↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣の果てのアトラス  作者: 幼内 心


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/28

第22話 〈セス〉追加観測

 翌朝、産院に、客が来た。

 オールデン・ケイン。三環遠征局の総監だ。

 四十三歳。無才。背筋の伸びた、痩せた男で、濃い藍色の上衣を、きちんと着ている。顔には、いつも、疲れが薄く張りついている。けれど、目だけは、澄んでいる。三つの都市の、遠征と防衛を取り仕切る人。僕たちから見れば、雲の上の人だった。

「こちらの、井戸の件で」

 ケインは、中庭に入ってくるなり、そう言った。

 母が、迎えに出た。

「総監。お越しいただいて」

「ベス殿。産院の水の件は、局にも、報告が上がってきていますので」

 僕は、驚いた。

 井戸の異変の話は、数日前に、母が局に、手紙で連絡したと聞いていた。けれど、総監自身が、わざわざ足を運ぶとは、思っていなかった。

「こちらが、観測の担当者?」

 ケインの視線が、僕たち三人に向いた。

「第十七実習隊の、エイヴェルと、ルークと、ヴェンです」

 母が、紹介した。

「セス・エイヴェル。僕の、息子です」

「……ほう」

 ケインは、僕を、じっと見た。

 それから、僕の持っていた紙を、指さした。

「それが、記録かね。見せてもらえるか」

「はい」

 僕は、昨日の表を、差し出した。

 ケインは、受け取って、時間をかけて、目を通した。黙って、頁をめくる。指先が、数字の列を、なぞっていく。

 その様子を、僕は、息を詰めて、見ていた。

 やがて、ケインは、顔を上げた。

「よくできている」

「ありがとうございます」

「測定の方法も、明確だ。紐の長さと結び目の間隔も、揃えてある。一日で、ここまで、まとめたのは、見事だ」

 褒められた。それなのに、続く言葉が、予想できた。

「だが」

「はい」

「これは、三つの井戸の、一日ぶんの記録に過ぎない」

 ケインは、淡々と言った。

「沈下が、尾方側から順に起きている、という君の観察は、興味深い。だが、三点の観測で、方向性を断定するのは、早い。井戸の配置が、たまたま、そう並んでいるだけの可能性もある」

「はい。僕も、そう思います」

 僕は、正直に答えた。

「それで、提案がある」

 ケインは、紙を、僕に返した。

「追加の観測を、行いたい。町全体の、井戸を、六か所。期間は、二週間。局の測定官を、数名、同行させる」

「二週間、ですか」

「個人の観測は、貴重だ。だが、公式に扱うためには、手続きを踏んで、複数の目で、確かめる必要がある」

 その言葉は、冷たく聞こえるかもしれない。けれど、僕には、正しいと思えた。

 僕の観測は、僕の手と、僕の紐でしか、確かめられていない。誰かが、別の紐で測って、同じ数字が出なければ、それは、僕の癖かもしれないのだ。

「分かりました」

 僕は、頷いた。

「測定の方法を、局の測定官に、お渡しします」

 ケインの眉が、わずかに動いた。

「お渡しする?」

「はい。紐と錘の作り方、結び目の取り方、読み方の手順を、紙にまとめます。それと、イヴォ君と、ミラさんにも」

 僕は、二人を、振り返った。

「二人に、同じ方法を、教えます。三人が、同じ読み方ができれば、もし、僕が動けなくなっても、観測が止まらない」

 ミラが、はっとした顔をした。イヴォが、静かに、頷いた。

「僕一人で、仮説を、完成させるのは、避けたいんです。もし、僕の見立てが間違っていたとき、誰も気づけなくなってしまう」

 ケインは、しばらく、黙っていた。

 それから、口の端を、ほんの少しだけ、上げた。

「それは、正しい判断だ」

 その言葉は、褒め言葉というよりは、事実の確認のようだった。

「では、局の測定官は、明日から、来る。若い者たちに、方法を渡してやってくれ」

「はい」

「それと、エイヴェル君」

 ケインは、僕の名前を、呼んだ。

「最初に、一点だけ、お願いがある。君の仮説を、君自身が、『まだ仮説だ』と、常に意識しておくこと。仮説が、確信に変わる瞬間が、一番、危ない」

「はい。肝に銘じます」

 ケインは、満足そうに、うなずいた。それから、母に一礼して、中庭を去っていった。

 背中が、見えなくなってから、母が、小さく息を吐いた。

「総監が、あんなふうに、人を褒めるなんて」

「褒められて、いましたか」

「ええ。ものすごく」

 母は、少しだけ、笑った。

 夜。観測の紙を、整理しているとき、僕は、ふと、手を止めた。

 母の、産院の、水の使用量の記録を、もう一度、確かめていた。

 産院では、毎年、初夏に、出産が増える。それが、母の産院の、一番、忙しい時期だ。そのときには、水の使用量が、通常の、二倍近くになる。

 六週間後。

 もし、このまま、井戸の水位が、下がり続けたら。

 計算した。計算するのが、怖かった。それでも、計算した。

 答えは、はっきりしていた。

 このままだと、六週間後の出産期に、産院の水が足りない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。