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獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


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第9話 〈セス〉献立と荷重表

「却下」

 僕が荷重表を差し出した瞬間、ミラはそう言った。紙を受け取りもしなかった。

「まだ見てないじゃないですか」

「見なくても分かる。あなたの顔、数字しか載ってない顔だもん」

 実習院の裏手、朝市の外れ。干し魚と堅パンの屋台の前で、僕たち三人は、さっきから十五分、同じ場所に立っていた。

 発端は、ガラン教官の一言だ。

「来週の頭に、三日間の採集実習を行う。お前たちの隊は、初めての外泊だ。食料は、自分たちで選んで、自分たちで運べ」

 丸太の件から、五日が経っていた。三人は、あの日からずっと、同じ隊の名前で呼ばれている。実習隊、第十七。他の隊の人間が、「余り者十七」と陰で呼んでいることを、僕は知っていた。

 それで、いま、食料の買い出しだ。

「いいですか」

 僕は、荷重表を、無理やりミラの目の前に広げた。

「一人あたりの運搬上限は、四キロ。水は、現地で汲む前提。残り三日ぶんの食料と、野営具と、観測器具を含めて、四キロです」

「四キロ」

「ミラさんの献立は、一人あたり、五キロ六百。千六百グラム、超過しています」

「だって、美味しくしたいんだもん」

 ミラは、胸を張った。

「食べ物はね、体力だよ。体力は、気力だよ。気力は、三日間、歩く足だよ」

「理屈は、分かりますが」

「じゃあ、いいでしょ」

「重いものは、重いんです」

 二人のあいだで、イヴォが、堅パンの袋を両手に持って、右を見たり、左を見たりしていた。

「なあ」

 イヴォは、遠慮がちに口を挟んだ。

「俺、五キロでも、持てる」

「イヴォ君は、黙ってて」

「イヴォは、黙っていてください」

 二人の声が、そろった。

 イヴォは、堅パンを抱えたまま、少しだけ傷ついた顔をした。僕は、申し訳なくなった。

 ミラは、腰に下げた小さな帳面を、ぱらりと開いた。表紙が擦れて、角が丸くなっている。

「これ、見て」

 それは、彼女の献立帳だった。

 ページごとに、料理の名前と、材料と、重さと、食べる日が書いてある。字が細かい。余白には、小さな絵が散らしてある。魚。きのこ。湯気の立つ鍋。

 一枚、めくる。

 最後のほうの白紙に、小さな円が描いてあった。円の中に、矢印が一本。その矢印の先に、「尾」と書いてある。

「それは」

「方位。うちのやり方」

 ミラは、あっさり言った。

「私の家はね、尾方基準なの。親が、そういう家で。外に出ると、みんな頭方を上にするでしょう。それが、いつまで経っても慣れなくて」

 僕は、その円を見つめた。

 頭方を上にした地図しか、見たことがなかった。反対向きの地図を、日常で使う人間が、身近にいるとは思わなかった。

「面白いですね」

「面白いかな。不便だよ」

 ミラは、笑った。

「でも、これのおかげで、地図を逆さまにして読むのは、得意になった」

 彼女は、帳面を閉じた。それから、僕のほうを見て、少しだけ真面目な顔をした。

「献立は、ただの食べ物の話じゃないんだよ、セス君。誰が、どこで、何を食べるか。それだけで、その場所を好きになれるかどうかが、変わる」

 僕は、荷重表と、彼女の帳面を、見比べた。

 重さを、減らす。それは、僕の仕事だ。ただ、重さを減らしたところで、誰かが、三日目の夜に、黙って干し肉を齧るだけの旅になったら、それは、旅として、うまくいっているのだろうか。

「分かりました」

 僕は、荷重表に鉛筆を入れた。

「千六百グラムを、全部削るのは、無理です。でも、全部が必要かどうかを、一緒に見ましょう」

「ほんと?」

「はい。優先順位を、決めます」

 僕とミラは、屋台の前にしゃがみ込んで、荷重表と献立帳を、地面に並べた。

 堅パンは、保つ。干し魚は、軽い。豆の練り物は、少し重いが、腹持ちがいい。干し果物は、軽いが、栄養が薄い。

「蜂蜜」

 ミラが、帳面の一番下を、指で叩いた。

「これだけは、譲れない。小さな壺ひとつ、百五十グラム」

「必須では、ありません」

「必須じゃないけど、必要なの。三日目の夜、みんなで、ひとなめずつ」

 僕は、少しだけ、考えた。

「では、士気の重さとして計上します」

「しき?」

「はい。蜂蜜、百五十グラム。荷重表に、士気という項目を、一行、足します」

 ミラは、ぽかんとした顔で僕を見た。それから、吹き出した。

「ふ、ふふ、士気って。セス君、面白い」

「真面目に言っているんですが」

「だから、面白いんだってば」

 イヴォまで、横で小さく笑っている。

 笑われるのは、嫌いではなかった。

 荷重表は、結局、三人合計で、千二百グラム、減った。ミラの案から、豆の練り物の半分と、干し果物の一袋を削った。残りの四百グラムは、イヴォが「俺が持つ」と言い張って、自分の袋に引き受けた。

「四キロの上限は」

「僕の計算の上限だ。体力のある人が、少し多く持つのは、問題ありません」

「よし」

 イヴォは、僕の肩を、軽く叩いた。

 買い物は、終わった。屋台の主人が、おまけに干し魚を一匹、足してくれた。

 袋の口を縛りながら、ミラが、ふと言った。

「ねえ。お金、誰が出してる?」

「いまのところ、三人の財布から、別々に」

「それ、不便じゃない?」

「不便です」

 僕は、すぐに認めた。

 借金は、三人で六十枚。食費も、道具代も、これから、三人で出すことになる。別々の財布から別々に出していれば、誰がいくら出したか、いつか分からなくなる。分からなくなれば、いつか、揉める。

 数字が、人の関係を壊すところを、僕は、母の仕事を見て、何度も見てきた。

「ひとつにまとめるのが、正しいと思います」

 ミラとイヴォが、同時に、顔を上げた。

「で、その財布を、誰が持つ?」

 ミラが言った。

 誰も、すぐには答えなかった。

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