第10話 〈セス〉地図の余白に家を描く
寮の談話室は、夜になると、ほとんど人がいなくなる。
暖炉の火は、小さく落としてある。長い机の端に、僕とイヴォとミラの三人だけが、頭を寄せ合って座っていた。机の真ん中に、革の小さな袋が、ぽつんと置いてある。
「これが、共同財布」
イヴォが、少しだけ誇らしそうに言った。
「母さんが、昔、使ってた。腰に付ける袋。口紐だけ、新しいのに替えた」
「いい袋ですね」
「中古だ。俺たちにも、ちょうどいい」
笑った。誰が持つか、という問題は、結局、三人で交代しながら持つことに決まった。袋は、三人の誰が持っていても、中身を、毎週、三人で確かめる。それが、僕の出した条件だった。
ミラが、自分の財布から、銀貨を二枚、袋に入れた。
イヴォが、銅貨と銀貨を、合わせて、三枚。
僕も、銀貨を三枚、入れた。
合計、銀貨八枚。
借金は、六十枚。全体の、七分の一にもならない。
「……全然、足りないね」
ミラが、袋を覗いて、ため息をついた。
「六十枚、いつ払い終わるんだろ」
「実習の報酬が、月に、三人合計で、銀貨十枚ほどです。食費と道具を引いて、純益はおそらく、五枚」
「十二か月、かかる」
「はい」
「それ、毎月、一枚も使えないってこと」
「はい。もう少し、割のいい仕事が、取れれば、短縮できますが」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
僕は、鞄から、一枚の紙を出した。
実習院が発行した、借金の証文だった。三人の署名が並んでいる。その下に、実習院の印。紙は、少しざらざらしていて、四つ折りにされていた。
「これも、財布に入れましょう」
「え?」
「共同財布の中に、証文を一緒に入れる。袋を開けるたびに、借りがあることを、思い出す」
「縁起が悪くない?」
「悪いです」
僕は、真面目に頷いた。
「でも、見えない借金は、忘れます。忘れた借金は、増えます」
ミラとイヴォが、顔を見合わせた。
イヴォが、証文を受け取って、四つ折りのまま、袋に入れた。
「入った」
「入りましたね」
「重くなった?」
「重さは、ほとんど変わりません」
「じゃあ、軽い借金だ」
イヴォの冗談に、ミラが吹き出した。僕も、つい、口元が緩んだ。
それから、ミラが、机の端に置いてあった地図を、手元に引き寄せた。
ガランが貸してくれた、実習範囲の地形図だった。川、尾根、森。余白が、大きく取ってある。
「この余白、ずいぶん広いね」
「測量の追記用です。実習中に、新しい情報を書き込むための」
「じゃあ、私も、書き込む」
ミラは、細い鉛筆を取り出して、地図の右下の隅に、小さな四角を描いた。
四角の上に、三角。屋根だった。
横に、窓。ドア。煙突から、煙が、丸く一つ。
小さな家が、地図の余白に、ひとつ、現れた。
「これ、何」
イヴォが訊いた。
「私の家。いつか、住みたい家」
「いつかって、どこに」
「分かんない。まだ、どこにもない」
ミラは、鉛筆の先で、家の窓を、指した。
「でも、台所には、窓がほしい。それで、窓の外が、ちょっとだけ、ひらけてるといい。毎朝、鍋を火にかけながら、遠くを見る」
ミラの声は、いつもより、静かだった。
イヴォが、鉛筆を受け取った。
「俺も、描く」
彼は、ミラの家の隣に、もう一つ、大きな四角を描いた。屋根が、やけに大きい。玄関には、ひときわ大きな扉がある。
「何ですか、この扉」
「母さんが来ても、ぶつからない扉。あの人、いつも道具を抱えてるから。両手が、塞がってても、通れる幅」
イヴォは、扉に、小さな取っ手を、一つだけ描き足した。それが、妙に、可愛らしかった。
僕の番だった。
鉛筆を、持った。何を描くか、迷った。
迷ったまま、ミラとイヴォの家のあいだに、小さな、細い建物を、描いた。屋根は、低い。窓は、二つだけ。入口の脇に、椅子を、一脚。
「それ、何?」
「待合室です。出かける人と、帰ってくる人が、お互いを待つ場所」
口に出してから、自分でも、驚いた。
産院の入口の脇の椅子と、荷馬車の空いた座席が、頭の中に、残っていたのだ。
ミラは、黙って、僕の描いた小さな建物を見ていた。
それから、言った。
「いいね、それ。三軒並べば、ちょっとした町みたい」
「町」
イヴォが、繰り返した。
僕は、少しだけ、息を吸った。
「第四の町、という言い方を、しても、いいですか」
三都市の外に、人が、安心して暮らせる町。
それは、不可能に近い話だった。原床がなければ、人は、生まれられない。原床は、運べない。いまのところ、人が生まれられる場所は、オルネアの地下の、あの層だけだ。
出かけて、帰ってくる。それが、そもそも、簡単ではない。出かければ、その場所で、新しい命は、生まれない。家族は、離れ離れになる。
けれど。
「原床が、もう一つ、見つかれば」
僕は、小さな声で言った。
「出かけても、帰ってこられる家が、できる。ホルストさんの娘さんも、遠い産院まで、運ばれなくて済む」
「あったらいいね」
ミラが、言った。
イヴォは、何も言わなかった。ただ、地図の余白の、三つの建物を、じっと見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……これ、ずっと、ここに、置いておこう」
「この地図を?」
「財布と、一緒に。毎週、開いて、確かめる」
僕は、頷いた。
三人の頭が、一枚の地図の上で、近づいた。暖炉の火が、小さな家の輪郭を、橙色に照らしている。
袋の口を、閉じた。
財布の中には、銀貨八枚と、借金の証文が、一枚だけ入っていた。




