第16話【意味が分かると怖い】S&P・オルカン暴落【怖いショート】
十月二十三日。
夫はソファの端に座り、画面を下へ引っ張った。
数字が更新される。
もう一度、引っ張る。
変わらなかった。
「ひどい……」
オルカン。S&P500。
少し前まで眺めるのが楽しみだった名前の下に、マイナスが並んでいる。
貯めてきた含み益は、全部なくなっていた。
テレビでも同じ話をしていた。
詳しそうな男が、下向きのグラフの前で首を振っている。
「あなた、大丈夫?」
妻がキッチンから顔を出した。
「ネットでは、もっと下がるって書いてあるけど……どうするの?」
夫は答えず、検索欄に商品名を入れた。
〈まだ底じゃない〉
〈年内マイナス五十%もある〉
〈今は逃げた方がいい〉
指を動かすたび、知らない誰かが先のことを教えてくれた。
どの人も、自分よりよく知っていそうだった。
去年の旅行をやめて入れた分。
車を買い替えずに回した分。
それが、見ている間にも削られていく気がした。
妻が隣に座った。
「一度、スマホ置いたら?」
「今、置いてる場合じゃないだろ」
声が大きくなった。
妻の手が、膝の上へ戻った。
夫は売却の画面を開いた。
数量を選ぶ。
全部。
確認画面を読み飛ばし、指を押しつけた。
「もう耐えられない。これ以上下がったら破産する」
丸い印が、画面の真ん中で回っていた。
やがて、緑色のチェックに変わった。
〈売却注文が完了しました〉
夫は、その一行を妻に見せた。
「これでいいんだ。現金にしておけば、もう減らない」
長く息を吐いた。
久しぶりに、背もたれへ体を預けられた。
*
十二月二十五日の朝。
食卓のカレンダーは、赤い二十五を向けていた。
妻が置いたマグカップから、湯気が上がっている。
隣のタブレットが、小さく鳴った。
画面には、見覚えのある商品のチャートが開かれていた。
十月二十三日の印は、深く沈んだところにある。
そこから続く線は右へ伸び、端の方で、ほとんど立ち上がっていた。
画面の下に、白い通知が重なった。
〈約定しました〉
〈買い注文が約定しました。〉
十二月二十五日、九時二分。
―― おわり ――
この下に解説があります。先に考えたい方は、ここでお止めください。
【解説】
先程の【ガチホの代償】とは、反対の狼狽売り買いを描いています。
最後の通知は「売り」ではなく「買い」です。
十月二十三日に全部売ったはずの夫は、十二月二十五日に、また同じ商品を買い直しています。
チャートを見返してみてください。
売った日は、線がいちばん深く沈んだところ。
買い直した日は、線がほとんど立ち上がった端のところ。
彼は、いちばん安いところで手放して、高くなってから買い戻したのです。
一つ目の怖さは、自分で確かめなかったことです。
「まだ底じゃない」「逃げた方がいい」。
彼が売ったのは、顔も知らない誰かの言葉を読んだからでした。
自分の目で確かめたのは、画面の赤い数字だけです。
二つ目の怖さは、自分が持っているものの性質を知らなかったことです。先程のガチホの代償で語られている通り。
オルカンもS&P500、何十年と持ち続けて、値動きの波をならしていくことを前提にした商品です。
積み立てを続けていれば、下がった月は同じ金額でたくさんの口数を買えます。暴落は、本来なら「安く仕込める時期」でもあったのです。
彼が「もう耐えられない」と投げ出したのは、ちょうど、いちばん多く買えたはずのときでした。
旅行をやめて入れたお金も、車を買い替えずに回したお金も、いちばん育つ前に手放してしまったことになります。
そして三つ目の、本当の怖さ。
安いところで売り、高いところで買う。
誰でも「そんなことはしない」と思っています。彼もきっとそうでした。
でも、下がっているときは「もっと下がる」が怖くて売り、上がっているときは「乗り遅れる」が怖くて買ってしまう。
頭でわかっていても、怖さに背中を押されると、人の指は逆の方へ動くのです。
十月、売り終えた彼は「これでいいんだ」と息を吐きました。
十二月、買い直した彼も、きっと同じ顔で息を吐いたのでしょう。
二回とも、彼はほっとしていたのです。
次に線が下を向いたとき、彼の指はどの画面を開くのでしょうね。
※作中の日付・値動き・取引画面はフィクションです。実際の相場や、各商品の注文受付日・約定日を示すものではありません。また、特定の商品の売買を勧めるものではありません。




