第八話 桟橋の下の女
小屋は、桟橋の脚の間に挟まるようにして建っていた。
板を継ぎ足しただけの壁で、屋根は舟の帆布だ。潮が満ちれば床の高さまで水が来るらしく、下半分が黒く変色している。この街で最も安い土地であることは、匂いでわかった。魚の内臓、藻、それから――炭。
炭の匂いが濃すぎた。暖を取るには多すぎる量が、ずっと焚かれている。
セレナは戸を叩いた。
「開いてる」
中は、思ったより広かった。
床の半分を占めているのは炉だった。土を盛って作った、粗末だが正しい形の炉だ。その上に鉄の網が渡してあり、素焼きの皿がいくつも並んでいる。壁際には籠。籠の中身は根と樹皮と、乾いた虫だった。
女は炉の向こうに座っていた。年齢が読めない。四十にも六十にも見える。片方の手に包帯を巻いていて、その巻き方が慣れていた。
「薬種のじいさんからかい」
セレナは木札を差し出した。女は受け取らず、片目だけ動かして見た。
「用件を先に言いな。木札はそのあとだ」
「嗅いだ人間の嗅覚を、その場で失わせる香料を探しています」
炉の中で炭が崩れた。
女は笑わなかった。驚きもしなかった。ただ、火箸で炭を寄せ集めながら言った。
「あんた、鼻はいいのかい」
「いい方だと思います」
「じゃあ、この部屋の匂いを言ってみな」
セレナは目を閉じた。
炭。魚の内臓。藻。湿った板。それから――炉の上の皿から立つ、複数の匂い。
「皿が六つ。左から、乾いた根を焙っているものが二つ。三つ目は樹皮。四つ目が空。五つ目は……虫を焼いています。六つ目は」
言葉が止まった。
六つ目の皿から立っているものに、名前がなかった。冷たくて、金属のような後味。喉ではなく舌の奥に触れる匂い。
――ヴィオラの瓶の、三層目だ。
「六つ目は」セレナは目を開けた。「私が探しているものです」
女がはじめて顔を上げた。
彼女は火箸を置き、六つ目の皿を網から降ろした。灰を被せて火を殺し、それから戸口の方を顎で示した。
「そこの窓、開けな」
セレナが板窓を押し開けると、河の風が入ってきた。女はしばらく黙って、部屋の空気が入れ替わるのを待った。慎重さの種類が、素人のそれではなかった。
「あんた、どこの工房だい」
「王都のヴァイル工房にいました。今はどこにも属していません」
「王都か」女は鼻を鳴らした。「じゃあ組合の香料目録は頭に入ってるね。あの中に、これは載ってない」
「はい」
「なぜだと思う」
「危険だからでは」
「違うよ」女は包帯の手を炉にかざした。「載せると、扱いを許可した記録が残るからさ。目録に載せた瞬間、誰が持っていて誰が売ったかを組合が把握しなきゃならない。把握したら責任を負う。だから最初から、無いことにしてある」
セレナは息を吸った。
名前のない香料。番号だけで呼ばれる匣の中身。
――ヴィオラの母の匣は、目録に載らない香料の匣だ。
「名前はあるんですか」
「あたしらは灰華と呼んでた」女は言った。「灰の花。焙ると白い粉が浮く。あれを吸うと、三日は鼻が利かなくなる」
「三日」
「そう、三日だ」
女はそこで一度言葉を切った。
「六年利かないってのは、灰華だけじゃ起きない」
部屋の空気が止まった気がした。
「知っているんですね」セレナは言った。「アーデンフェルトの」
「街中が知ってるよ。坊主の鼻が壊れたことはね」女は炉に炭を足した。「でも中身を知ってるのは、そう多くない」
「教えてください」
「なんであんたが聞くんだい」
「雇われています。鼻として」
「鼻として雇われたなら、鼻の仕事だけしてりゃいい」
「鼻の仕事です」セレナは一歩踏み込んだ。「あの人は匂いがわからないから、目利きを雇うしかない。目利きを雇えば、目利きに騙される。六年間ずっとそうだった。私が今その位置にいる。私が辞めたら、次の誰かが同じ位置に入る。その構造がある限り、あの商会は永久に人質です」
女の目が、少しだけ細くなった。
「――あんた、優しさで言ってないね」
「はい」
「そりゃいい」女は火箸で炉の縁を叩いた。「優しさで来た奴は二人とも駄目だった」
セレナの背筋が冷えた。
「六年前の、二人ですか」
「ひとりは商人でね。坊主に恩があったんだと。もうひとりは医者崩れさ。正義感が強くてね」女は淡々と言った。「二人とも、こう言った。ひどい話だ、放っておけない。ひどい話だと思ってる人間は、必ず誰かに喋る。喋ったから、片方は街を出て、片方は浮いた」
「喋る相手がいたということですね。この街に」
「いるさ」
「誰ですか」
「知らない」女は首を振った。「本当に知らない。ただ、ひとつだけ言える。灰華は自然には手に入らない。焙る技術がいるし、原料は南でしか採れない。この街に流し込める人間は、交易の上の方にしかいない」
交易の上。
アーデンフェルト商会は、この街の交易の上そのものだ。
セレナは考えた。ラウルではない。彼が自分の鼻を潰す理由がない。では、六年前に商会の上にいた人間。
「アーデンフェルト家の当時の当主は」
「坊主の父親さ。四年前に死んだ」女は言った。「病気でね。今度は本物の病気だ」
帰り際、女は籠から小さな包みを取り出して、セレナの前に置いた。
「灰華だ。ひとつまみある」
「いただけません」
「金は取るよ。銀貨一枚」
セレナは懐を探った。持っていたのは銅貨が十七枚だった。
「今は払えません」
「じゃあ貸しだ」女は包みを押しやった。「持っていきな。あんた、これから何度も嗅ぐことになる。本物を知らずに探すのは、目隠しで縄を解くようなもんだ」
「なぜ、私に」
「じいさんが木札をくれたからさ」女は炉に向き直った。「あたしが登録を剥がされたとき、庇ってくれたのはあいつだけだった。だから、あいつがよこした奴には一度だけ答える。一度だけだよ。次に来ても何も出ない」
セレナは包みを受け取り、頭を下げた。
戸を開けると、桟橋の隙間から午後の光が落ちていた。板の下で水が鳴っている。
「娘」
背中に声がかかった。
「灰華は、吸わせるのが難しい香料じゃない。誰でも撒ける」女は言った。「難しいのは、六年利かせることの方だ。あれをやるには、続けなきゃならない」
セレナは振り返った。
「続ける、というのは」
「一度で終わるもんじゃないってことさ」
戸が閉まった。
坂を登りながら、セレナは包みを握りしめていた。
一度では終わらない。
つまり、六年間、繰り返し与えられているということだ。
ラウルは毎日どこかで、それを吸っている。食事か、寝具か、衣服か、香か。彼自身には匂いがわからないのだから、気づきようがない。
――誰が。
六年前の当主は死んだ。ならば今、続けているのは別の人間だ。商会の内側にいる誰かが、六年間、毎日それをやっている。
セレナは足を止め、坂の上の石造りの建物を見上げた。
あの中の誰かだ。
そして自分は、その建物に月四度出入りしている、街に来て十数日の、どこの組合にも属していない女だった。
――疑われるのは、私だ。
背中に、遅れて汗が浮いた。




