↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/28

第2話 倒した鹿が丸太になったので、全部川に流れていった

 鹿は、もういなかった。窪地のふちには、蹄の跡が二つ、浅く残っているだけだ。

 きれいな丸太だった。太さがそろっている。皮の下は薄い黄色で、よく乾いていて、たぶん梁に使える。三十本はある。ひと山で、小さな家なら一軒ぶんの柱が立つ。

 助かった、と思った。

 ガランは窪地の底で、と言った。俺は、そこで斬ると決めていた。決めていたことと、やったことが、ずれた。それが胸の奥に、小さな石みたいに引っかかった。ずれたのは鹿のせいだ、と言い訳を探しかけて、やめた。

 セスは腰を抜かして、杭の横に座り込んでいた。顔色は悪いが、角に刺されてはいない。

「イヴォ」

「……やった」

「やった、じゃなくて」

 セスの目は、俺ではなく、俺の足元を見ていた。

 その時だった。

 足元が、動いた。

 土ではない。丸太だ。一番上に積み重なっていた一本が、ずるりと滑って、俺のブーツの先に当たった。

 とっさに靴底で受けた。かかとが浮いた。ものすごく重い。木の重さだった。

「うわ」

 跳んで、避けた。

 丸太が、かかとのあった場所を転がっていった。踏み込みが半歩遅れていたら、足の甲が潰れていた。

 ごとり、と重い音がした。続けて、ごとり、ごとり。木と木が打ち合う、乾いた、硬い音だった。生き物が立てる音じゃない。さっきまで鹿だったものが、もう物として、斜面の上で好き勝手に動いている。

 一本が転がり出すと、あとは早かった。山の下のほうの何本かが、ずれる。ずれたものが、隣を押す。丸太は、鹿が立っていた窪地のふちの、その傾きのいちばんきつい側に積まれていた。

 俺が、そこで斬ったからだ。

「止めろ!」

 誰が言ったのか分からなかった。たぶん、俺だった。

 止められなかった。

 丸太が、一斉に転がり出す。

 数えられない。二十本か、三十本か。一本一本は、大人が両腕で抱えるくらいの太さだ。それが川へ向かって、勢いをつけて落ちていく。

 草が伏せる。土が削れる。一本、また一本、斜面を川へ向かって走っていく。ごろごろ、という低い音が、足の裏から腹へ上がってくる。

 まっすぐな、いい梁になるはずの一本が、途中で大きな石に当たった。

 丸太は、くるりと向きを変えて、横になった。

 その一本に、後ろから来た三本がぶつかった。四本は、絡まって、さらに速くなった。

 俺はもう走っていた。

 走りながら、数えた。丸太の本数。川までの歩数。小橋の幅。数字は、全部悪かった。

 どこへ行くのか、自分でも分かっていなかった。ただ、足が先に動いた。斜面の下へ、丸太を追って。

 背中のほうで、ガランの声がした。

「止まれ、ルーク!」

 止まった。

 息が上がっていた。心臓が、耳のすぐ裏で鳴っている。足の裏にはまだ、丸太の転がる音が残っていた。

 斜面の下は、遠かった。川が見える。細い、きらきらした線。その手前に、茶色い丸太の群れが、帯みたいに伸びていく。

 あの小橋は、村の子どもが朝に水を汲みに渡る橋だと、昨日の説明で聞いた。水門は、その下流で畑へ水を分ける。橋が潰れれば人が困る。水門が塞がれば、田が干上がる。

 倒せた。それは確かだ。けれど、倒すことと、倒したあとを持つことは、別の仕事だった。

 朝にガランが言った言葉を、思い出した。倒すのは最初の半分。あとの半分は、倒れたものをどこへ置くか。

 俺はまだ、最初の半分しか終わらせていない。それも、決めた場所とは違う場所で。

 ガランが、俺の横に立っていた。いつの間に来たのか分からなかった。

「人は無事か」

「はい。セスも、俺も」

「なら、介入の条件は満たしていない」

 つまり、ここから先は俺たちの仕事だ、という意味だった。

 ガランは、短く言った。叱っているのでも、褒めているのでもなかった。

「ルーク。追うな」

「でも」

「追えば、お前も丸太の行き先に入る。まず見ろ。何がどこへ行くのかを」

 言われたとおりに、見た。

 先頭の三本は、もう川の手前の草地まで来ていた。後ろの群れは、石に当たるたびに向きを変え、少しずつ小橋のほうへ寄っていく。橋の杭は、細い。丸太が一本でも横から当たれば、折れそうに見えた。

 セスが、よろよろと追いついてきた。紐の端を握ったまま、顔を上げる。

「川まで、二百二十歩……」

 セスは、紐の先の錘が揺れるのを見ながら、続けた。

「丸太の速さは、人が走るくらい。橋まで、三十数える間もない」

 三十。数えるだけで、息が詰まりそうな数字だった。

 つぶやきの続きは、俺にも分かった。

 川の手前に、歩道の小橋がある。そのさらに下流には、村の水門がある。

 丸太は、まっすぐ、そこへ向かっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。