第12話 母の工房
エイダ・ルークの工房は、ヴァルクの職人通りの、一番奥にある。
運搬具の工房だ。荷車、背負い籠、荷紐、滑車。剣を鍛える家が多いこの町では、珍しい。母の剣才は、本人が言うには「荷物を運ぶためだけに、使うことにしている」。
扉を開けると、鉄と油と、乾いた木の匂いがした。
工房の中は、いつもと同じだった。壁に、使い込まれた鎚が、大きさ順にかかっている。作業台の上には、半分組み上がった荷車の車輪。床には、削り屑。
母は、奥の台で、革紐を編んでいた。
「ただいま」
「早いね」
母は、顔を上げなかった。手も止めなかった。四十二歳。剣才だが、背は低い。肩幅が広く、指が太い。袖をまくった腕には、小さな傷が、いくつも重なっている。
「今日は、対抗稽古だろう」
「終わった」
「勝ったかい」
「三本取られた」
「そうかい」
母は、それだけ言った。
工房の奥の、小さな竈の上で、鍋が静かに煮えていた。豆と干し肉の匂い。父は、遠い町の仕事で、もう二週間、帰っていない。奥の机の上には、父の読みかけの帳面が、そのまま置いてあった。
俺は、腰の剣を外して、作業台の端に置いた。
母の手が、ぴたりと止まった。
顔が、剣のほうを向いた。
鞘を、じっと見る。それから、ゆっくりと、手に取った。
「……ここ」
「え?」
「鞘の、この先のほう。擦れてる。それも、横向きの擦れ方。これ、剣を、棒みたいに使ったね」
俺は、目を丸くした。
「橋の杭のところで。丸太を、梃子みたいに」
「へえ」
母は、鞘を回して、別の角度から眺めた。
「ここ。縦の傷は、三月前。水切りの稽古のとき。ここの、横の擦れは、新しい。この数日」
「そんなことまで、分かるのか」
「傷は、持ち主の年月を話すよ」
母は、鞘を置いた。それから、柄を握って、剣を抜いた。
刃を、光に当てる。刃こぼれは、ない。当たり前だ。まだ、ほとんど使っていない。
「斬った木材は、どうだった」
「え」
「あんたが斬った鹿から出た、丸太。いい梁だったかい」
不意を突かれた。
「……たぶん。いい梁だったと思う。皮の下が薄い黄色で、よく乾いてた」
「なら、梁は梁として、使える」
「でも、川に流れた」
「流れた。止めた。拾った。その間に、何人かが助けてくれた。違うかい」
俺は、言葉を失った。
母は、剣を鞘に戻した。
「あんたと一緒に組んでるのは、どんな子たちなんだい」
「どんなって」
「ガランさんの手紙には、名前しか書いてなかった」
俺は、少し考えた。
「一人は、魔力がまったくない。でも、数字と、頼むのが、すごくうまい。もう一人は、術が、三秒しか持たない。でも、その三秒で、橋を一本、守った」
「剣は、一回。術は、三秒。魔力は、ゼロ」
母は、指を折って、数えた。それから、ふっと笑った。
「運ぶには、ちょうどいい組み合わせだね」
「運ぶ?」
「一人で全部持てる奴は、いない。足りない奴同士が、足りない分を、順番に持つ。それが、荷物の運び方の、基本だよ」
そう言われて、初めて、少しだけ、肩の力が抜けた。
母は、剣を持ち上げて、改めて、俺の顔を、真正面から見た。
「借金は、六十枚だと、聞いたよ」
「誰に」
「ガランさんから、手紙が来てた」
手紙。
俺は、思わず、うつむいた。恥ずかしさが、首の後ろから上がってくる。
「ごめん」
「謝らなくていい」
母は、静かに言った。
「返せ。自分で、働いて、返せ。私は、一枚も出さない。でも、仕事が必要なら、荷車の修理でも、運搬具の使い走りでも、回してやる」
それは、優しいのか、冷たいのか、分からなかった。ただ、母らしかった。
「うん」
「それで、今日、ここに来たのは」
「剣を、直してほしい」
俺は、思い切って言った。
「刃じゃなくて。使い方を、変えたい。一回しか、斬れないなら、その前と、後を、どうにかしたい」
「前と、後」
「ラウルに、言われた。一回の前と、後を、考えろって」
「ふうん」
母は、腕を組んだ。
しばらく、工房の中に、鎚の音も、鉋の音もしなかった。外の通りを、荷車が通る音だけが、遠くで聞こえた。
「あのさ、イヴォ」
「うん」
「あんたは、小さいころから、荷物の紐の結び目が、解けにくかった」
「え?」
「覚えてないだろ。三歳のとき、荷車に積んだ樽の縄を、あんたが結んだんだよ。大人が、三人かかっても、すぐには解けなかった」
初耳だった。
「何が言いたい」
「あんたは、結ぶのが得意なんだよ。一回の仕事の、前と後を、繋ぐのが」
母は、俺の剣を、作業台の中央に置いた。柄の巻き革を、指で押す。ぎゅっ、と音がした。
「あんたの剣は、まだ、あんたの手に、馴染んでない」
「うん」
「刃は、悪くない。だけど、柄が、斬る人の形をしてる。あんたは、斬る人じゃなくて、運ぶ人の形に、近いんだよ」
母は、にやりと笑った。
「直すから、置いていきな」
それが、母の、いつもの言い方だった。
母は、刃より柄を見た。




