第七話 病ではないもの
「これで最後にする」と書かれた瓶は、栓が固かった。
封蝋ではなく、栓そのものが膨らんで首に噛んでいる。六年、誰も触っていない証拠だった。セレナは瓶を布で包み、湯を張った桶に首まで浸けた。急に温めると中身が動く。ゆっくり、指で温度を確かめながら、四半刻かけて緩ませた。
抜けたとき、音は鳴らなかった。空気が漏れる、細い音がしただけだ。
セレナは瓶を顔から遠ざけた。鼻から離して、立ち上ってくる層の一番上だけを吸う。
――甘い。
最初にそれが来た。柔らかい、蜜と花の中間のような甘さ。人が「いい匂い」と呼ぶ種類のものだ。
二層目。乳香。上等の、若脂の混ざっていないもの。
三層目で、彼女は瓶に栓を戻した。
手が汗ばんでいた。
三層目に、知らない匂いがあった。植物ではない。樹脂でもない。動物性の香料に似ているが、それとも違う。冷たくて、金属のような後味が舌の奥に残る。嗅いだのは鼻なのに、味として感じた。
匂いを味で感じるとき、それは大抵、体に入っている。
セレナは戸口を開け放ち、外の空気を吸った。河の匂い、タール、魚。それが正常に嗅ぎ分けられることを二度確かめてから、土間に戻った。
「セレナ、顔がへん」
リタが炭籠を抱えて立っていた。
「これに近寄らないで」セレナは瓶を棚の一番上に置いた。「いい? 絶対に触らない。栓を抜かない。約束できる子だけ、ここで働ける」
リタは炭籠を胸に抱え直して、真剣な顔で頷いた。
「わかった。ぜったい触らない」
「約束したわね」
「した」
子どもは棚をちらりと見上げて、それからセレナの袖を引いた。
「あれ、わるいもの?」
「わからない」
わからない、と口に出したことで、少しだけ頭が冷えた。
わからないものを、わかるまで分けるのが調香だ。
その日から、セレナは三階の瓶を月ごとに検分した。
四百二十六本のほとんどは、ただの記録だった。柳、干し草、雨、南倉の裏。ヴィオラという少女は、街の匂いを片端から捕まえて瓶に閉じ込めていた。素人の遊びではない。抽出の腕は確かだった。十七歳でこれなら、王都の工房でも上から数えた方が早い。
変化は、九の月の終わりから始まっていた。
それまで札には場所と時間しか書かれていない。ところが九の月の八十七本目から、別の書き込みが増える。
――「母さまの匣に入っていたもの」
――「同じく。少し古い」
――「同じく。これだけ色が違う」
母の匣。
ラウルは母方が香を扱う家系だと言った。ヴィオラは途中から、自分で捕まえた匂いではなく、家に伝わる香料を扱い始めている。
十の月に入ると本数が急減する。十四本。そのすべてが、母の匣の香料を組み合わせた試作だった。札には配合が書いてある。
三の一、七の二、十一の五。
番号だ。母の匣の中身に振られた番号らしい。名前ではなく番号で呼ぶということは、匣の中身には名前がないということだ。
セレナは十四本を順番に嗅いでいった。
一本目、二本目。ただの練習だ。乳香と没薬の比率を変えているだけ。
六本目で、甘さが入ってくる。
九本目で、あの冷たい後味の断片が混ざり始めた。ごく薄い。舌の奥に一瞬だけ触れて、すぐ消える。
十二本目。濃くなっている。
十四本目――最後の一本を嗅いだとき、セレナは反射的に息を止めた。この段階で、もう「作ろうとしているもの」がはっきり見えた。
ヴィオラは、匣の中の何番かを主役に据えようとしていた。三の一でも七の二でもない。もっと後ろの番号だ。十の月の試作は、その一つを他の香料でどう囲むかの実験だった。
そして十一の月、彼女は完成させた。二本作った。
一本を兄に渡し、もう一本には「これで最後にする」と書いた。
――最後にする。
完成したから最後、なのか。
それとも、これを最後にやめると決めていたのか。
セレナは机に紙を広げ、十四本の配合をすべて写した。指が動くのが自分でわかった。王都で三年やっていた作業と同じだ。他人の試作から意図を読む。ガレル師の失敗作を毎晩並べて、この人は何を作ろうとしているのかを当てる。あれは彼女にとって遊びだった。
書き終えて、顔を上げると外が暗かった。リタが土間の隅で毛布にくるまって寝ている。
セレナは筆を置き、指を組んだ。
ひとつ、確かめなければいけないことがあった。
翌朝、彼女は商会ではなく、坂の中腹の薬種商へ行った。
白髪の店主は、セレナが名乗るとすぐに顔をしかめた。
「ああ、あんたか。露店で油を売ってた娘だろう。組合の連中が言ってたよ、効能を謳わない小賢しいのがいるって」
「謳っていません」
「わかってる。だから叱られてないんだ」店主は笑った。「で、何が要る」
「買いに来たのではありません。教えていただきたいことが」
セレナは紙に一行だけ書いて、台の上に置いた。
――「嗅いだ人間の嗅覚を、その場で失わせる香料はありますか」
店主の笑いが消えた。
彼は紙を見て、それからセレナの顔を見た。老人の目つきが変わっていた。愛想のいい商人の目から、危険物を扱う人間の目に。
「誰の話だ」
「答えていただけますか」
「答えの前に訊く。あんた、それを作りたいのか、それとも」
「戻したいんです」
店主は長く息を吐いた。
それから、店の奥へ引っ込み、戸を閉めた。
しばらくして戻ってくると、彼は台の上の紙を裏返して、代わりに小さな木札を置いた。何も書かれていない、ただの木片だ。
「うちは薬種商だ。組合に登録がある。登録のある店が答えられることには限りがある」
「わかります」
「その木札を持って、河港の南の外れに行きな。桟橋が三本並んでて、一番古いやつの下に小屋がある」店主は声を落とした。「あそこにいる女に見せろ。あたしからだと言えばいい」
「その方は」
「昔は登録があった」
それだけ言って、店主は台を拭き始めた。話は終わりだという合図だった。
セレナは木札を握った。木は軽くて、片面だけがすり減っていた。何度も誰かの掌に握られた木だ。
「ひとつだけ」店主が背を向けたまま言った。「アーデンフェルトの坊主のことなら、やめときな」
セレナは足を止めた。
「六年前、あの家のことを嗅ぎ回った人間が二人いる。ひとりは商売を畳んで街を出た。もうひとりは河に浮いた」
「事故ですか」
「事故だと発表された」
店主は雑巾を絞った。水が桶に落ちる音だけが、店の中に響いた。
外に出ると、坂の下から風が上がってきていた。
河の匂い、タール、それから朝の炭火。
セレナは木札を握ったまま、しばらくその場に立っていた。
六年前、二人が調べた。ひとりは去り、ひとりは死んだ。
ヴィオラは倒れ、記憶がないと言っている。
ラウルは匂いを失い、探すのをやめた。
誰も、続けなかった。
――続けさせなかった人間がいる。
セレナは坂を下り始めた。歩幅が自然に大きくなっていた。怒りではなかった。これは仕事だ、と思った。腐った木を替えて、腐ったものを出して、床を焼く。順番にやれば、匂いは消える。全部やらないと戻る。
桟橋は、三本とも傾いていた。




