第26話 〈セス〉版の継ぎ目
「どっちから、とは」
僕は、慎重に訊いた。
「二種類の線が、反対方向から彫られている、というのは、確かですか」
「確かだよ。私の目は、毎日、版を睨んでる。十歳のときから、ずっと」
ニアは、拡大鏡を、僕の手に握らせた。
「それなら、確かめましょう」
「確かめるって、どうやって」
「彫り跡の、削りカスの溜まり方です」
僕は、拡大鏡を、地図の上に、近づけた。
版画は、彫刻刀で、版木を削る。刃を滑らせた方向に、細かな削りカスが、押し出される。刷られた線の端を見れば、どちらから彫り始め、どちらで終えたか、分かる。線の始まりは、深く、太く。終わりは、浅く、細く、消えるように薄くなる。
最初に、滑らかな線を、見た。
右端が、太い。左端が、薄い。
右から、左へ。ニアの言うとおりだ。
次に、短い線。
左端が、太い。右端が、薄い。
確かに、反対だった。
「……確かに」
「ね」
ニアが、少し得意げに、言った。
「それで、もう一つ。ここ」
彼女は、地図の中央の、一本の太い線を、指さした。
滑らかな線のほうだ。その線の途中に、小さな、黒い点が、一つ、打ってある。
「継ぎ目」
「うん。二枚の版を、つなぎ合わせた、跡。この線は、二枚で、一本になってる」
「二枚?」
「古い版を、拡大するために、新しい版に彫り足した。そういう手法は、昔から、よくある。でも」
ニアは、短い線の群れの、一部を、さした。
「このハッチングだけは、継ぎ目が、ない」
「ない」
「ひとつの版に、最初から、最後まで、一気に彫ってる。しかも、すごく速く。迷いがない」
僕は、背中に、冷たいものが走るのを、感じた。
「つまり、あとから足された、ということですか」
「たぶん。ただ、いつ、誰が、というのは、分からない。彫り師の印が、どこにも、ない」
ニアは、紙の隅の、年号を指した。
盟約暦三八九。それより下に、小さな字が、もう一つ、あった。
五〇二。
「滑らかな線は、三八九年。ハッチングは、五〇二年。百十年以上、後に、足されてる」
「百十年」
「そのあいだに、誰かが、この地図を、見て、何かに気づいて、彫り足したんだと思う」
何に、気づいたのか。
僕は、拡大鏡の下の、短い線の群れを、じっと見た。
ほとんど、意味を持たない模様のように、見える。けれど、一本ずつ、見ていくと、それぞれが、ほんの少しずつ、角度を変えながら、重なっている。
流れている、ように、見えた。まるで、血の巡る管の中を、のぞいているような、不思議な感覚だった。
「ニア」
「うん」
「この短い線は、水脈を、表しているのでは、ありませんね」
「だと、思う」
「では、何を」
「分からない」
ニアは、肩をすくめた。
「でも、あなたの井戸の件と、関係があるかもしれないから、見せてくれたんでしょう」
「ええ」
「だったら、調べてみなよ。その線が、地上の、何と対応してるか」
僕は、地図を巻き直しながら、考えた。
この線は、水脈ではない。では、何を測っているのか。
地面だろうか。地面なら、地形図の等高線と、重なるはずだ。僕は、手元の、現在のオルネアの地形図を、広げた。
二枚の地図を、重ねる。
古い地図の、短い線。新しい地形図の、等高線。
窓の外の光に、透かして、見比べた。
重ならない。
どこも、重ならない。
一か所も、合わない。
山の位置も、川の位置も、台地の縁も。短い線は、すべて、地上の、どの地形とも、対応していなかった。
「……合わない」
「でしょう」
「何も、合わない」
「どうする、セス」
ニアが、訊いた。
「何と、合わせる?」
僕は、答えられなかった。
ただ、そのとき、思いついたことがあった。僕は、鞄から、真鍮の錘と、細い紐を、取り出した。それから、もう一つ、小さな振り子と、短い測量杭を。
いつも、予備として、持ち歩いているものだ。けれど、今日から、本当に、持ち歩くことに、決めた。
「あの線を、地面で、確かめます。数字では、なく、自分の足で」
「面白そう。私も、行く」
「え」
「刷りの仕事、いま、暇なんだ。手伝わせて」
ニアは、袖のインクを、ぱん、と叩いた。
「君の測量に、私の目が、あれば、鬼に金棒でしょう」
その言葉が、本気かどうか、僕には分からなかった。けれど、悪い気は、しなかった。
僕は、古い地図を、もう一度、広げた。
窓から差し込む、午後の光が、紙の上の、短い線の群れを、白く浮かび上がらせている。
流れるように、並んだ、小さな線たち。
僕は、そっと、呟いた。
「この線は、地面を測っていない」




