読み返すと、同期の昇進を心から喜んでいたのか、という疑いが生まれます。
題名の「仮装していない男」は、通行人から見た印象でした。仮装した人々の中で普通のスーツを着ていた男こそ、他人の顔をかぶる仮装をしていたのです。
動画には、森の「顔」が映っていました。しかし、それだけでは森「本人」がその場にいた証明にはなりません。森の否定よりも映像とネットの特定が信じられ、会社への電話が続き、彼の居場所は失われました。
野口が用意したのは偽物の顔ですが、その顔を本物だと決めつけて広めた人々も、森を追い詰める力になっています。本人だと信じた根拠を最後の二行が覆すことで、見たものへの確信そのものが怖さに変わる話です。
この物語の人物・企業・事件は創作です。




