第15話 〈ミラ〉熱冷まし水
息が、白かった。
夜明け前の湿地は、思っていたより、ずっと冷たい。私は、外套の襟を立てて、手のひらに息を吹きかけようとして、やめた。息は、あったかい。今日は、それが一番の敵なのだ。
「全員、手を出して」
ナディア・ロスが、低い声で言った。
二十八歳。薬獣研究者。背が高くて、髪を雑に後ろで束ねていて、眼鏡のレンズが、いつも少しだけ曇っている。魔力はない。ない代わりに、手帳とピンセットと、無数の小瓶を、全身にぶら下げている。
湿地の端の、乾いた地面に、私たち四人は立っていた。
私と、イヴォ君と、セス君。そして、ナディア博士。
空は、まだ薄暗い。遠くの葦が、風に揺れて、さらさらと鳴っている。足元の水たまりには、細い霧が、ふわりと乗っていた。
ナディアは、私たちの手を、一人ずつ、素手で握った。
イヴォ君の手を握って、眉を寄せる。
「温かい。あなた、体温が高いわね」
「え、あ、すみません」
「謝らなくていい。事実を言っただけ」
セス君の手。
「普通。むしろ、冷たいほう」
「冷え性なので」
「助かる」
私の番だった。
ナディアの手は、指が細くて、少しだけ乾いていた。握られた瞬間、ふっと、何かを探るような感触が、手のひらに触れた。
「……あなた」
「え」
「指先、すごく冷たいわね。それに、感覚が、鋭い」
「え、そうですか」
「いま、私の指の温度、何度ぐらいだと思う」
突然の質問だった。私は、少し考えてから、答えた。
「えっと。たぶん、人の平熱より、ちょっと低くて。外の寒さで、指先だけ、冷えてる。三十二度、くらい」
ナディアは、眼鏡の奥で、目を丸くした。
ポケットから、小さな温度計を出して、自分の指に当てる。数字を読んで、顔を上げた。
「三十二度と、少し」
「当たりました?」
「当たってる。ほとんど、誤差なし」
イヴォ君とセス君が、同時に、私を見た。
「すごいな」
イヴォ君が、素直に言った。
「測定器より、正確かもしれません」
セス君まで、真顔で言う。
「やめてよ。ただの癖だから」
私は、思わず、後ろを向いた。顔が、赤くなっていたのが、自分でも分かった。褒められるのは、慣れていない。術の実習では、いつも、「三秒じゃ、何もできないね」と言われてきた。
小さいころから、そうだった。お鍋の温度、ミルクの熱さ、お風呂の湯加減。私には、触れば、数字みたいに分かる。それは、特技だと思ったことが、一度もなかった。ただの、変な癖。料理のときだけ、役に立つ癖。
「話を、戻すわね」
ナディアは、手帳を開いた。
「今日の対象は、薬露蛙。小型の素材獣。体長は、手のひらくらい。湿地の葦原に住んでいて、夜明け前だけ、背中から、露を出す」
「露、ですか」
「そう。無色透明で、少しだけ、粘り気がある。解熱薬の原料。子どもの高熱に、よく効く」
イヴォ君が、小さく言った。
「子どもの」
「ええ。ここ数日、町で熱病が流行っているの。診療所の薬棚が、もう、空に近い」
ナディアは、淡々と言った。けれど、その言葉の底には、静かな緊張があった。
「この露には、弱点がある。熱に、極端に弱いの。人の手の温度でも、薬効が、半分に落ちる。火を使った場所に置けば、完全に壊れる」
「だから、さっき、手を握って」
「そう。体温を、確かめた」
ナディアは、私たちの前に、小さな木箱を置いた。蓋を開けると、中に、薄い布を巻いた小瓶が、十数本、整然と並んでいた。
「採取の方法は、簡単。蛙を、傷つけずに、背中の露を、瓶に集める。それだけ。ただし」
彼女は、湿地のほうを、指さした。
「蛙は、驚くと、露を止めてしまう。近づくときは、足音も、息も、できるだけ小さく。それと、これ」
ナディアは、私たち三人に、濡れた布を配った。
「手首に、巻いて。肌と蛙のあいだの、熱を、遮るために」
冷たい布が、手首に絡みついた。ひやりとして、背筋が伸びる。
「それから、蛙のことは、『患者さん』と呼んで」
「かんじゃさん?」
「そう。名前の代わり。呼び方で、手つきが変わるの」
ナディアは、少しだけ笑った。
「雑に扱う気持ちが、指に出ると、蛙は、すぐに分かるから」
私は、手首の布を、握った。
湿地の向こうで、一羽の鳥が、鳴いた。空が、ほんの少し、白んできている。
ナディアが、全員の顔を、順番に見た。それから、静かに、言った。
「火は、禁止。灯りも、息も、できるだけ」




