↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/30

第5話 水門番との交渉

 村の水門は、橋から下流へ三百歩ほどの場所にあった。

 石を積んだ低い堰で、真ん中に木の板が何枚も重ねて落としてある。堰の手前は、大きな水たまりになっていた。ブランという名前の水門番は、その水たまりを「取水池」と呼んでいる、と後で知った。

 堰の向こうには、細い水路が何本も、扇みたいに畑のほうへ伸びていた。夕方になると、あの水路に水が回るのだろう。麦畑の緑が、遠くまで続いている。

 俺とミラが着いたとき、セスはもう、水門番と向き合っていた。

 水門番は、七十ぐらいの老人だった。日に焼けた顔は、皺の中に目が埋まっている。手には、長い鉤のついた竿を握っていた。足元の木の板は、何度も張り替えた跡で継ぎはぎだ。

「だから、できんと言っとる」

「できます。やり方を、言います」

 セスは、懐から折りたたんだ紙を出して、泥のついた石の上に広げた。そこに、鉛筆で簡単な線が引いてあった。川、橋、堰、取水池。丸太の数。

「丸太は、三十本前後。あと十分ほどで、ここに着きます。水門を閉めたままだと、丸太が板に詰まって、割れます。開けっ放しにすれば、丸太が下の田の水路へ流れ込む」

「そんなことは、わしが一番知っとる」

 老人の声は、嗄れていた。

「去年の夏は、この堰の板が、半分しか動かんかった。水が足りんで、畑が三つ、枯れた。今年は、一滴も無駄にしたくない」

 セスは、その話を遮らなかった。うなずきながら、聞いていた。聞き終わってから、静かに口を開いた。

「だから、第三の方法を提案します。余水路を開けて、水の勢いを、取水池に逃がします」

 老人の目が、動いた。

「取水池に?」

「はい。池に丸太を誘い込んで、そこで岸へ上げる。池の水位は、一時的に下がります。ですが、堰の板は無傷のまま。田の水路にも、丸太は入りません」

 俺は、後ろで聞いていて、息を止めた。

 セスの声は、落ち着いていた。恐れも、焦りも、ほとんど出ていなかった。ただ、言葉の一つ一つが、石を並べるみたいに、順番に置かれていく。

 水門番は、紙を見下ろして、長いあいだ黙っていた。

 それから、顔を上げた。

「若造。魔力は、あるのか」

「いいえ。一滴も」

「ほう」

「剣の人も、術の人も、あとから来ます。僕は、数えるのと、頼むのが仕事です」

 老人は、ふん、と鼻を鳴らした。

 ミラが俺の袖を引いて、小声で言った。

「ねえ、あの子、すごいね。あなたのお友達?」

「今日、はじめて会った」

「私も、さっき会った」

「へえ。じゃあ、三人とも、今日はじめましてなんだ」

 ミラは、ちょっと笑った。

 俺は笑えなかった。丸太が、もうすぐここへ来る。そして、この老人は、自分の水門を、見も知らない若造に任せようとしている。

 セスは、紙の端に、さらにいくつか線を足した。池の縁に丸い印。その横に、「イヴォ」と、「ミラ」と、小さく書いてある。

「僕は、数える役。君たちの配置は、さっき走りながら決めた。無理なら、言ってくれ」

「いつ決めた」

「橋の方向に走りながら。三人とも、ぎりぎりまで走れる場所を探した」

 あの短い距離で、そこまで考えていたのか。

 剣を一回しか振れない自分が、恥ずかしいと思っていた。けれど、セスの紙の上では、俺の名前は、ちゃんと一つの役のところに、収まっていた。余分な場所ではなかった。

「夕の水やり」

 水門番が、ぽつりと言った。

「日没前に、四十軒の田に水を回す。それが、わしの仕事だ。池が空になれば、間に合わん」

「日没までに、水位を戻します」

「どうやって」

「余水路を閉めて、川の流れをもう一度、池に入れます。池が満ちるまでに、およそ半刻。丸太を片付ける時間と、合わせて足りるはずです」

 老人は、竿の先で足元の板を軽く突いた。

「足りんかったら」

「足りなかったら、僕らが責任を取ります」

「責任か」

 老人は、ゆっくりと、俺とミラと、セスを順に見た。

 その視線は、思ったよりも、ずっと、人間くさかった。

 疑っている目ではなかった。値踏みしている目でもなかった。自分の守ってきたものを、他人に預けるときの、重みを量っている目だった。

「よし。やってみせろ」

 老人は、そう言った。

 セスが、小さく息を吐いた。

「ありがとうございます。条件を、聞かせてください」

 セスの声が、ほんのわずかに震えていた。俺は、そのとき初めて気づいた。あの落ち着いた声は、足の震えを、押し込んで出していたのだ。

「条件は、二つ」

 水門番は、鉤竿の先で、取水池の水面を指した。

「ひとつ目は、日没までに、全部、片付けること」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。