第8話 〈セス〉生誕方位の欄
出生記録は、横に長い帳面だった。
日付、時刻、母の名、子の名、そして、一番右に、「生誕方位」という欄がある。生まれた赤ん坊が、最初の産声を上げたときの、顔の向きだ。
僕は、その欄を、小さいころから何度も見ていた。
頭方。頭方。頭方。頭方。
頁をめくっても、同じだった。ひと月ぶんをさかのぼっても、一年ぶんをさかのぼっても、右端の欄は、同じ二文字で埋まっている。
学校の見学で、この帳面を写したことがある。そのときも、同じ字を、何十回も書いた。書き写しながら、思った。なぜ、全員が同じなのか。偶然にしては、整いすぎていた。
けれど、先生は「そういうものです」としか言わなかった。誰も、それ以上は訊かなかった。
「セス」
母が、帳面を閉じた。
「ホルストさんの娘さんは、今日から、この産院で過ごす」
「荷台の奥にいた、あの方ですね」
「ええ。リネンの村から、連れてきたの。八か月目に入ったから」
僕は、椅子の男を見た。
ホルストは、まだうつむいていた。その背中の向こう、荷台の奥で、若い女性が毛布をはずして、ゆっくりと立ち上がるところだった。
大きなおなかを、両手で抱えている。顔色は悪くない。ただ、目が、落ち着かずに動いていた。
原床は、運べない。
人は、安定した地層の上でしか、生まれられない。それが、この世界の決まりだ。オルネアの地面の下にだけ、その条件を満たした層がある。だから、遠くの村に住む妊婦は、出産の少し前に、この町に移ってきて、産院で待つ。
生まれたあとは、また、帰る。
その間、家族は、離れ離れになる。
母が、にこやかに言った。
「ホルストさん。娘さんの部屋は、二階の東です。窓から、市場が見えます」
「……ありがとう、ございます」
男の声は、かすれていた。
娘が、荷台から降りてきた。父親の横に、並んで立つ。二人とも、何も言わない。ただ、父親の指が、娘の袖の端を、そっとつまんでいた。
僕は、その様子を見ないようにして、袋を抱えた。
運び込む。受取証に、印をもらう。数を数える。四分の計画は、すっかり崩れていた。それでも、手を動かしているほうが、気が楽だった。
「あなたが、ベスの息子さん?」
後ろから、声がした。
振り向くと、見覚えのある女性が立っていた。動きやすい作業着、背中に細い背嚢、腰に巻いた地図入れ。髪を、後ろでひとつに縛っている。
「ライサ先輩」
「久しぶり、セス。あ、ちょっと、足、見せて」
ライサ・ペンは、二十歳。実習院の先輩で、僕と同じ無才だ。現場に出る隊の帰還率を、誰よりも気にする人だ。「帰還率の鬼」と、後輩たちは呼んでいる。
彼女は、僕の返事を待たずに、しゃがみ込んだ。
靴を、じっと見る。
「……左の外側の減りが速い。昨日、斜面を走ったでしょう」
「はい。丸太の件で」
「聞いた。でも、これは、昨日一日の減り方じゃない。普段から、左をかばってる」
僕は、言葉に詰まった。
確かに、半年ほど前から、左の足首が、少しだけ痛む。誰にも言っていなかった。
「無才の人間は、足を壊したら、終わりよ」
ライサは、淡々と言った。
「魔力で補えない。自分の足で歩いて、自分の足で帰るしかない。だから、足だけは、誰よりも大事にしなさい。靴底は、嘘をつかない」
「……はい」
「靴、直しておく。明日、寮に持っていく」
それだけ言って、ライサは立ち上がった。僕の肩を、ぽん、と叩く。
彼女が去ったあと、足元の石畳に、小さな影が落ちた。
見上げると、ホルストが、娘と一緒に、産院の入口へ向かうところだった。
娘は、一度だけ、振り向いた。
「お父さん」
小さな声だった。
「うん」
ホルストは、それだけ答えた。手を振らなかった。ただ、立ち止まって、娘が階段を上るのを、見ていた。
扉が、閉まった。
男は、しばらく、動かなかった。それから、何もなかったみたいに、荷馬車へ戻ってきた。
僕は、その背中を、見送った。
「トビーさん」
御者に、声をかけた。
「帰りの便は、何時ですか」
「そろそろ出すぜ。学生さんも乗るかい」
「はい」
僕は、鞄を荷台に載せて、自分も乗り込んだ。
荷台は、行きよりも広く感じた。麻の袋が、ほとんど降ろされたせいだ。ホルストは、袋の山の陰に、小さく座っていた。
その隣の席が、ぽっかりと空いていた。
行きは、そこに、彼の娘が座っていた。
帰りの馬車の座席が、一つだけ、空いていた。




