第23話 弱った亀
その亀は、荷車の上で、ほとんど動かなかった。
産院の裏手の、空き地だった。もとは薬草畑だったらしい。いまは、雑草と石ころが転がる、乾いた地面が広がっているだけだ。その真ん中に、浅い窪みがある。直径は、大人が両腕を広げたくらい。
窪みの縁には、細い杭が、等間隔で打ってある。セスが、前日のうちに、紐を張って、方位を測った印だ。
荷車が、その横に止まった。
濡れた毛布が、荷台いっぱいにかけてある。ガランが、毛布の端を、そっとめくった。
泉甲亀。
成体は、思っていたよりずっと大きかった。標本室で見た小さな剥製とは、まるで違う。甲羅は、荷車の幅ぎりぎり。苔みたいな緑色の甲羅の縁が、ところどころ、剥がれ落ちている。首は、半分ほどしか、伸びていない。
目が、閉じかけていた。
「……生きてる」
ミラが、小さな声で言った。
「生きてる。でも」
「弱ってるんだ」
ガランが、低く言った。
「実習院で、飼われていた個体だ。もう、二十年を越えている。ここ数か月、ほとんど何も食べていない。治療は、もう、効かん」
ミラは、荷車に、そっと近づいた。
手を、甲羅に、置いた。
「冷たい」
「泉甲亀は、体温が低い。死が近づくと、さらに下がる」
「……苦しくないんですか」
「苦しみは、少ないはずだ。ただ」
ガランは、言葉を切った。
「放っておけば、数日で、自然に核が止まる。そのとき、どこで止まるか、誰も決められない。産院の井戸の沈下は、六週間では、止まらん。だから、ここで、こちらが、決める」
決める。
その言葉が、胸に、ずしりと、重くのしかかった。
俺たちが、ここで、この亀の最期を、決める。そして、その最期は、誰かのための、泉になる。
それは、正しいことだ、と思った。けれど、正しいから、軽いわけでは、なかった。
「手順を、確認する」
ガランが、全員を集めた。
産院の裏口から少し離れた場所に、セスのお母さんのベスさんと、局から来た測定官が二人、立って、こちらを見守っている。
「ルーク。お前の担当は、切断だ。この亀の、留め輪を、外から順に、切る」
「はい」
「ヴェン。お前の担当は、口側の水圧だ。核が止まると、亀の口から、水が噴き出す。最初の数秒は、圧が高い。それを、逃がせ」
「三秒、ですよね」
「そうだ。三秒で足りるように、位置を決める。その代わり、位置は、一か所しかない」
ガランは、亀の頭の前に、小さな石を、一つ、置いた。
「エイヴェル。お前は、出口を測れ。水がどこへ向かって流れ出るか。それを、方位と距離で、記録しろ。展開が終わったら、立会印を、押せ」
「立会印」
セスが、息を呑んだ。
「僕が、ですか」
「無才の人間が、押す決まりだ。展開に、力を加えていない者の、記録。それが、立会印の、意味だ」
ガランは、腰の袋から、小さな木の印を、取り出した。
掌に収まる、丸い印。表に、小さな文様が彫ってある。
「印がなきゃ、泉は、紙の上じゃ存在しない。展開の方位と出口を、第三者が記録して、初めて、土地として、認められる」
「分かりました」
セスの声は、少し震えていた。それでも、受け取る手は、まっすぐだった。
「それと、ルーク」
ガランが、俺を見た。
「お前は、成り名を、呼ぶ前に、一呼吸、置け」
「はい」
「この亀の成り名は、何だ」
俺は、亀を、見た。
甲羅の縁の、剥がれ落ちた苔。半分閉じた目。ゆっくりと上下する、胸のあたり。
泉になる亀。産院の水を、救う亀。
「……泉」
口に出して、それが、自分の中で、すとんと、収まった。
「泉。それでいいと思います」
「ならば、そう呼べ。切る前に、一度だけ」
「はい」
ガランは、それから、俺の肩に手を置いた。
「まず、留め輪を、読め」
俺は、亀の肩の付け根に、近づいた。
甲羅の端から、毛のない、灰色の皮膚が、のぞいている。その下に、筋が、かすかに、重なっている。
深く、息を吸った。
数える。
一つ。薄い。
二つ。さらに薄い。
三つ。ほとんど、消えかけている。
三つだ。
弱った個体は、留め輪が、薄くなる。核を留める力が、衰えているのだ。逆に、切りやすい。ただ、読み違えれば、薄いぶん、途中で、核が、勝手に外れる。外れれば、制御が、利かなくなる。
「三つ。外側から、順に、一つ、二つ、三つ」
声に出して、確かめた。
「角度は、肩の上から、少し、右へ」
「右は、俺のほうが、ずっと見える」
ガランが、静かに、言った。
「だが、俺は、手を出さん。決めろ」
喉が、からからだった。
一回しか、振れない。この一回で、三つの輪を、順番に、断たなければならない。急げば、順番が、乱れる。乱れれば、外側の輪が、内側の輪に、絡んで、亀が暴れる。
焦るな、と、自分に言い聞かせた。
焦るな。俺は、数えるのが、得意なんだ。
ガランが、短く言った。
「外から順にだ。急ぐな」




