第24話 初めての立会印
風が、止まっていた。
産院の裏の空き地は、静かだった。局の測定官が二人、少し離れた場所で、紙と鉛筆を構えている。裏口には、ベスさんが、両手を組んで、立っている。
窪みの縁に、亀の荷車が、後ろ向きに据えてあった。
亀の頭が、窪みの中央を向いている。ミラは、頭の少し手前に、膝をついていた。手首に、新しい術糸を巻いている。昨夜、徹夜で編み直したのだと、さっき、小声で教えてくれた。
セスは、窪みの東側に、立っていた。測量杭を、三本、手元に並べている。胸の前に、記録帳を抱えている。その上に、あの木の印が、載っていた。
俺は、亀の肩の横に、立った。
剣を、抜いた。
柄が、手のひらに、馴染む。母が、直してくれた形だ。
「準備は、いいか」
ガランの声が、背後から聞こえた。
「はい」
「三人とも」
「いいです」
「いつでも」
ミラとセスが、順番に、答えた。
俺は、一度、目を閉じた。
亀の呼吸の音が、聞こえる。ゆっくりで、浅い。ひゅう、ひゅう、と、風の通る葦のような音。
目を開ける。
肩の上の、三本の筋が、くっきりと、見えた。
外側の輪。内側の輪。その、さらに内側の、消えかけた輪。
深呼吸を、一つ。
「泉」
俺は、小さく言った。
亀の目が、ほんの少し、動いた気がした。
それから、刃気を、剣に、集めた。
白い光が、刃を走る。
右足を、半歩、前に。肩の上から、斜めに。外側の輪の、中央から。
急がない。
外の輪。
手の中で、ぱきり、と小さな手応えがあった。
内の輪。
もう一つ、手応え。
最後の、消えかけた輪。
薄い。力を入れすぎると、突き抜けてしまう。逆に、足りなければ、止まってしまう。
刃の速さを、ほんの少し、落とした。
するり、と、刃が通った。
三つ。
確かな、感触があった。
亀の体が、ぴくりと震えた。
それから、すべてが、静かになった。
「ミラ!」
セスの声が、聞こえた。
「いま」
「はい」
ミラの手首の糸が、青く、強く、光った。
亀の口が、わずかに開いた。そこから、白い泡が、ぶくぶくと、湧き出す。次の瞬間、口の奥から、水が噴き出した。
圧が、高い。
水が、細い柱になって、空に向かって、噴き上がった。
ミラの糸が、その柱を、絡め取った。
三秒。
糸が、光る。柱が、一瞬、大きく、ぐにゃりと、曲がった。曲がった水が、窪みの縁のほうへ、流れていく。
圧が、逃げた。
三秒が、終わった。ミラの糸が、灰色になる。彼女は、膝を地面について、肩で息をしていた。
けれど、水は、噴き出さなくなった。
代わりに、窪みの底から、ゆっくりと、湧き始めた。
とろり、と。
透明な水が、地面から、にじみ出てくる。泡が、一つ、二つ、浮かぶ。水が、少しずつ、少しずつ、窪みに溜まっていく。
亀の体は、すでに、石になり始めていた。
甲羅が、灰色の岩に変わる。首が、苔むした岩の塊に、変わる。足が、小さな石の群れに、変わる。
それは、さっきまで、生きていたものの、静かな、終わりだった。
「出口」
セスの声が、きびきびと、響いた。
「方位、頭方から、三十度、尾方寄り。距離、東へ、十五歩。出口の傾き、緩やかな下り」
彼は、杭を一本、地面に刺した。それから、紐を、水の流れる方向に、真っすぐ、張る。
水は、その紐に沿って、ゆっくりと、流れ始めた。産院の井戸の、水脈のほうへ。
「測定官、記録を」
「はい」
局の測定官が、手帳に、数字を書き込む。
セスは、深く息を吸って、記録帳に、印を押した。
とん。
小さな、乾いた音が、空き地に、響いた。
それが、立会印だった。
窪みの水が、澄んだ光を放っている。さっきまで、ただの、乾いた地面だった場所が、確かに、泉に変わっていた。
「……やった」
ミラが、声を漏らした。
「やった。本当に、できた」
裏口から、ベスさんが、ゆっくりと歩いてきた。
窪みの縁に、膝をつく。両手を、水に浸す。
冷たい水が、彼女の指のあいだを、流れていく。
「ありがとう」
ベスさんは、水を見たまま、小さく言った。
誰に言ったのかは、分からなかった。ただ、その声は、少し震えていた。
ガランが、俺の肩を、ぽん、と叩いた。
「悪くなかった」
「はい」
「ただし」
ガランは、窪みの泉を、見下ろした。
「これは、産院の、非常用の水だ。井戸の沈下の原因が分からない限り、本当の解決には、ならん」
「はい」
分かっていた。
俺たちは、一つの水を、足しただけだ。減っている理由は、まだ、誰も、知らない。
夕方。
空き地の隅に、三人で座っていた。
ミラは、疲れて、うとうとしている。俺は、膝の上で、剣の手入れをしていた。
セスは、少し離れたところで、記録帳に、何かを書いていた。
俺が、そっと、覗き込むと、セスは、ページを閉じかけて、そのまま、開いた。
「見ていい?」
「ええ」
最後の頁に、小さな字で、一行だけ、書いてあった。
沈下の原因は、不明。
その下に、まだ、空白が、広く残っていた。




