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奪われた香りは、私のものです ~王家御用達の調香師見習いは、追われた辺境で自分の工房を持つことにした~  作者: やまご


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第十二話 叔父の書斎

 別棟の中は、母屋とはまるで違った。

 母屋が砦なら、こちらは屋敷だった。廊下に絨毯が敷かれ、壁には海図が額装されて並んでいる。どれも南方の海のものだった。使い込まれた海図ではない。飾るために描き直させたものだ。

 書斎に通されると、匂いが変わった。

 セレナは戸口で一度、止まった。

 濃い。乳香、白檀、それから丁子。上等な香が三種、部屋に焚き染められている。安物を隠すための重ね方ではない。金をかけた人間の部屋の匂いだった。

 だが、濃すぎた。

 これだけ焚けば、他の匂いは全部沈む。

「座りなさい」

 ジョスランは自分から先に腰を下ろした。革張りの椅子で、彼はセレナに向かい合う位置に手を差し向けた。

 セレナは座った。膝の上で手を組み、部屋の空気を浅く吸った。深く吸ってはいけない。この部屋は、深く吸わせるように作られている。

「甥の鼻になったそうだね」ジョスランは足を組んだ。「聞いたときは驚いた。あれは目利きを雇わない男だ。三年前に一度、痛い目に遭っている」

「伺いました」

「四千ドラムだ。よく雇う気になったものだ」男は微笑んだ。「よほど君の腕がよかったのか、それとも、よほど困っていたのか」

「両方かと存じます」

 ジョスランが笑った。声を出して、短く。

「率直だな。王都の出だと聞いたが」

「はい」

「どこの工房かね」

「申し上げられません」

「ほう」

「登録を抹消されておりますので」セレナは言った。「工房の名を出せば、あちらの迷惑になります」

 嘘ではなかった。だが本当でもない。工房の名を出したくない理由は別にある。

 ジョスランは、なるほど、と頷いた。それ以上は追わなかった。追わなかったことが、セレナには引っかかった。

 商会の南方交易を仕切る男が、新参の目利きの前歴を確認しない。

 ――もう知っているのだ。

「今日は何の用かな」

「ご報告に参りました」セレナは背筋を伸ばした。「台所に回していただいている香料を、当面、使用しないことにいたしました。私の判断です」

 部屋が静かになった。

 香の煙が、天井近くで薄く層になっている。

 ジョスランの表情は変わらなかった。困惑も、動揺も、怒りもない。ただ、ゆっくりと足を組み替えた。

「理由を聞いても」

「あの方の食事の香りが、強すぎるからです」

「強すぎる」

「はい。匂いのわからない方に刺激の強いものを出し続けると、鼻ではなく喉と胃が疲れます」セレナは言った。「六年続いております。一度、全部抜いて、下地を作り直したいのです」

 完全な嘘ではない。理屈としては通っている。ネリの生姜も山椒も、確かに刺激で食わせるやり方だ。

 ジョスランはしばらく彼女を見ていた。

 それから、机の上の小箱に手を伸ばした。

「君は、これを見たことがあるかね」

 箱の蓋が開いた。

 中には、乾いた根が入っていた。指の太さほどの、灰色がかった根。

 セレナは息を止めた。

 ――違う。灰華ではない。

「甘松です」彼女は言った。「南方産。等級は高い方かと」

「正解だ」ジョスランは満足そうに頷いた。「では、これは」

 二つ目の箱。今度は樹脂だった。

「乳香。若脂が混じっていません。上等品です」

「これは」

 三つ目。

 箱が開いた瞬間、セレナの喉の奥に、冷たいものが触れた。

 白っぽい粉を吹いた、小さな塊。

 金属のような後味。

 ――灰華だ。

 彼女は、自分の顔が動かなかったことを祈った。

「これは、存じません」

 ジョスランは箱を閉じなかった。開けたまま、机の上に置いていた。

「珍しいだろう。名前もない」男は言った。「南の奥地でしか採れん。組合の目録には載っていない。載っていないから、値もついていない。私は趣味で集めている」

「趣味」

「交易というのは退屈な仕事でね」ジョスランは箱の縁を指でなぞった。「数字と船と人間だ。だが、名前のつかないものを持っていると、少し面白い」

 セレナは膝の上の指を、動かさないようにした。

 この人は、いま自分に見せている。

 これを知っているかと訊いておきながら、答えを求めていない。見せることが目的だ。

「一つ、伺ってもよろしいですか」セレナは言った。「その香料は、どういう匂いですか」

 ジョスランの動きが、はじめて止まった。

「――君は嗅いだのだろう」

「箱を開けられましたので、遠くから少し。ですが名前を存じません」セレナは首を傾げた。「名前のないものを、あなたはどうやって覚えていらっしゃるのかと思いまして」

 沈黙が落ちた。

 男の目が、はじめて彼女を「見た」気がした。それまでは、部屋に置かれた家具を確認するような目だった。

「面白い訊き方をする」

「調香師は、名前と匂いを結びつけて覚えます。名前がないものは、覚え方が難しいのです」

「私は覚えていない」ジョスランは箱を閉じた。「持っているだけだ」

 蓋の閉まる音が、思ったより大きかった。


「台所の件だが」男は話を戻した。「君の判断なら、それでいい」

 セレナは顔を上げた。

「よろしいのですか」

「私は好意で分けていただけだ。要らないなら止める」ジョスランは肩をすくめた。「もっとも、あれは私が選んでいるわけではない。倉から下働きが適当に見繕って持っていく。上等な品が混ざることもあれば、そうでないこともある」

 ――逃げ道を作った。

 セレナは頭の隅で記録した。誰が選んで運んでいるかを、この人は今、曖昧にした。訊いてもいないのに。

「では、そのようにお伝えします」

 セレナは立ち上がった。

「セレナ君」

 戸口で呼び止められた。

「甥は、君に何を期待している」

 振り返ると、ジョスランはまだ座ったままだった。香の煙が彼の顔の前を横切っていく。

「香料の判定です」

「それだけかね」

「それだけです」

「そうか」男は微笑んだ。「ならいい。あれは昔から、一つのものに執着する性質があってね。母親に似た。妹にも似ている」

 セレナは動かなかった。

「ヴィオラのことを、君は聞いたかね」

「お名前だけ」

「可哀想な子だ」ジョスランは言った。「才能があった。ありすぎた。若い娘が、扱えないものに手を出したんだ」

 部屋の香が、急に重く感じた。

「あの子は自分で自分の兄を壊した。それを六年、抱えている」男は静かに続けた。「私は何度も言ってやったよ。お前のせいではない、と。だが人は、自分のせいだと思い込むと、他人の言葉では剥がれない」

 ――言ってやった。

 セレナは口の中で、その言葉を転がした。

 言ってやった。何度も。六年間。

 誰が、あの少女に「自分のせいだ」と思わせ続けているのか。

「よく覚えておきなさい」ジョスランは椅子から立ち上がった。「香というものは、人を狂わせる。あの子がそうだった。君も、そうならんように」

「――ご忠告、ありがとうございます」

 セレナは頭を下げて、書斎を出た。


 中庭に出ると、雨が完全に上がっていた。

 石畳が乾きはじめている。セレナは母屋の壁まで歩いて、そこで一度、深く息を吸った。

 濡れた石。中庭の苔。遠くの炭火。

 ――抜けた。

 自分の鼻が正常であることを確かめて、彼女はようやく指の震えに気づいた。

 三つ目の箱。あれは脅しだ。

 だが同時に、あれは自信でもある。見せても平気だと思っている。理由は簡単だ。あれ単体では罪にならない。目録に載っていない香料を持っていても、法に触れない。載っていないのだから。

 証拠にならないものを、堂々と見せる。

 ――こちらの手を測っている。

 セレナは母屋の階段を上がりながら、頭の中で並べ直した。

 一、ジョスランは灰華を所持している。

 二、それを見せても構わないと判断している。

 三、台所への供給停止をあっさり認めた。

 四、ヴィオラに「お前のせいではない」と言い続けている。

 四つ目が、いちばん寒かった。

 あれは慰めの形をした、六年分の楔だ。


 事務室の扉を叩くと、ラウルはすぐに開けた。

「無事か」

「はい」

「何を言われた」

 セレナは中に入り、扉を閉めた。

「三つ、報告があります」彼女は言った。「一つ。台所への供給は、あちらから止めると約束されました。二つ。ジョスラン様は灰華を所持しておられます。私に見せました」

 ラウルの顔が強張った。

「見せた」

「はい。名前のない香料だ、趣味で集めていると」

「――それは」

「証拠になりません」セレナは先に言った。「持っていることは罪ではありませんし、私が見たと言っても、私の証言です。私は街に来て二十日の、登録のない女です」

 ラウルは机に拳を置いた。音は立てなかった。

「三つ目は」

 セレナは少し間を置いた。

「妹さんに、手紙を出してください」

「出した。三日前に」

「返事が来る前に、もう一通」彼女は言った。「今度は、こう書いてください。お前のせいではない、と誰かに言われ続けていないか、と」

 ラウルが顔を上げた。

 その目が、ゆっくりと見開かれていった。

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