第2話 倒した鹿が丸太になったので、全部川に流れていった
鹿は、もういなかった。窪地のふちには、蹄の跡が二つ、浅く残っているだけだ。
きれいな丸太だった。太さがそろっている。皮の下は薄い黄色で、よく乾いていて、たぶん梁に使える。三十本はある。ひと山で、小さな家なら一軒ぶんの柱が立つ。
助かった、と思った。
ガランは窪地の底で、と言った。俺は、そこで斬ると決めていた。決めていたことと、やったことが、ずれた。それが胸の奥に、小さな石みたいに引っかかった。ずれたのは鹿のせいだ、と言い訳を探しかけて、やめた。
セスは腰を抜かして、杭の横に座り込んでいた。顔色は悪いが、角に刺されてはいない。
「イヴォ」
「……やった」
「やった、じゃなくて」
セスの目は、俺ではなく、俺の足元を見ていた。
その時だった。
足元が、動いた。
土ではない。丸太だ。一番上に積み重なっていた一本が、ずるりと滑って、俺のブーツの先に当たった。
とっさに靴底で受けた。かかとが浮いた。ものすごく重い。木の重さだった。
「うわ」
跳んで、避けた。
丸太が、かかとのあった場所を転がっていった。踏み込みが半歩遅れていたら、足の甲が潰れていた。
ごとり、と重い音がした。続けて、ごとり、ごとり。木と木が打ち合う、乾いた、硬い音だった。生き物が立てる音じゃない。さっきまで鹿だったものが、もう物として、斜面の上で好き勝手に動いている。
一本が転がり出すと、あとは早かった。山の下のほうの何本かが、ずれる。ずれたものが、隣を押す。丸太は、鹿が立っていた窪地のふちの、その傾きのいちばんきつい側に積まれていた。
俺が、そこで斬ったからだ。
「止めろ!」
誰が言ったのか分からなかった。たぶん、俺だった。
止められなかった。
丸太が、一斉に転がり出す。
数えられない。二十本か、三十本か。一本一本は、大人が両腕で抱えるくらいの太さだ。それが川へ向かって、勢いをつけて落ちていく。
草が伏せる。土が削れる。一本、また一本、斜面を川へ向かって走っていく。ごろごろ、という低い音が、足の裏から腹へ上がってくる。
まっすぐな、いい梁になるはずの一本が、途中で大きな石に当たった。
丸太は、くるりと向きを変えて、横になった。
その一本に、後ろから来た三本がぶつかった。四本は、絡まって、さらに速くなった。
俺はもう走っていた。
走りながら、数えた。丸太の本数。川までの歩数。小橋の幅。数字は、全部悪かった。
どこへ行くのか、自分でも分かっていなかった。ただ、足が先に動いた。斜面の下へ、丸太を追って。
背中のほうで、ガランの声がした。
「止まれ、ルーク!」
止まった。
息が上がっていた。心臓が、耳のすぐ裏で鳴っている。足の裏にはまだ、丸太の転がる音が残っていた。
斜面の下は、遠かった。川が見える。細い、きらきらした線。その手前に、茶色い丸太の群れが、帯みたいに伸びていく。
あの小橋は、村の子どもが朝に水を汲みに渡る橋だと、昨日の説明で聞いた。水門は、その下流で畑へ水を分ける。橋が潰れれば人が困る。水門が塞がれば、田が干上がる。
倒せた。それは確かだ。けれど、倒すことと、倒したあとを持つことは、別の仕事だった。
朝にガランが言った言葉を、思い出した。倒すのは最初の半分。あとの半分は、倒れたものをどこへ置くか。
俺はまだ、最初の半分しか終わらせていない。それも、決めた場所とは違う場所で。
ガランが、俺の横に立っていた。いつの間に来たのか分からなかった。
「人は無事か」
「はい。セスも、俺も」
「なら、介入の条件は満たしていない」
つまり、ここから先は俺たちの仕事だ、という意味だった。
ガランは、短く言った。叱っているのでも、褒めているのでもなかった。
「ルーク。追うな」
「でも」
「追えば、お前も丸太の行き先に入る。まず見ろ。何がどこへ行くのかを」
言われたとおりに、見た。
先頭の三本は、もう川の手前の草地まで来ていた。後ろの群れは、石に当たるたびに向きを変え、少しずつ小橋のほうへ寄っていく。橋の杭は、細い。丸太が一本でも横から当たれば、折れそうに見えた。
セスが、よろよろと追いついてきた。紐の端を握ったまま、顔を上げる。
「川まで、二百二十歩……」
セスは、紐の先の錘が揺れるのを見ながら、続けた。
「丸太の速さは、人が走るくらい。橋まで、三十数える間もない」
三十。数えるだけで、息が詰まりそうな数字だった。
つぶやきの続きは、俺にも分かった。
川の手前に、歩道の小橋がある。そのさらに下流には、村の水門がある。
丸太は、まっすぐ、そこへ向かっていた。




