第九話 誰が毎日、彼のそばにいるか
商会に着いたのは、日が傾きはじめた頃だった。
セレナは荷検めの土間には入らず、裏の井戸端で手を洗った。三度洗い、袖口も濡らして絞った。懐の包みは、井戸の脇の石の隙間に押し込んだ。あとで取りに来ればいい。
持ったまま建物に入るのは、あまりに愚かだった。
「今日は検分の日じゃないぞ」
二階の事務室で、ラウルは帳簿をつけていた。羽根ペンの音が規則正しい。
「伺いたいことがあります」セレナは戸口に立ったまま言った。「六年前から今日まで、あなたの身の回りで変わっていないものを教えてください」
ペンが止まった。
「妙な訊き方だな」
「答えてください」
ラウルは羽根を置き、椅子の背にもたれた。
「家だ。この建物。寝室は三階の東。使っている寝具は年に二度替える。食事は台所で作らせたものを、ここか居間で食う。服は仕立て屋が同じところだ。六年前から変わっていないものなら、大半がそうだ」
「毎日、あなたに触れるものを扱う人間は」
「何人かいる」
「全員教えてください」
ラウルの目が細くなった。
「セレナ」
「はい」
「あんた、俺の家の中に何かがあると思っているな」
沈黙が落ちた。
窓の外で、荷車が坂を降りていく音がした。
セレナは自分の指先を見た。井戸で三度洗った手だ。匂いは残っていない。それでも、灰華をひとつまみ懐に入れて坂を登ってきたという事実は消えない。
いま自分は、二つの道の入口に立っている。
一つは、黙って調べること。相手に気づかれず、証拠を揃えてから告げる。安全で、効率がいい。六年前の二人は、たぶんこの道を選んだ。
もう一つは、いま言うこと。
――喋ったから、片方は街を出て、片方は浮いた。
あの女はそう言った。だがよく考えれば、二人は「誰か」に喋ったのだ。ラウルにではない。恩がある、放っておけないと言いながら、当人には言わなかった。当人に言わずに周りを嗅ぎ回れば、当然どこかで漏れる。
セレナは顔を上げた。
「あなたの嗅覚は、病気ではありません」
ラウルは動かなかった。
「灰華という香料があります。組合の目録に載っていない。焙ると白い粉が浮いて、吸うと三日ほど鼻が利かなくなります」
「三日」
「単体では三日です」セレナは言った。「六年利かせるには、繰り返し与え続けるしかありません」
部屋の中の音が全部消えたようだった。
ラウルは長いこと、机の上の一点を見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「――続けている、ということか」
「はい」
「六年間」
「はい」
「誰が」
「わかりません」セレナは言った。「わかっているのは、あなたに毎日触れられる位置にいる人間だということだけです」
ラウルが立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、思いのほか大きく響いた。彼は窓辺まで歩いて、外を見た。背中は広く、まったく揺れていなかった。だが、窓枠にかけた手の指だけが、少し曲がっていた。
「証拠は」
「ありません」
「じゃあなぜ俺に言う」
「言わずに調べれば、あなたは私を疑うことになるからです」
彼が振り返った。
「私は街に来て十数日です。どこの組合にも属していない。あなたの家の中を嗅ぎ回る理由も、機会もある」セレナは続けた。「もし私が黙って調べて、後から犯人を告げたら、あなたはこう考えるでしょう。この女はいつからこれを知っていたのか、と。その疑いは消せません。だから先に言います。今日、私は灰華をひとつまみ手に入れました。今は裏の井戸の脇の石の下にあります」
ラウルの眉が上がった。
「持ってきたのか」
「本物を知らなければ、探せません」
「その説明を、俺が信じると思うか」
「思いません」セレナは言った。「だから先に置き場所を言いました。中身を確かめてください。減っていれば、疑ってくださって結構です」
長い沈黙があった。
やがて、ラウルは窓辺から離れて、机に戻った。座らなかった。両手を机について、彼はセレナを見た。
「六年前」低い声だった。「妹に呼ばれて瓶を嗅いだと言ったな」
「はい」
「あれが原因だと、俺はずっと思っていた。あいつが作った香が失敗作で、俺が壊れた。だからあいつは香に触れなくなった。俺はそう理解して、そう納得して、六年生きてきた」
セレナは動かなかった。
「あんたの話が本当なら」ラウルは言った。「あいつは何も悪くない」
言葉が終わっても、彼はしばらくそのままだった。
六年分の何かが、静かに位置を変えているのがわかった。セレナは口を挟まなかった。人が自分の物語を書き換えるとき、外から手を出してはいけない。
「――違うな」やがて彼は言った。「もっと悪い」
「はい」
「あいつは自分のせいだと思って、香をやめて、領地に引っ込んで、六年間そう思い続けている」ラウルの声が硬くなった。「誰かが、それをさせている」
「はい」
「セレナ」
「はい」
「調べろ」彼は机から手を離した。「金は出す。人も出す。ただし条件がある」
「伺います」
「俺に隠すな。何を掴んでも、その日のうちに俺に言え。あんたが黙って動いた瞬間から、俺はあんたを信じられなくなる」
「同じことをお願いします」セレナは言った。「あなたも私に隠さないでください。誰を疑いたくないか、を含めて」
ラウルの表情がわずかに動いた。図星を突かれた顔だった。
「まず名前を」セレナは紙を出した。「六年前から今日まで、あなたの生活に毎日関わっている人間を」
ラウルは指を折りはじめた。
「台所頭のマルタ。二十年いる。俺の乳母だった時期もある」
セレナは書いた。
「家令のオーギュスト。父の代からだ。今年で三十一年」
「洗濯と部屋の女中が三人。入れ替わりがあるから、六年通しているのはひとりだ。ネリ。二十四になる」
「それから」
ラウルの指が止まった。
「――叔父がいる」
「叔父さま」
「父の弟だ。ジョスラン・アーデンフェルト。商会の南方交易を仕切っている」彼は言った。「香料の仕入れは、もともとあいつの管轄だった」
セレナは筆を止めた。
灰華は南でしか採れない。この街に流し込めるのは、交易の上にいる人間だけ。
「今も、ですか」
「今は俺が見ている。六年前に取り上げた」ラウルは言った。「鼻が壊れた直後にな。仕入れの数字が合わなかったからだ」
「取り上げてから、あなたの嗅覚は」
「変わらん」
セレナは紙を見下ろした。
五つの名前が並んでいる。四人は毎日そばにいる者で、ひとりは商会の中にいる血族だ。
「叔父さまは、この建物にお住まいですか」
「別棟だ。だが飯は同じ台所から出る」
同じ台所。
毎日、同じ手を経て運ばれるもの。
「マルタという方は」セレナは訊いた。「あなたの食事を、六年間ずっと作っているのですね」
「そうだ」
「一度も休まずに」
ラウルが答えようとして、口を閉じた。
それから、少し掠れた声で言った。
「――去年、三日寝込んだ。熱でな」
「そのとき、あなたの鼻はどうでしたか」
彼の目が見開かれた。
セレナは筆を置いた。
「思い出してください。三日間、何か違いはありませんでしたか。匂いではなく、味でも構いません。ごく薄い、輪郭のようなものでも」
ラウルは長いこと黙っていた。
やがて、彼は自分の掌を見た。
「四日目の朝だ」
「はい」
「粥を食って、塩が濃いと思った」低い声だった。「マルタが寝込んだ間、ネリが作っていた。塩が濃いと思って、俺は――そう思ったこと自体を、忘れていた」
彼は顔を上げた。
「塩の味がわかったんだ」




