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獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


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第3話 別の班の三秒

 足音が、斜面の横から近づいてきた。

 振り向く前に、声が先に届いた。

「うわ。ほんとに全部、転がってる」

 若い女の声だった。軽い。祭りの見物にでも来たみたいな調子なのに、足の運びだけは少しも遊んでいない。

 斜面の岩場を、跳ぶように降りてきたのは、俺たちと同じ実習生の制服の少女だった。俺より頭ひとつ小さい。袖を肘までまくって、左の手首に細い糸を何重にも巻いている。糸は、光の加減で、ほんのり青く見えた。

「隣の窪地から見えたの。山が崩れたみたいだったから。誰の班?」

「俺の。ルーク。剣の班だ」

「ミラ・ヴェン。術の班。……って言っても、術の実習は一人ずつだから、班じゃないか」

 ミラは言いながら、もう丸太の群れを見ていた。目だけが、冗談を言っていなかった。

 斜面の下では、丸太が相変わらず、ごろごろと転がっている。さっきより、少し速い。傾きが、川に近づくほどきつくなるからだ。

 俺の喉が、からからに乾いていた。足の裏に、まだ丸太の重みが残っている。やってしまったことの大きさが、いまになって、膝から上がってくる。

「ヴェン」

 ガランが、低く言った。

「持ち場を離れたな」

「あとで叱られます。いまは橋でしょう、教官」

「……手を出すなら、自分の責任で出せ。俺が止める条件は、まだ満たしていない」

 ガランはそれだけ言って、腕を組み直した。許可なのか、突き放しているのか分からなかった。

 ミラは、にっと笑った。

「了解。で、ルーク君。橋まで、あと何歩?」

「僕が数えてる」

 セスが、息を整えながら言った。

「百と少し。丸太の速さなら、三十数える間もない」

「三十もあるんだ。優しい」

 ミラは手首の糸を、一本ほどいた。指に絡める動きが速い。

「全部は止められないよ、私。術が持つのは三秒だけだから」

「三秒」

「そう。それ以上は、持たない。あなたは?」

 俺に向けられた問いだった。

 ミラが手首に巻いているのは、術糸(じゅつし)という。術才の者だけが、ほんのりと光らせることができる細い糸だ。巻いた量が、その人の力の量だと聞いたことがある。ミラの糸は、周りの術の実習生に比べて、ずっと細かった。

「三秒で、何ができる」

 つい、訊いてしまった。失礼な質問だ、と言ったあとで気づいた。

 ミラは、気を悪くした様子もなく、肩をすくめた。

「杭の根元を、土ごと固めるくらい。あとは杭の強さ次第」

「それだけ」

「それだけ。でも、橋の杭が三秒だけ強くなれば、その三秒のあいだ、橋は落ちない。大きい術は撃てないけど、三秒ぶんだけ、世界を少し固くできるの」

 誇るでもなく、恥じるでもなく、そう言った。

 剣一回の奴と、術三秒の奴。余り者、という言葉が頭に浮かんだ。けれど、目の前の少女は、その言葉を、少しも気にしていないように見えた。

「刃気は、もうない。一回で終わりだ」

「ふうん」

 ミラは笑わなかった。驚きもしなかった。ただ、足の先から頭まで、俺を一度だけ見た。

「じゃあ、走る係ね。あなたの足、速そうだし」

「走って、何をする」

「橋の右の杭に着いて。丸太が橋に当たりそうになったら、剣で押し返す。刃じゃなくて、梃子として」

「梃子」

「剣は、長いでしょう。長いものは、梃子になる。刃気がなくても」

 言われて初めて、気づいた。俺は剣を、斬るものとしか見ていなかった。

 セスが、紐の端を腰に結び直した。

「僕は、水門へ行く」

「え?」

「丸太が川に入ったら、止められる場所はあそこだけだ。水門を閉じれば詰まって板が割れる。開けっ放しなら、下の田に流れ込む。どっちにしても、水門番と話さないと始まらない」

 セスはもう半分走り出していた。魔力のない背中が、小さくなっていく。

「頼んだ。ルーク、君は右だ。ヴェンさんは?」

「左」

 ミラは短く答えた。

「橋の杭は三本ずつ。いちばん太い左の杭に、先頭が来る。あれを折られたら橋が落ちる。落ちたら、全部おしまい」

 ミラは、手首の糸をぐるりと指に巻き取った。

「折れないようにするのが、私の仕事。終わったら、たぶん、私は座るから。そのとき、笑わないで」

「笑わない」

「うん。じゃ、行こう」

 走り出す前に、ミラは振り向いた。

「あなたの一回は、もう使い終わったんでしょう。でも、使い終わったあとも、仕事はあるよ」

 それだけ言って、ミラは斜面を駆け降りた。

 俺は、剣の柄を握り直した。刃が光らない。ただの、長い鉄の棒だった。

 それでいい、と思った。それがいま、一番いい。

 橋まで、百歩と少し。

 隣で、ガランが小さく言った。

「全部を止めようとするな、ルーク」

「分かってます」

 本当は、分かっていなかった。けれど、ミラが振り向きざまに残した言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 全部は止めない。止めるのは、一本。

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