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獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


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第1話 窪地の底で斬る、はずだった

 この世界では、魔物を倒すと土地になる。

 鹿を倒せば丸太の山に。岩でできた百足を倒せば、川をまたぐ橋に。子どもでも知っている話だ。

 けれど、知っているのと、目の前でやるのとでは、まるで違った。

 腰の剣は、母が工房で直してくれた中古だった。柄の巻き革だけが新しくて、そこだけ手のひらにまだ馴染まない。

 実習初日の課題は単純だった。角木鹿(つのきじか)を一頭、窪地で倒す。それだけだ。

「いいか。倒すのは最初の半分だ」

 教官のガラン・ヘイルは、腕を組んだまま言った。斜面の上、俺たちから三十歩ほど離れた岩の陰が、この人の立ち位置だった。

「あとの半分は、倒れたものをどこへ置くかだ。今日はそこまで見る。人が角に届きそうになったら、俺が出る。それまでは口を出さん」

「はい」

 返事をしたのは、俺とセスの二人だ。

 セス・エイヴェルは、俺より一つ年上で、魔力がまったくない。剣も術も使えない代わりに、首席で入学した男だった。今は斜面に細い測量杭を打ち、紐の先に錘を下げて、何かを数えている。

「窪地の底から川まで、二百二十歩」

 セスは紐を見たまま言った。

「斜面は川へ向かって下がってる。尾方(おがた)の川へまっすぐだ。途中の傾きは、ここからが一番きつい」

「ここ、ね」

 俺は自分の足元を見た。窪地のふちだった。草が短く、土は乾いている。足の裏が、わずかに川のほうへ引かれる。

「倒すなら窪地の底がいい。そこなら、出てきたものが溜まって動かない」

「分かってる。底で斬る」

「イヴォ。何回振れる?」

「一回」

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

 俺の刃気(はき)は、一太刀ぶんしか続かない。二太刀目は、剣に乗らない。同期の連中は、三回でも四回でも振る。入学前の検査で、そう分かっていた。

 セスは笑わなかった。杭に紐を結び直して、「じゃあ、一回で足りる場所を選ぼう」とだけ言った。

 それがありがたくて、俺は、斜面の下を向いたまま黙っていた。

 鹿は、昼前に来た。

 角木鹿は、名前のとおり、角から木が生える。枝分かれした角のあちこちに、手のひらほどの若葉がついていた。体は馬より小さい。茶色い毛並みで、肩の高さは俺の胸までだ。群れから外れた一頭を、教官たちが昨日のうちに窪地へ追い込んでおいた。

 鹿は草を食んでいた。

 俺は息を止めて、肩の付け根を見た。

 留め輪(とめわ)は、そこに出る。毛の下の筋が、年輪みたいに重なっている。獣の包核(ほうかく)を留めている輪だ。外側から順に切らなければ、核は止まらない。無理に奥だけを割れば、獣は暴れて、そのあと何にもならなくなる。

 数える。

 一つ。二つ。

 二つだ。小さな個体で助かった。外の輪と内の輪を、一本の線で貫く角度が見える。肩の上から、少し斜めに。

「二つ」

 小さく言うと、セスが紐から手を離した。

「窪地の底に入るまで、あと十歩」

「待つ」

 待った。鹿は草を一口食み、また一口食んだ。窪地の底へ、ゆっくりと降りてくる。

 背中を、汗が一筋、伝った。

 同期の連中は、今ごろ別の窪地で、三人ひと組になって派手に斬っているだろう。ラウルなんかは、一人で二頭でも涼しい顔で倒すはずだ。こっちは、たった一回。外せば終わり。

 いや、違う。外さなければいい。

 それだけのことだ、と自分に言い聞かせた。

 あと八歩。

 あと六歩。

 その時、風向きが変わった。

 鹿が顔を上げた。

 セスの打った杭の先で、錘が日を弾いた。光だった。小さな銀色の点が、鹿の目の中で揺れた。

 鹿は、窪地の底へ降りてこなかった。

 足を止めて、杭のほうへ首を向けた。角が低く下がる。

「セス。下がれ」

「杭が」

「いいから」

 鹿が走り出した。

 窪地の底ではなく、ふちを走った。つまり、俺たちの立っている斜面のほうへ、まっすぐに。角の先が、セスの腰の高さで揺れた。

 岩の陰で、ガランが一歩、体を前に出すのが見えた。

 間に合うかどうか、ぎりぎりだった。

 俺は、教わった順番を全部やめた。窪地の底で斬る。そう決めていたのに、鹿はもう、底にいなかった。

 位置も、足場も、ここしかない。

 窪地のふちに、斜面の上。川へ向かって、傾いている土の上。

 一回しか振れない。

 だったら、今だ。

「丸太」

 成り名を言った。

 鹿の名は呼ばなかった。呼ばないのが作法だ。倒した後に「なるもの」の名を先に口にする。そうすれば、斬った切り口から開くものが、その名の形になる。

 刃気が、剣に集まった。

 肩の上から、少し斜めに。

 外の輪。内の輪。

 手の中で、二つ、はっきりと切れた感触があった。

 鹿の膝が折れた。

 角の若葉が、そのまま止まった。鹿の目から色が引いた。胸の奥で、何かが「止まる」音がした。耳ではなく、足の裏で聞いた。

 最初の一本が、鹿の背から押し出されてきた。

 乾いた木口が、毛皮の下から、ごとん、と音を立てて抜ける。

 二本目。三本目。

 鹿の体が、ほどけていく。毛が木の皮に変わり、骨が芯に変わる。角のあった場所からは枝の束が突き出して、あっという間に、そこには丸太の山ができていた。

 ずるり、と。一番上の一本が、動いた。

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