第4話 止めるな、逃がせ
橋まで、百歩と少し。
走りながら、数えた。俺の足と、ミラの足と、斜面を落ちる丸太のうち、どれが一番速いのか。
丸太だ。
先頭の何本かは、もう草地の端まで来ていた。後ろの群れは、石に当たるたびにばらけて、また集まる。ごろごろという低い音が、靴底から膝へ上がってくる。
橋が見えた。
近くで見ると、ひどく頼りなかった。川幅は十歩ほどで、水の色は茶色く濁っている。流れは緩いが、深い。杭の根元には、水草が絡みついていた。
朝に子どもたちが、桶を提げてここを渡るのだ。笑いながら、きっと、何も考えずに。
幅は、人が二人並んで歩けるくらい。長さは、川幅と同じで十歩ほど。両側に太い杭が三本ずつ立っていて、杭と杭のあいだに手すり綱が渡してある。村の子どもが朝に水を汲みに渡る橋だ、とガランは昨日言った。その橋が、いまは、すごく細く見えた。
「右!」
ミラが叫んだ。
「右の端の杭の外側。そこ。橋に当たる前に、剣を差し込んで」
俺は言われた場所へ滑り込んだ。杭の外側は、草の斜面が川へ落ちている。足場は悪い。膝をついて、剣を鞘ごと抜いた。鞘のまま使うほうが、長さが稼げる。刃が傷まない。
少し離れた左の杭では、ミラが膝を落として、糸を杭に回していた。
太い杭に二周。地面に打った小さな石の釘に、さらに二周。手首に巻いたぶんを、指一本ずつ、確かめるように引く。
「三秒」
ミラは、自分に言い聞かせるように言った。
「長さは、足りる。杭は、一度だけなら持つ」
先頭が来た。
太い丸太だった。大人の胴ほどある。石に当たって一度だけ跳ね、それから、まっすぐに左の杭を狙った。
「来る。数えて。一、二、」
ミラが息を吸った。
その瞬間、丸太が杭に当たった。
音が、短かった。
重い音だった。杭が、ぎしりと鳴って、橋全体が震えた。手すり綱が弾けて、水しぶきが上がる。ミラの糸が、青く光った。光は、杭から地面の釘へ走って、そこで消えた。
三秒。
丸太は、杭に斜めに当たったまま、止まっていた。
俺は、息を吐いた。
けれど、その横を、二本目が抜けていった。
「右!」
来た。
二本目、三本目が、橋のたもとを狙って転がってくる。左の杭は、ミラの糸でいま、ふさがっている。右へ、細い隙間が空いていた。
鞘の先を、丸太の下へ差し込んだ。
重い。体の骨が全部きしんだ。足を踏ん張る。かかとが浮く。尻の下の草が滑る。
梃子だ。
剣の長さを使って、下から押し上げる。丸太がわずかに浮いた。浮いたところで、肩を入れる。力を、前へ。川のほうへ。
「行けっ」
丸太が、くるりと向きを変えた。
橋のたもとを、すれすれに外れて、川へ落ちた。大きな水しぶきが上がって、俺の顔を叩いた。冷たかった。
続けて、三本目。四本目。
押して、逃がして、押して、逃がす。
六本目で、足が滑った。
靴の裏が草の上を走って、体が川のほうへ傾いた。冷たい水の匂いが、鼻の前まで来た。手を伸ばしたとき、手すり綱が、指に触れた。握った。綱が、ぎりぎりと鳴って、俺の体重を受け止めた。
引き上げるまでの数秒間、心臓の音しか聞こえなかった。
「大丈夫?」
ミラの声が、遠くから届いた。
「大丈夫だ」
嘘だった。けれど、足は動いた。動くなら、まだ続けられる。
倒すことは、一回しかできない。けれど、押すことなら、何度でもできた。刃気がなくても、足と腕と、剣の長さがあれば。
斜面の上から、ガランがこちらを見ているのが分かった。腕を組んだまま、一歩も動いていない。助けに来ない。俺たちの手が、まだ届いているからだ。それが悔しくて、同時に、少しだけ誇らしかった。
気づくと、橋は、まだ立っていた。
丸太の群れは、橋を避けるようにして、川へ次々と落ちていった。水面が、茶色い丸太で埋まる。流れに乗って、ゆっくりと下流へ向かい始める。
左の杭の前で、ミラが座り込んでいた。
糸が、灰色になっていた。さっきまで青く光っていた糸が、枯れた草みたいに力なく垂れている。ミラの指は、小さく震えていた。
「……終わり」
ミラは、そう言った。
「三秒。ちゃんと、三秒、持った」
「笑ってない」
「うん。見てた。ありがと」
ミラは、少しだけ笑った。それから、自分の震える指を見て、眉を寄せた。
「私、あんまり、止められないんだ。大きいのは。だから、止めるのは一本だけって決めてる」
「一本で、足りたよ」
「足りてないでしょう。見てよ」
ミラは、川のほうを顎で示した。
丸太の群れは、橋の下をくぐって、もう下流へ流れ出していた。
俺たちが止めたのは、あの中の、ほんの数本だ。残りは全部、川の流れに乗って、ゆっくりと、けれど確実に、まっすぐ、水門へ向かっていく。




