第十一話 三日目の朝
物置は、思ったより広かった。
古い帳簿の束が壁際に積まれ、窓は東を向いている。掃除は一日で終わった。リタは寝台代わりの木箱に毛布を敷いてもらうと、その上で三回跳ねてから丸くなった。
「セレナ、ここ高い」
「三階だからね」
「船が見える」
子どもは窓の桟に顎を乗せて、河港を見下ろしていた。染物屋の路地からは空しか見えなかった。
セレナは荷を解きながら、その背中を見ていた。連れてこい、とラウルは言った。ついでのように。だがこの子は、いま自分と同じ位置に立っている。染物屋に一人で残していたら、それこそ何が起きるかわからなかった。
――浮いたら六年前に戻る、か。
あの言い方が、セレナには妙にしっくり来ていた。心配している、とは言わなかった。損失の話をした。この人はずっとそうだ。
それでいい、と思った。情で守られる位置は、外されるときも情で外される。
一日目。
ネリは別棟の香料を使わなかった。生姜と塩と、市場の並品の皮だけで椀を作った。
ラウルは黙って食べた。何も言わなかった。
二日目。
朝、セレナは台所の隅に立っていた。ネリの手は昨日より硬かった。何度も鍋の縁を拭き、匙を持ち替える。
「昨日、何か言われましたか」セレナは訊いた。
「別棟のかたが、いつもの品はどうかと」娘は俯いた。「切らしております、と申し上げました」
「よく言えました」
「嘘を、申しました」
「嘘ではありません。使っていないのですから」
ネリは何か言いかけて、やめた。指の関節が白かった。
セレナは自分の失敗に気づいた。この娘に嘘をつかせている。責任は取ると言ったが、罪悪感までは引き受けられない。それは持った本人の中にしか置けない。
「ネリさん。三日目が終わったら、私が別棟に行きます」セレナは言った。「あなたが断ったのではなく、私が止めたのだと、私の口から言います」
「そんなことをなさったら」
「はい」
「……あの、危のうございます」
娘が顔を上げた。目に、はっきりと怯えがあった。
セレナは息を詰めた。
いま、この娘は「危ない」と言った。何が危ないのかを、この娘は知らないはずだった。ただの善意の運び手なら、香料を断ることの何が危ないのか、想像もつかないはずだ。
「ネリさん」セレナは声を落とした。「何を、ご存じですか」
ネリの唇が動いた。
そのとき、台所の戸が開いた。マルタが薪を抱えて入ってきて、二人を見て足を止めた。
ネリは鍋に向き直った。
それきり、その日は口を開かなかった。
二日目の夜、セレナは事務室に上がらなかった。
報告することがない、というのは嘘だった。ネリの怯えは報告すべきだった。だが、まだ形になっていない。あの一言だけを持っていけば、ラウルは娘を呼びつけるだろう。呼びつけられた娘は、それ以上何も言わなくなる。
――隠すな、と言われた。
セレナは廊下に出た。三階の東、事務室の明かりはまだ点いていた。
彼女は戸を叩いた。
「ネリさんが、危ないと言いました」
ラウルが顔を上げた。
「何が危ないと」
「わかりません。訊く前に人が入ってきました」セレナは戸口に立ったまま言った。「報告としては未完成です。ですが、隠すなと言われましたので、未完成のまま持ってきました」
ラウルはペンを置いた。
「呼びつけるなと言いたいんだな」
「はい」
「なぜ」
「怯えている人間は、上の人に呼ばれると、もっと言わなくなります」
彼はしばらく考えて、それから頷いた。
「わかった。俺は動かん」
セレナは意外だった。顔に出たらしい。ラウルが片眉を上げた。
「不服か」
「素直だと思いました」
「六年前に自分でやったからだ」彼は椅子に背を預けた。「妹に、何があったか言えと迫った。三日眠って起きたばかりの妹にだ。あいつは泣いて、覚えていないと言った。それきり何も言わなくなった」
部屋が静かになった。
「同じ手は使わん」
セレナは頭を下げて、戸を閉めた。
三日目の朝は、雨だった。
セレナは夜明け前に起きて、台所へ降りた。ネリはもう火を入れていた。三十人前の鍋が湯気を上げ、その隣に小さな鍋が置かれている。
粥だった。米と、塩と、生姜だけ。
セレナは何も足さないよう頼んでいたが、この娘は自分の判断で生姜も抜いていた。刺激で誤魔化さない、ということだ。
「今日はこれで」ネリが小さく言った。「もし何も感じられなかったら、味付けのせいだと言われないように」
「――ありがとうございます」
セレナは、この娘を疑っていた自分を、少しだけ恥じた。恥じたまま、疑いは外さなかった。それが仕事だった。
椀が運ばれたのは、朝の六つ半だった。
ラウルは居間の窓辺で食べる習慣だという。セレナは扉の外に立った。中には入らなかった。見られていると人は舌が鈍る。
匙の音が二度。
それから、止まった。
長かった。
セレナは自分の心臓の音を数えた。十まで数えて、まだ音がしない。
椀を置く音がした。
扉が開いた。
ラウルが立っていた。手には椀を持ったままだった。彼の顔は、これまで一度も見たことのない顔をしていた。表情がない、のではない。表情の作り方を忘れた人間の顔だった。
「セレナ」
「はい」
「米の匂いがする」
彼は椀を持ち上げ、鼻に近づけた。
もう一度、深く吸った。
「――薄い。ほとんどない。だが、ある」ラウルの声が掠れた。「湯気の匂いだ。米を炊いた湯気の」
セレナは膝の力が抜けそうになるのを、腹に力を入れて堪えた。
「三日で、そこまで」
「戻ったのか」
「戻っていません」セレナははっきり言った。「毒が抜けはじめただけです。三日分の抜けで湯気がわかったなら、経路はそこで合っています」
ラウルは椀を見下ろした。
それから、彼はゆっくりと廊下の壁に背を預けた。長身の男が、壁に体重を預けて立っている。それだけの動作が、六年分の重さに見えた。
「――六年だぞ」
「はい」
「六年、俺は自分の家で飯を食っていた」
「はい」
「毎日だ。ネリが作って、マルタが見ていて、俺が食った」
セレナは何も言わなかった。
やがてラウルは壁から離れ、椀を窓辺の卓に置いた。
彼が振り返ったとき、その顔にはもう、商人の目が戻っていた。
「別棟に行くと言ったな」
「はい。ネリさんではなく私が止めたと、こちらから告げます」
「一緒に行く」
「おやめください」セレナは首を振った。「あなたが同行すれば、商会が疑っていると告げるのと同じです。私一人なら、雇われの目利きが勝手にやったことで済みます」
「済まん」ラウルは言った。「済まないから危ないんだろう」
「危なくない状況はもうありません」セレナは言った。「三日分、あなたの鼻が抜けた。その事実が、今日じゅうに相手に伝わります。ネリさんが断った時点で、もう始まっています」
「なら急ぐ必要がある」
「はい。ですから今日、行きます」
ラウルは黙って彼女を見ていた。
それから、机の引き出しを開け、何かを取り出してセレナに差し出した。
小さな鍵だった。
「三階の物置の鍵は、二本ある」彼は言った。「もう一本は俺が持っていた。返す」
セレナは受け取った。
「日暮れまでに戻れ」
「はい」
「戻らなかったら、俺が行く」
それは心配ではなく、予定の通告だった。
セレナは鍵を握って、階段を降りた。
雨は上がりかけていた。
別棟は、母屋から中庭を挟んだ西側にある。石畳が濡れて、朝の光を跳ね返していた。
中庭を半分ほど渡ったところで、セレナは足を止めた。
別棟の玄関の前に、男が立っていた。
外套の裾が濡れている。もう出かける支度をしていたのか、あるいは戻ってきたところか。年は五十前後。ラウルに似た骨格だが、肉のつき方が違った。この人は荷を運んだことがない体をしている。
男は彼女を見ると、驚きもせずに微笑んだ。
「君が、甥の雇った鼻かね」
セレナは頭を下げた。
「セレナと申します」
「ジョスラン・アーデンフェルトだ」
男は玄関の扉を開け、中へ入るよう手で示した。
「ちょうどよかった。君と一度、香料の話がしたかったんだ」




