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獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


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第27話 〈セス〉響洞熊の標本

 実習用の標本は、貸し出し申請が要る。

 僕は、ガラン教官の署名入りの許可証を持って、再び実習院の標本室に降りた。手袋をはめ、番号札を受け取って、棚の間を進んでいく。

 目当ての標本は、一番奥にあった。

 響洞熊。

 洞窟に棲む、大型の素材獣だ。成体は、人の背丈の倍近くある。鳴き声が、洞窟の壁に反響して、遠くまで響くので、その名がついた。

 標本は、全身の骨と、一部の内臓の断面を、ガラス板に挟んで、並べたものだった。

 骨格は、すでに石灰化している。内臓は、薄く切って、透明な樹脂で固められている。その断面が、七枚、一列に並んでいた。

「ここで、ずっと見てていいの?」

 隣で、ニアが、小声で言った。

 彼女は、僕に付き添って、標本室に入ってきていた。管理人の老婦人が、彼女に、手袋を三つ、渡した。「あんた、手が汚れてるからね」と、一言添えて。

「ええ。時間が、かかります」

「分かった。静かにしてる」

 彼女は、棚の横の椅子に、ちょこんと座った。

 僕は、ガラス板の一枚を、台の上に置いて、拡大鏡を当てた。

 最初の断面は、心臓の近くの、太い管の輪切りだった。

 管の壁は、薄い層が、何重にも重なっている。その層の中を、細い筋が、斜めに、びっしりと走っている。

 僕は、息を止めた。

 ハッチングに、似ている。

 あの古い地図の、短い線の群れ。斜めに、細かく、びっしり。流れるように、並んだ線。

 偶然だろうか。

 僕は、ノートに、古い地図の線の、角度と間隔を、写してきていた。それを、標本の断面の隣に、並べて、見比べる。

 断面の筋の角度。三十七度。

 地図の短い線の角度。三十七度。

 間隔。〇・四ミリ。

 間隔。〇・四ミリ。

 鉛筆が、紙の上で、止まった。

「セス?」

 ニアが、立ち上がって、横に来た。

「どうしたの」

「ニア。この断面を、見てください」

「……線?」

「地図のハッチングと、比べてください」

 ニアは、僕のノートと、標本を、交互に見た。

 しばらくして、彼女の目が、大きく見開かれた。

「一緒だ」

「ええ」

「角度も、間隔も、同じ。うそでしょう」

「別の断面も、見ます」

 僕は、次の板を、台に置いた。

 二枚目。三枚目。四枚目。

 どの断面にも、同じ種類の筋が、走っていた。ただ、角度が、少しずつ、変わっていく。血管の太さが、変わるにつれて、筋の傾きも、変わる。その変化の仕方が、古い地図の、ハッチングの角度の変化と、完全に、一致していた。

 地図の、短い線は、この動物の、内側の構造を、写している。

 そう、考えるしか、なかった。

「でも、これ、ありえなくない?」

 ニアが、小声で言った。

「だって、これ、二百年以上前の地図だよ。そのころ、誰が、熊の中身を、こんなふうに、細かく?」

「分かりません」

 僕は、正直に答えた。

「でも、もしかしたら、熊では、ないのかもしれません」

「え?」

「熊の、断面と、似ているだけで。もっと、別の、大きな、何かの内側かも」

 そのとき、背後から、静かな声が、聞こえた。

「それは、『未殺の彫線』と、呼ばれるものですよ」

 振り向くと、白髪の、細身の老人が、立っていた。

 図鑑院の、司書。ときどき、標本室に、本を戻しに来る人だ。眼鏡の奥の目が、静かに、僕の手元の地図を、見ている。

「みさつ、の、ちょうせん」

「古い、呼び方です。もう、ほとんど、誰も使わない」

 司書は、ゆっくりと、近づいてきた。

「生きている獣の、内側を、測って、描いた線。殺される前の、獣を、描いた図。それが、未殺の彫線」

「生きている、獣の」

 僕の声が、かすれた。

「ええ。通常の地図は、地面の形を、外から測る。『地面線』と言います。けれど、ごく稀に、獣の内側を、測った線が、記録に残っている。それが、『内腑線』」

 司書は、僕の地図の、短い線を、細い指で、そっと、なぞった。

「あなたが、いま、お持ちの地図の、その短い線。それは、おそらく、内腑線でしょう」

 頭が、真っ白になった。

 内腑線。生きた獣の内側を、測った線。

「これは、どこで、誰が」

「それは、私にも、分かりません」

 司書は、首を、静かに、横に振った。

「ただ、その地図の写しを、図鑑院で、見たことが、あります。原版は、もう、ない」

「どこに」

「分かりません」

 司書は、それだけ言って、静かに、背を向けた。

 扉が、閉まる音が、した。

 僕は、手の中の、古い地図を、見下ろした。

 地面の地図に、重ねて彫られた、内腑線。

 誰かが、この地図を、描いた。生きている、何か巨大なものの、内側を、測って。

 そして、それを、地面の地図の上に、彫り足した。

 なぜ。

 司書が、去り際に、ぽつりと言った言葉が、耳に、残っていた。

 未殺の彫線。

 司書は、その線を、そう、呼んだ。

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