第19話 〈セス〉井戸の水位
「点検、してくれない?」
母が、そう言ったのは、荷降ろしの最中だった。
丸太の日から、三週間が経っていた。僕は、週に一度、母の産院に顔を出すことに決めている。荷物を運んで、帳簿を手伝って、昼を一緒に食べる。それが、いつの間にか、習慣になっていた。
「何をですか」
「井戸」
母は、手帳から顔を上げずに言った。
「中庭の本井戸の水位が、このところ、おかしいの。朝は高いのに、昼には沈んで、夕方にまた上がる。それが、毎日、少しずつ、ずれてる」
「ずれている」
「去年の同じ時期と比べると、全体に、一尺ほど低い。給水係が、気にしてて」
僕は、荷を降ろす手を止めた。
産院の水は、三つの井戸でまかなっている。中庭の本井戸。洗濯場の東の井戸。使っていない、北の古井戸。その三つが、同じ水脈に繋がっている、と聞いたことがある。
「いつから」
「正確には、分からない。給水係の記録が、不揃いで」
「記録が、ない」
「あなたに、頼むのよ」
母は、ようやく顔を上げた。口の端が、ほんの少し、持ち上がっている。
「お茶を出す係より、こっちのほうが、あなたには向いてるでしょう」
それは、たぶん、褒め言葉だった。
僕は、鞄から、測量具を出した。細い紐と、真鍮の錘。紐には、一寸ごとに、小さな結び目を作ってある。井戸の縁から錘を下ろして、水面に触れた瞬間の長さを読めば、水位が分かる。
中庭の本井戸は、白い石の縁の、円い井戸だった。
縁に膝をついて、紐を、ゆっくりと下ろしていく。
最初の数字を、手帳に書いた。
十二尺と、三寸。
母が、後ろで言った。
「いつもは、十一尺五寸くらいなのよ。この時期は」
「八寸、下がっています」
「そんなに」
母の声は、低かった。
僕は、二度、三度、紐を下ろして、数字を確かめた。同じだった。それから、懐中時計を見て、時刻を、書く。十時十五分。
給水係の老人が、桶を提げて、中庭に出てきた。
「ああ、学生さん。ご苦労さん」
「お邪魔しています。この井戸、最近の、水の汲み方は?」
「朝一番に、二十桶。昼に、三十桶。夕方に、四十桶。毎日、そんなもんだ」
「その量は、去年と同じですか」
「いや、少し増えとる。お産の数が、増えとるからな」
産院の使用量が増えれば、水位が下がるのは当然だ。それだけで、説明がつくだろうか。
僕は、手帳に、疑問を書き込んだ。
使用量だけで、一尺の低下が、説明できるか。
できない、と思った。給水係の言う量は、井戸の容量に比べれば、ごく小さい。水脈から補給される量のほうが、はるかに大きいはずだ。
補給が、減っている。
そう仮定するしか、なかった。
僕は、三つの井戸を、順番に回った。洗濯場の東の井戸も、水位は低かった。ただ、本井戸ほどではない。北の古井戸は、蓋を外してもらって、覗き込んだ。暗い穴の底で、水が、不気味に黒く光っていた。
紐を下ろす。十一尺と、九寸。
本井戸と、東の井戸と、北の古井戸。
水位の差が、少しずつ、違う。
何かが、順番に起きている。
そんな気がした。
「母さん。初夏の出産期の、水の使用量は、去年は、どのくらいでしたか」
「通常の、二倍近く。産湯と洗い物と、飲み水。そのころは、桶を運ぶ人手が、足りなくなるくらい」
「それが、あと六週間か七週間で、来る」
「ええ」
母は、短く答えた。その声が、いつもより、ほんの少し硬かった。
僕は、手帳の頁の端に、小さく、期限、と書いた。
「セス」
母が、井戸の裏の、小さな石造りの建物のほうを指していた。
「もう一つ、見てほしい場所がある」
井戸小屋だった。井戸の水を汲み上げるための、小さな、屋根つきの建物。壁は、石の上に、白い漆喰が塗ってある。ところどころ、補修の跡が、新しい灰色の漆喰で、塗り直されている。
「去年の暮れに、補修したのよ。ひび割れが、広がってたから。補修材は、オルネアの城壁と同じものを使ったと聞いてる」
僕は、壁に近づいた。
補修の跡の、灰色の漆喰を、指でなぞる。ざらざらしている。
その表面に、細い筋が、一本、走っていた。
爪の先で、そっと、削る。
ぽろり、と小さな欠片が、手のひらに落ちた。
薄い、白い、層。
息が、止まった。
僕は、鞄から、布で包んだ、小さな木の切れ端を、取り出した。丸太の日に、ガラン教官に黙って拾った、あの木口の欠片。
手のひらに、二つを並べた。
漆喰の欠片と、木の欠片。
どちらにも、同じ種類の、白い薄層が、一本、走っていた。
壁の補修材にも、あの白い層がある。




