第22話 〈セス〉追加観測
翌朝、産院に、客が来た。
オールデン・ケイン。三環遠征局の総監だ。
四十三歳。無才。背筋の伸びた、痩せた男で、濃い藍色の上衣を、きちんと着ている。顔には、いつも、疲れが薄く張りついている。けれど、目だけは、澄んでいる。三つの都市の、遠征と防衛を取り仕切る人。僕たちから見れば、雲の上の人だった。
「こちらの、井戸の件で」
ケインは、中庭に入ってくるなり、そう言った。
母が、迎えに出た。
「総監。お越しいただいて」
「ベス殿。産院の水の件は、局にも、報告が上がってきていますので」
僕は、驚いた。
井戸の異変の話は、数日前に、母が局に、手紙で連絡したと聞いていた。けれど、総監自身が、わざわざ足を運ぶとは、思っていなかった。
「こちらが、観測の担当者?」
ケインの視線が、僕たち三人に向いた。
「第十七実習隊の、エイヴェルと、ルークと、ヴェンです」
母が、紹介した。
「セス・エイヴェル。僕の、息子です」
「……ほう」
ケインは、僕を、じっと見た。
それから、僕の持っていた紙を、指さした。
「それが、記録かね。見せてもらえるか」
「はい」
僕は、昨日の表を、差し出した。
ケインは、受け取って、時間をかけて、目を通した。黙って、頁をめくる。指先が、数字の列を、なぞっていく。
その様子を、僕は、息を詰めて、見ていた。
やがて、ケインは、顔を上げた。
「よくできている」
「ありがとうございます」
「測定の方法も、明確だ。紐の長さと結び目の間隔も、揃えてある。一日で、ここまで、まとめたのは、見事だ」
褒められた。それなのに、続く言葉が、予想できた。
「だが」
「はい」
「これは、三つの井戸の、一日ぶんの記録に過ぎない」
ケインは、淡々と言った。
「沈下が、尾方側から順に起きている、という君の観察は、興味深い。だが、三点の観測で、方向性を断定するのは、早い。井戸の配置が、たまたま、そう並んでいるだけの可能性もある」
「はい。僕も、そう思います」
僕は、正直に答えた。
「それで、提案がある」
ケインは、紙を、僕に返した。
「追加の観測を、行いたい。町全体の、井戸を、六か所。期間は、二週間。局の測定官を、数名、同行させる」
「二週間、ですか」
「個人の観測は、貴重だ。だが、公式に扱うためには、手続きを踏んで、複数の目で、確かめる必要がある」
その言葉は、冷たく聞こえるかもしれない。けれど、僕には、正しいと思えた。
僕の観測は、僕の手と、僕の紐でしか、確かめられていない。誰かが、別の紐で測って、同じ数字が出なければ、それは、僕の癖かもしれないのだ。
「分かりました」
僕は、頷いた。
「測定の方法を、局の測定官に、お渡しします」
ケインの眉が、わずかに動いた。
「お渡しする?」
「はい。紐と錘の作り方、結び目の取り方、読み方の手順を、紙にまとめます。それと、イヴォ君と、ミラさんにも」
僕は、二人を、振り返った。
「二人に、同じ方法を、教えます。三人が、同じ読み方ができれば、もし、僕が動けなくなっても、観測が止まらない」
ミラが、はっとした顔をした。イヴォが、静かに、頷いた。
「僕一人で、仮説を、完成させるのは、避けたいんです。もし、僕の見立てが間違っていたとき、誰も気づけなくなってしまう」
ケインは、しばらく、黙っていた。
それから、口の端を、ほんの少しだけ、上げた。
「それは、正しい判断だ」
その言葉は、褒め言葉というよりは、事実の確認のようだった。
「では、局の測定官は、明日から、来る。若い者たちに、方法を渡してやってくれ」
「はい」
「それと、エイヴェル君」
ケインは、僕の名前を、呼んだ。
「最初に、一点だけ、お願いがある。君の仮説を、君自身が、『まだ仮説だ』と、常に意識しておくこと。仮説が、確信に変わる瞬間が、一番、危ない」
「はい。肝に銘じます」
ケインは、満足そうに、うなずいた。それから、母に一礼して、中庭を去っていった。
背中が、見えなくなってから、母が、小さく息を吐いた。
「総監が、あんなふうに、人を褒めるなんて」
「褒められて、いましたか」
「ええ。ものすごく」
母は、少しだけ、笑った。
夜。観測の紙を、整理しているとき、僕は、ふと、手を止めた。
母の、産院の、水の使用量の記録を、もう一度、確かめていた。
産院では、毎年、初夏に、出産が増える。それが、母の産院の、一番、忙しい時期だ。そのときには、水の使用量が、通常の、二倍近くになる。
六週間後。
もし、このまま、井戸の水位が、下がり続けたら。
計算した。計算するのが、怖かった。それでも、計算した。
答えは、はっきりしていた。
このままだと、六週間後の出産期に、産院の水が足りない。




