第17話 〈ミラ〉冷えた荷車
原因は、すぐに分かった。
イヴォ君だった。
「え、俺?」
「あなたの背中」
私は、木箱の端の、温かい列を、指でとんとん、と叩いた。
「この列だけ、あなたが担いでた側。背中の熱が、箱の板を通って、瓶に移ったの」
「そんなこと、あるのか」
「ある。ほんの、一度か二度、だけど。でも、その一度が、露には、致命的」
ナディアが、眼鏡を押し上げて、箱の中を覗き込んだ。
「その列の、四本。確認するわ」
小瓶を一本ずつ取り出して、ランプのない薄明かりの下で、光に透かす。露の透明度を、見る。
全員が、息を詰めて、見守った。
「……大丈夫。薬効は、落ちてない」
ナディアが、ふう、と息を吐いた。
「ぎりぎりね。でも、これ以上、熱を入れたら、危ない。運ぶあいだ、箱の温度を、一定に保たないと」
「俺が、背負わなければ」
「あなたの、せいじゃない」
ナディアは、静かに言った。
「でも、運ぶ人間の体温は、確かに、敵になる。人が担ぐのは、やめたほうがいいわね」
どうしよう。
私は、箱を見た。二十六本の小瓶。診療所まで、半日。荷車を使えば、歩くより、ずっと早い。けれど、普通の荷車では、車輪の摩擦熱と、日光が、また瓶を温める。
冷えた荷車が、いる。
そのとき、湿地の端の、乾いた道のほうから、馬の足音が聞こえた。
荷車が、一台、近づいてくる。
引いているのは、二頭の、がっしりした馬。荷台は、箱形で、側面に、厚い灰色の板が張ってある。屋根には、白い幌がかかっていた。
御者台に、男が一人、座っていた。
三十代の前半だろうか。薄い灰色の外套を着て、帽子を片手に持っている。笑うと、目尻が、少し、下がる。
「ロス博士。おはようございます」
「カルダー」
ナディアの声が、わずかに、固くなった。
「お久しぶりです。実は、ちょうど、この近くを通りかかりましてね。熱病の件で、診療所への運搬が、急ぎだと聞きまして」
男は、馬を止めて、帽子を胸に当てた。
「運搬商会の、レン・カルダーと申します。お嬢さん方、それに、剣のお兄さんも、お疲れさまでした」
柔らかい声だった。耳に、すっと入る声。
ナディアが、小さく、私たちに説明した。
「カルダー運搬商会の、主よ。冷却荷車を、持ってる。町で、一番」
「冷却荷車」
「箱の内側に、霜脂の板を、びっしり詰めてあるの。外の温度が上がっても、中は、一定に冷えたまま」
まるで、私たちの困りごとが、見えていたみたいに、完璧なタイミングだった。
「今日の運搬は、お代をいただきません」
カルダーは、にこにこと、続けた。
「診療所の子どもたちのためです。商会の、社会貢献、ということで」
「それは、ありがたいけれど」
ナディアは、口ごもった。
「無料の裏に、何か、あるんでしょう」
「ははは、鋭い」
カルダーは、まったく、悪びれずに笑った。
「ひとつだけ。継続契約を、お考えいただけませんか。今後、三か月間の、ロス博士の研究所からの運搬を、弊社でお引き受けする。運賃は、標準の運賃表どおり。それだけです」
彼は、胸の内ポケットから、折りたたんだ紙を取り出した。
「契約書は、こちらに」
ナディアは、紙を受け取った。
私は、横から、そっと、覗き込んだ。
契約書は、感じのいい字で書かれていた。
きれいな、丁寧な、細い筆跡。小さな罫線が、几帳面に引かれている。文言は、平易で、硬くない。条項の数は、八つ。
読んでいくと、「運賃は標準運賃表による」「期間は三か月」「中途解約には、一か月前の通知を要する」。どれも、まっとうだった。
私の目は、そこで、ふっと止まった。
紙の端に、小さな印があった。
印の形が、さっき、ラウル君が、イヴォ君に見せた、あの札の印と、似ている気がした。蜥蜴の背中に、ぶら下がっていた、真鍮の札。
気のせい、かもしれない。
「ご検討いただいて、結構です」
カルダーは、紙を一度、ナディアの手から、そっと引き取った。
「でも、今日の子どもたちは、待ってくれません。まず、運びましょう。契約は、後で」
ナディアは、数秒、黙っていた。
それから、小さく、頷いた。
「……お願いするわ」
「ありがとうございます」
カルダーは、荷車から飛び降りて、荷台の後ろの扉を開けた。
内側は、真っ白だった。灰色の霜が、壁一面に、薄く貼りついている。ひんやりとした空気が、扉の隙間から、流れ出してきた。
「木箱を、中へ」
イヴォ君と、セス君が、二人がかりで、木箱を運び入れた。人の手は、箱の側面に触れず、底の板だけを、持った。
私は、その様子を、少し離れて、見ていた。
荷台の天井の、幌の継ぎ目に、小さな裂け目があった。
ほんの、指一本ぶんくらい。
外の光が、その裂け目から、一筋、細く差し込んでいる。
「古い幌でね」
カルダーが、私の視線に、気づいた。
「夕方までには、直します」
それは、本当かもしれなかった。ただ、私は、何も言わなかった。
荷車が、動き出した。




