第25話 〈セス〉ニアの指摘
版画横丁は、インクの匂いがした。
オルネアの職人街の、もっとも古い通りの一つだ。石畳の両側に、低い工房がぎっしりと並んでいる。軒先には、刷りたての紙が洗濯物みたいに吊るされて、風に揺れていた。地図。暦。薬の効能書き。商人の看板札。
その一番奥、青い扉の店に、僕は、巻いた紙を抱えて入っていった。
「こんにちは」
「来たね、首席さん」
奥から、声が飛んできた。
ニア・クイル。二十歳。地図刷り師で、局の伝令も兼ねている。
小柄で、前髪をヘアピンで雑に留めていて、頬の片方に、黒いインクの跡がある。袖は、肘までインクで染まっていた。刷り台の向こうで、版木をひっくり返しながら、僕をちらりと見た。
「今日は、何の用。また、僕の地図の線が曲がってる、とか言いに来たの」
「曲がっているのは事実です」
「曲がってないよ。紙が縮んだだけ」
「それを、曲がっていると言うんです」
ニアは、ふふ、と笑って、刷り台の端に積んであった紙の山を、肘でどけた。僕の地図を広げるための場所を、いつも、何も言わずに空けてくれる。
彼女とは、三年前から、仕事で顔を合わせている。僕が測量の下書きを描き、彼女が版にする。喧嘩の回数は、会話の回数とほぼ同じだ。先月は、紙の縮み率をめぐって、半日、店先で言い争った。結局、ニアの言い分が正しかったので、僕は黙って菓子折りを置いて帰った。それでも、僕の地図を、一番早く、一番正確に刷ってくれるのは、この人だった。
「で、今日は、何」
「これを、見てほしいんです」
僕は、抱えていた紙を、刷り台の上に広げた。
古い地図だった。
実習院の図鑑院に保管されている、オルネア地下水脈図の、写し。原版は、盟約暦の三百八十九年のもの。二百年以上、前だ。紙は、茶色く変色している。
「井戸の水位の、沈下の件ですね」
「うん。局から、話は来てる」
ニアは、紙の端に、重石を置いた。
「あの産院の、水の件でしょう。昨日も、測定官の人が、うちに寄って、同じ地図の刷り直しを、頼みに来たよ」
「そうですか」
僕は、少し安心した。局も、本気で動いている。
「僕は、この地図で、水脈の向きを確かめたいんです。井戸の沈下が、尾方側から順に起きているのは、水脈の流れと、関係があるかもしれない」
「なるほどね」
ニアは、地図の上に、顔を近づけた。
彼女の目は、地図を見るとき、別の人の目になる。さっきまでの、茶化すような色が消えて、鋭い光が、宿る。
しばらく、無言だった。
「……ねえ、セス」
「はい」
「この余白、ちょっと変じゃない?」
「余白ですか」
「紙の右下に、大きな空白があるでしょう。そこ」
彼女の細い指が、地図の右下を、さした。
確かに、空白だった。水脈の線は、そこを避けるように、描かれている。
「描き忘れたのでは」
「描き忘れるにしては、きれいに空いてる」
ニアは、首をかしげた。
「ところで、誰の余白?」
「え?」
「あなたが、いま、言った『余白』。誰が、余らせたの? 彫り師? 発注した人? それとも、地図が描かれた土地の人?」
彼女は、よく、こういう質問をする。曖昧な言葉を、つかまえて、聞き返す。
僕は、答えに詰まった。
「彫り師の、意図、でしょうか」
「証拠は?」
「ありません」
「ふふ、素直」
ニアは、紙の上の、細かな線に、視線を戻した。
それから、拡大鏡を、手に取った。
「あのさ。この地図、版が二重になってる」
「二重?」
「うん。ほら」
彼女は、鏡を、僕の目の前に、差し出した。
覗き込む。
古い地図の、線が、虫眼鏡の下で、大きく見えた。
細い、滑らかな線。それが、曲線を描いて、水脈の流れを示している。その上に、別の線が、重なっていた。
短くて、鋭い、小さな線。斜めに、びっしり並んでいる。
ハッチングだ。
「滑らかな線と、短い線が、同じ紙に彫ってある。たぶん、別の時期に、別の人が、彫り足した」
「別の人」
「そう。そして、ここ」
ニアが、鏡の位置を、少しずらした。
「滑らかな線は、全部、右手で彫ってる。刃が、右から左へ、すべってる。でも、短い線は、反対」
「反対」
「左から、右へ。それも、紙を、ひっくり返して」
僕は、ぞくりとした。
版画の彫り師は、版木を回しながら彫る。だから、線の向きが違うのは、珍しくない。けれど、ニアが言っているのは、それ以上のことだった。
「つまり」
「つまり、この二種類の線は、反対の方向から、彫られてる。同じ地図を、描いているはずなのに。まるで、地図の頭と尻尾が、逆さまみたいに」
ニアは、拡大鏡を置いて、僕の顔を、真っすぐに見た。
「ねえ、セス」
「はい」
「この線、どっちから彫ったと思う?」




