第18話 〈ミラ〉子の上着
荷車は、揺れた。
それも、ひどく。
街道の石畳は、場所によって、ひどく傷んでいる。車輪が、くぼみに嵌るたびに、箱の中の瓶が、かちかちと鳴った。
私は、荷台の後ろの、小さな補助席に座って、箱を見守っていた。イヴォ君と、セス君は、御者台のカルダーの横で、ナディアと一緒に、前に座っている。
私だけが、荷台の中に、残った。
瓶の見張り役だ。
薄暗い荷台の中は、ひんやりと冷たい。呼吸が、白くなる。足先が、じんじんと痺れた。
半刻ほど、そうして揺られたころだった。
天井の、あの裂け目から、一筋の光が、荷台の中へ差し込んだ。
太陽が高く昇って、光の角度が変わったのだ。
細い光の筋が、木箱の側面の、ちょうど一つの列を、ぴたりと照らしていた。
私は、はっとして、手を伸ばした。
箱の蓋を、少しだけ開ける。指を、瓶の列に滑り込ませる。
温かい。
太陽に当たっていた側の列が、ほんのわずかに、温かい。
「まずい」
私は、立ち上がって、荷台の前の壁を、叩いた。
「イヴォ君!」
「どうした!」
小窓が、がらりと開いて、イヴォ君の顔が覗いた。
「箱、動かして。光が、当たってる。右の三本、真ん中に寄せて」
「分かった。止めるか」
「止めなくていい。走りながら、お願い」
イヴォ君が、小窓から、身を乗り出して、荷台の中へ滑り込んできた。足場の悪い、揺れる荷台の中でも、彼は、一度も、体勢を崩さなかった。
「右の三本。ふたを水平に、保って。傾けないで」
「了解」
彼は、瓶を、一本ずつ、慎重に持ち上げた。その手つきは、剣を扱うときよりも、ずっと、繊細だった。
私は、自分の袖を、手首から外して、裂け目の下に、ふわりと広げた。光の筋が、袖の布に当たって、柔らかく散る。
その隙間から、ひんやりした空気を、箱の周りに、指先で誘導する。術糸は、もうほとんど、残っていない。三秒は、さっき、使い切ってしまった。
だから、手で。
布で、光を遮って。指で、冷たい空気を、導く。
イヴォ君が、最後の一本を、箱の真ん中へ寄せたとき、私は、そっと、息を吐いた。
「……大丈夫。戻った」
「よかった」
二人で、顔を見合わせた。イヴォ君が、小さく笑った。
荷車は、日が高くなるころに、町の診療所に着いた。
低い石造りの建物の前に、人が並んでいた。母親が、赤ん坊を抱いている。小さな子どもを、背負っている父親もいる。みんな、疲れた顔をしていた。
荷車が止まると、全員の視線が、こちらに向いた。
扉が、開いた。
ナディアが、先に降りた。それから、私たちが、木箱を、慎重に、荷台から運び出す。
診療所の入口の脇に、一人の女の人が、立っていた。
若い母親だった。腕に、小さな子どもの上着を、握りしめている。上着の中に、子どもが、くるまれている。顔は、真っ赤で、目を閉じていた。
母親は、箱を見て、道を、空けてくれた。片手で、子どもの上着を、ぎゅっと、閉じたまま。
私は、箱の底を、支えながら、その横を通った。
視線が、一瞬、合った。
母親は、何も言わなかった。ただ、目で、ほんの少しだけ、頭を下げた。
その目の中に、一晩中、眠っていない人の、静かな祈りがあった。
診療所の中で、木箱を、台に載せる。ナディアが、蓋を開けて、瓶を一本ずつ、取り出して、白衣の医師に手渡していく。
私は、最後まで、箱の側面に、指を当てていた。
瓶が、全部、運び出されるまで。ナディアが、箱の重さを、自分の腕で、受け取るまで。
「これで、全部」
ナディアが、そう言ったとき、私の指は、箱から、離れた。
指先は、感覚がなかった。冷たさで、麻痺していた。
「お疲れさま」
ナディアが、私の頭を、ぽん、と撫でた。
「あなたの指が、なかったら、この露は、半分は、駄目になってた」
私は、何も言えなかった。胸の奥が、じんと、熱くなった。
報酬は、その場で、渡された。
銀貨が十五枚。小さな革袋に入って、ずしりと、重かった。
私たちは、診療所の外で、その袋を、三人で、囲んで見た。
「十五枚」
セス君が、声に出した。
「共同財布に、入れます。そのまま、借金の返済に回します。残り、四十五枚」
「四十五」
イヴォ君が、繰り返した。
まだ、四分の三が、残っている。けれど、一歩目が、確かに、踏み出せていた。
そのとき、カルダーが、荷車の脇から、近づいてきた。
「お疲れさまでした。いい仕事でしたね」
「ありがとうございます」
ナディアが、丁寧に、頭を下げた。
「契約書は、後日、改めて」
「ええ。お返ししておきます」
カルダーは、胸ポケットから、あの紙を、ナディアに差し出した。
ナディアは、受け取る前に、一度、紙を、広げて、確認した。
そのとき、私は、見てしまった。
契約書の、裏側。
表の、きれいな文字の裏に、もう一枚、別の紙が、薄く挟まっていた。印刷された、罫線。空欄だらけの、書式。
一番上に、小さな文字で、題が書いてあった。
胎地証文。
カルダーの契約書の裏に、胎地証文の雛形が、挟まっていた。




