第16話 〈ミラ〉冷たい器
湿地の水は、膝のあたりまであった。
一歩、足を出すたびに、泥が靴を吸う。引き抜くと、ぬぷ、と間の抜けた音がする。音を立てたくないのに、水面が、ゆらゆらと波紋を広げていく。
先頭を歩いているのは、イヴォ君だった。
足元の硬さを、一歩ごとに、見極めている。彼は、鞘の先で、水底をそっと突いて、泥の深さを確かめる。その動きが、ひどく静かで、無駄がなかった。
「ここ、左に寄って。右は、柔らかい」
小声で、振り向かずに言う。
「分かった」
セス君が、その後ろで、小さな温度計を水面に差し込んで、数字を読んでいた。
「水温、九度。気温、七度。蛙が出る条件には、ぎりぎりです」
「ちょうどいい」
ナディアが、囁いた。
私は、一番後ろだった。木箱を、抱えている。瓶は、ひとつずつ布で巻いてあるけれど、それでも、箱の中で、かすかに、ちりん、と鳴った。
そのたびに、心臓が、きゅっとする。
やがて、前の葦原が開けて、小さな水たまりに出た。
空が、ほんの少し、明るくなっていた。水面を、薄い霧が這っている。その霧の中に、小さな影が、いくつも、じっと座っていた。
蛙だ。
手のひらに載るくらいの、薄い緑色の蛙。背中に、細かな粒が、びっしりと浮かんでいる。粒は、朝の光を受けて、水晶みたいに、きらきらと光っていた。
きれい。
息を、吸うのを、忘れた。
「あれが、露」
ナディアが、声にならない声で言った。
「一匹ずつ、順番に。やり方は、さっき言ったとおり。ミラ、あなたは、瓶の係」
「私が?」
「あなたの指が、一番、冷たい」
ナディアは、一本の小瓶を、私の手に載せた。
「蛙の背中の、すぐ近くまで、瓶の口を近づけて。触れずに。露は、蛙が自分で、落とす」
私は、うなずいた。
息を、止めた。
水たまりの端に、膝をつく。片手に、瓶。もう片方の手は、手首の濡れた布を、ぎゅっと握っている。
一匹の蛙が、すぐ目の前にいた。
背中の、水晶のような粒が、ゆっくりと、揺れている。蛙は、私を見ていた。まばたきを、ひとつ。
「……患者さん」
小声で、呼んだ。
蛙の喉が、ほんの少し、膨らんだ。
瓶の口を、そっと、近づける。蛙の背中と、瓶の口のあいだ、指一本ぶんの隙間。
そのとき、気づいた。
瓶のガラスが、ほんの少しだけ、温かい。私の呼吸のせいだ。口の周りの、細かな熱が、瓶に移っている。
どうしよう。
三秒。
私は、右手の指に巻いた術糸を、ほんの少しだけ、ほどいた。青い糸が、ふわりと、瓶の口に絡みつく。指先に、力を、集める。三秒間だけ、瓶の口の周りの空気を、冷やす。
冷たい空気が、瓶の周りで、細い輪を作った。
その瞬間、蛙の背中から、一粒、露が落ちた。
瓶の中に、ぽとん、と、小さな音がした。
二粒目。三粒目。
三秒が、終わった。糸が、灰色に変わる。指先が、じんと痺れた。
けれど、瓶の底には、透明な露が、静かに溜まっていた。
「できた」
私は、息だけで言った。
「できた、できた」
声が、震えていた。
三秒は、私の限界だと、ずっと思ってきた。短くて、足りなくて、いつも、誰かの邪魔になるもの。
けれど、いま、気づいた。三秒を、いつ、どこで使うかは、私が、決められる。大きな術が撃てなくても、その一瞬を、一番大事な場所に置くことは、できる。
ナディアが、そっと、私の肩に手を置いた。
「十分よ。次、行きましょう」
それからは、ほとんど、夢中だった。
イヴォ君が、葦を鞘で静かに押し分けて、蛙の居場所を教えてくれる。セス君が、水温と気温を、小声で読み上げる。ナディアが、瓶の中身を確かめて、ラベルを貼る。
私は、瓶を、蛙の背中の前に、差し出し続けた。
術糸は、必要なときだけ、ほんの少し。三秒の術は、一匹に、一度か、二度。それ以上は、使えない。使い切る前に、指先の感覚で、瓶と空気の温度を、探り続けた。
十匹。十二匹。十五匹。
太陽が、水平線の上に、顔を出した。空が、桃色になった。霧が、ゆっくりと、晴れていく。
「そこまで」
ナディアが、手を上げた。
「予定量に、届いたわ」
小瓶は、二十六本。全部、露で満たされていた。
私たちは、木箱の中に、瓶を、一本ずつ並べ直した。霜脂の板を、箱の底に敷き、その上に瓶を立てる。蓋を、閉める。
それで、終わりのはずだった。
私は、ふと、思いついて、箱の外から、瓶の列に、指先を当てた。
一列目。冷たい。二列目。冷たい。三列目。冷たい。
四列目の、一番端。
私の指が、止まった。
ほんのわずかに、温かい。
冷えた器の列の一つが、ほんのわずかに、温かかった。




