第28話 〈セス〉未殺の地図
寮の自室で、僕は、夜通し、地図と向き合っていた。
机の上に、古い地図の写しを広げる。その横に、標本の断面の絵を、描き写した紙を置く。二枚の紙を、重ねたり、離したりしながら、小さな灯りの下で、何度も、見比べた。
窓の外は、真っ暗だった。時計の針が、深夜二時を回っていた。
内腑線。
その言葉が、頭の中を、ぐるぐると、回っている。
生きている獣の、内側を測った線。
それが、この地図に、彫られている。つまり、この地図を作った人は、何らかの方法で、生きた獣の内部を、測っていた。
どうやって。
僕には、想像もつかなかった。ただ、一つだけ、分かっていることがある。
内腑線は、獣の呼吸に合わせて、伸び縮みする。
司書が、去り際に、そう言っていた。生きた獣の内側は、常に動いている。だから、内腑線の縮尺は、時々刻々と、変わる。測った瞬間の数字を、信じすぎてはいけない。
僕は、机の上の、地図の、短い線を、鉛筆の先で、そっと、なぞった。
ハッチングは、地図の左下から、右上へ向かって、少しずつ、角度を変えながら、流れている。その流れの先は、地図の右下の、大きな空白に、吸い込まれるように、消えていた。
ニアが、最初に指摘した、あの余白だ。
あの余白は、本当に、ただの空白だったのだろうか。
僕は、紙を、もう一枚、取った。
写し取った地図の、短い線を、延長してみる。線の流れを、そのまま、余白の中へ、伸ばしていく。
一本。二本。三本。
鉛筆が、紙の上を、走る。線が、余白の中で、少しずつ、集まっていく。
やがて、すべての線が、一か所に、収束した。
僕は、手を止めた。
収束点に、小さな円が、できていた。
その円の中に、古い地図の、隅に書かれていた、小さな字が、ちょうど、収まる位置にあった。
僕は、拡大鏡で、その字を、確かめた。
最初は、インクのしみかと、思った。けれど、よく見ると、確かに、文字だった。
胎。
たった一文字。それが、地図の余白の中心に、ぽつんと、書き込まれていた。
「……胎」
僕は、声に出して、呟いた。
生きた獣の内側に、胎がある。何の、胎か。その獣の、胎なのか。それとも、別の何かが、生まれる場所なのか。
背筋が、ぞくりとした。
ふと、あることを、思い出した。
産院の、出生記録。生誕方位の欄。全員、頭方。
原床。人が生まれるために必要な、安定した地層。オルネアの下にしか、ない。
関係、あるのだろうか。
いや。まだ、考えるのは、早い。仮説が確信に変わる瞬間が、一番、危ない。
僕は、鉛筆を、置いた。
夜が、白み始めていた。
翌朝、僕は、徹夜明けの頭で、二人を、呼び出した。
寮の裏庭の、古い石のベンチ。ミラとイヴォは、まだ眠そうな顔で、座っていた。
「どうしたの、こんな朝早くに」
「見てほしいものが、あります」
僕は、昨夜、延長した、地図の写しを、広げた。
「これは、古い地図です。ニアさんに、見てもらって、標本とも、照合しました。結論から、言います」
「うん」
「この地図には、二種類の線が、あります。一つは、地面を測った線。もう一つは、生きている獣の、内側を測った線」
二人は、ぽかんとした。
「……生きてる獣の、内側?」
「はい」
「そんなこと、できるの?」
「分かりません。でも、標本の断面と、完全に、一致しました。内腑線という、呼び方があるそうです」
イヴォが、地図を、覗き込んだ。
「この余白の、中心に、『胎』って、書いてある」
「はい。僕が、線を延長して、見つけました」
「たい?」
ミラが、首をかしげた。
「お腹の、こと?」
「生物の、子を宿す場所。あるいは、何かが、生まれる場所」
僕は、言葉を、慎重に選んだ。
「この地図の、描かれている獣が、どんな動物なのか。そして、この『胎』が、何を指すのか。まだ、何も、分かっていません」
三人の間に、沈黙が、落ちた。
朝の光が、裏庭の木々の間から、斜めに、差し込んでいる。鳥が、遠くで、鳴いていた。
イヴォが、ゆっくりと、口を開いた。
「この地図の、描かれてる獣は、まだ、生きてるのか」
「分かりません。二百年以上前の、地図です」
「でも、内腑線って、生きた獣の内側を、測るんだろ」
「ええ」
「じゃあ、描かれた時点では、生きてた」
イヴォは、地図の余白を、じっと見た。
「その獣が、もし、まだ、生きてたら」
「イヴォ君」
「その地図の、余白に、収まるくらいの、大きさ、なんだろ」
僕は、はっとした。
地図の余白。それは、紙の右下の、手のひらほどの、空白だ。ただ、その空白に収束する内腑線は、実際の地形の、何倍、何十倍もの、規模を表している可能性がある。
内腑線の縮尺は、獣の呼吸で、変わる。
つまり、その獣は、ものすごく、大きいかもしれない。
「余白の、輪郭を、見てください」
僕は、地図の、余白の縁を、指でなぞった。
線を延長してできた、収束の中心から、外へ向かって、余白を、囲むように、うっすらと、薄い輪郭が、浮かんでいる。
それは、何かの、生き物の、背中のような、曲線を、描いていた。
「この余白は、描き忘れじゃ、ありません」
僕は、静かに言った。
「何かが、そこに、いる。まだ、誰も、見たことのない、何かが」
空白の余白に、まだ生きている獣の輪郭が、合う。




