第十話 台所の順番
翌朝、セレナは台所に立った。
商会の台所は、建物の北側の半地下にあった。石の床は水で濡れていて、天井の梁から乾いた薬草の束が下がっている。竈が三つ。うち一つは常時火が入っていて、大鍋が湯気を上げていた。
マルタは、五十がらみの背の低い女だった。腕が太く、手の甲に古い火傷の跡が三つある。彼女はセレナを一瞥して、それから包丁を動かす手を止めなかった。
「坊ちゃんが、あんたに台所を見せろってさ」
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑だよ」あっさりと言った。「けど坊ちゃんの言うことだ。何が見たい」
「順番です」
マルタの手が止まった。
「順番」
「はい。朝、火を入れるところから、あの方の前に器が置かれるまで。誰が何に触れて、どの順で運ばれるか」セレナは言った。「味付けの中身には興味がありません。触った人の順番だけです」
マルタはしばらく彼女を見ていた。それから、包丁を置いて手を拭いた。
「あんた、何を疑ってる」
「疑っていません。数えています」
「同じことだろ」
「違います」セレナは言った。「疑うのは人を選ぶことです。数えるのは、選ばずに全部並べることです。並べたあとで減らします」
台所の奥で、鍋の蓋が鳴った。
マルタは鍋に歩いていって蓋をずらし、灰汁を掬った。背中を向けたまま言った。
「あの子は、六年間ずっと坊ちゃんのために飯を作ってる」
「あの子、というのは」
「ネリだよ」
セレナは筆を止めた。
「あなたが作っているのでは」
「あたしが作るのは商会全部の分さ。使用人も荷役も入れて三十人前」マルタは灰汁を桶に落とした。「坊ちゃんの分だけは別鍋だ。それはネリがやってる。六年前からずっとね」
「なぜ別なんですか」
「坊ちゃんが味がわからないからだよ」マルタは振り返った。その顔に、はじめて感情が出た。「三十人前と同じ味付けじゃ、あの人は何も食えない。味がわからない人間はね、量も加減がわからなくなる。放っとくと食わなくなるんだ。六年前、坊ちゃんは半年で骨と皮になった」
セレナは息を詰めた。
「だからネリが、匂いの立つもんを作るようになった。生姜だの、山椒だの、酢だの。味じゃなくて刺激で食わせる。あの子が来るまで、坊ちゃんは飯を食い物だと思ってなかったよ」
マルタは桶を置いた。
「疑うなら、あの子から疑うんだろうね。毎日ひとりで、坊ちゃんの鍋を握ってるんだから」
「そうです」
「あんた、はっきり言うね」
「はい」
マルタは、ふん、と鼻を鳴らした。嫌悪ではなかった。何かを値踏みする音だった。
「――去年、あたしが寝込んだ話は聞いたかい」
「聞きました」
「あの三日、ネリはあたしの代わりに三十人前を作った。坊ちゃんの別鍋まで手が回らなくて、坊ちゃんは同じ鍋の粥を食ったんだ」マルタは言った。「あとで坊ちゃんが、塩が濃いって言ったよ。あたしゃそれを聞いて、ああ、と思った」
「何を思われたんですか」
「久しぶりに、この人が味の文句を言ったな、と」
セレナは紙に書いた。
――マルタ寝込む。ネリは三十人前に忙殺。別鍋は作られず。ラウルは共用の粥を食べた。四日目の朝、塩の味を感じた。
その日、セレナは台所に一日いた。
竈に火が入るのは夜明け前。水は井戸から二人の下働きが汲む。薪は荷役が運ぶ。野菜は市場から、肉は週に二度、河港の店から。
別鍋が始まるのは、三十人前が仕上がった後だった。
ネリという娘は、思っていたより小柄だった。二十四には見えない。髪をきつく結い上げて、袖を紐で縛り、動きに無駄がなかった。彼女はセレナに一礼し、それきり喋らなかった。
セレナは邪魔にならない位置に立って、手だけを見ていた。
鍋。水。生姜を薄く削る。干した柑橘の皮を、ほんの少し。
――柑橘の皮。
セレナの視線が止まった。
ネリが使ったのは、いい皮だった。市場の並品ではない。日陰で干して、風に当てたもの。処理の丁寧さが削り口に出る。
「その皮は」セレナは訊いた。「どこで手に入れておられますか」
ネリの手が止まった。
「……別棟から、いただいております」
「別棟」
「ジョスラン様のところです」小さな声だった。「南の荷が入ると、台所に少し回してくださるので」
セレナは自分の呼吸を意識して整えた。
「よく回ってくるのですか」
「月に一度か、二度」
「他には何を」
「香辛料と、乾かした根と、あとは……お茶の葉を」ネリは俯いた。「わたしのような者が使わせていただくには、もったいないものばかりで」
もったいないもの。
商会の南方交易を仕切る叔父が、月に一度か二度、台所の下働きに上等の香料を分け与えている。
――それは親切だ。
あまりにも親切だった。
「ネリさん」セレナは声を落とした。「いただいたものは、全部お使いになりますか」
「はい。……いえ、坊ちゃまのお鍋にだけ」
「他の三十人前には」
「使いません。量が足りませんので」
セレナは、竈の火を見た。
三十人前には使わない。ラウルの別鍋にだけ使う。
だから、マルタが寝込んだ三日間だけ、それが途切れた。
完璧だった。仕組みとして、あまりにも完璧だった。誰も嘘をついていない。ネリは善意で作り、マルタは善意で任せ、ラウルは善意で食べている。六年間、毎日。
「ネリさん。ひとつお願いがあります」
「はい」
「明日から三日、別棟からいただいたものを、一切使わないでください」
娘の顔が上がった。目に怯えがあった。
「……何か、わたし」
「あなたは何もしていません」セレナははっきり言った。「これは私が確かめたいことです。もし何か言われたら、私の指図だと言ってください。名前を出して構いません。責任は全部こちらが取ります」
「でも、坊ちゃまのお食事が」
「三日だけです。味が薄くて叱られたら、それも私のせいにしてください」
ネリは長いこと迷っていた。
やがて、彼女は小さく頷いた。
その夜、セレナは事務室に上がった。
ラウルは待っていた。約束通り、その日のうちに報告する。
「経路が一つ見つかりました」
「言え」
「別棟から台所に、月に一度か二度、香料が回っています。柑橘の皮、香辛料、根、茶葉。使うのはネリさんだけで、あなたの鍋にだけ入っています。三十人前には入りません」
ラウルの顔から、色が抜けた。
「叔父か」
「わかりません」セレナは首を振った。「回っているのは事実です。中身に灰華が入っているかどうかは、まだ確かめていません」
「なぜ確かめない」
「今、別棟の品を検分すれば、必ず気づかれます」セレナは言った。「ですから三日、止めました。ネリさんに、別棟のものを使わないよう頼みました」
「三日で何がわかる」
「あなたの鼻が、少しでも戻れば」
ラウルは黙った。
「戻らなければ、経路は他にあります。寝具か、衣服か、香か。順番に潰します」セレナは続けた。「戻れば、そこが入口です」
「戻ったとして」ラウルは言った。「叔父が犯人だという証拠にはならんな」
「なりません」
「なぜ止めない、と俺は思っていた」彼は掌を机に置いた。「たった今、あんたが止めた。だが止めたのは経路であって、人じゃない」
「はい」
「三日後、俺の鼻が戻ったら」ラウルの声が低くなった。「相手も気づく」
セレナは頷いた。
そこは、彼女もずっと考えていた。
「気づきます」
「そのときあんたは、六年前に河に浮いた男と同じ位置に立つ」
「はい」
ラウルは椅子から立ち上がった。窓辺には行かなかった。彼はセレナの前まで来て、見下ろした。
「やめろとは言わん」
「はい」
「だが今日から、あんたは染物屋で寝るな」
セレナは目を上げた。
「三階の東の、俺の寝室の隣が空いている」ラウルは言った。「物置だが、鍵はかかる。あの子どもも連れてこい」
「私は雇われの目利きです。そこまでしていただく理由が」
「理由なら言った」彼は言った。「あんたが浮いたら、俺は六年前に戻る」




